第百三十三話 包囲網、成る
天正三年四月末。
鈴鹿。
伊賀の盟約をまとめて戻ったその日、
秀政は家中を集めるつもりでいた。
だが、その前に政親が訪れた。
「殿。千種松次郎様がお見えにございます」
「……通せ」
障子が開き、政親が入る。
変わらぬ顔。
静かに一礼する。
「ご無沙汰しております、義兄上」
「久しいな。どうした」
政親は顔を上げた。
「ご報告がございます」
間を置かず言う。
「このたび、北畠の名跡を継ぎまする」
秀政の眉がわずかに動いた。
「……千種を捨てるのか?」
「まさか」
即答だった。
「官位を得るための、一時の処置にございます。
神崎からも同じことを聞かれました。
御影との間に子が生まれたら、
北畠の家督はその子に継がせて、
千種に戻ります」
「そうか。御影殿とは仲良くしておるか?」
「はい、それはもう。
可愛くてなりませぬ」
「それならよい。
しかし、官位だと?」
「はい。北畠当主として、
従五位下・伊勢介を賜りに京へ参るつもりです」
さらりと言う。
「官位とは格です。
外交の折、
格が違えば話の通りも変わりましょう」
一歩踏み込む。
「私は誰も適任の者がおらぬ芋粥の外交を担いたい。
それもまた、義兄上のお役に立つために」
秀政はしばし考え、やがて小さく頷いた。
「……そうか。ならばよい」
短く言う。
「芋粥に尽くせ」
「無論にございます」
政親は静かに頭を下げた。
ふと、政親が口を開く。
「ところで――
大和攻めを命じられたとか?」
秀政が目を細める。
「……情報が早いな」
冗談のつもりで、少しだけ笑う。
「俺を監視しているのか?」
政親もわずかに口元を緩め、冗談で返す。
「ばれましたか」
すぐに笑顔を消し、真面目な顔に戻る。
「いえ。監視ではございませぬ。
芋粥のため、
あらゆる方角に目を光らせております」
「何も隠し立ては致しませぬ。
気になることがあれば真っ先にお伝えします。
何かあれば、
情報源としてお使いください」
「そうか」
秀政は肩の力を抜いた。
「だが、今は必要なかろう。
大和はそこまで難しくあるまい」
軽く言う。
「伊勢も、志摩も、伊賀も、手早く片付いた。
大和も同じだ」
政親は首を横に振った。
「……甘い」
はっきり言う。
「義兄上は、大和を甘く見ておられる」
空気が変わる。
「織田の状況、
そして他の軍団長の動きをご存じではないのですか?」
「いや、開発で手一杯でな」
「街づくりに熱中しすぎです。
全く世話のやける義兄上です。
では状況を申し上げます」
政親は淡々と続けた。
「まず東ですが――
武田信玄入道の死がようやく公になりました」
秀政が眉をひそめる。
「……ようやく?
隠し通せるわけがないと思ったが」
「はい。しかし、おそらく……
信玄入道の計算のうち。
念入りに隠す手はずを仕込んだようですね。
信玄入道は死の間際、織田に対する策を打ったようです。
よほど織田が……義兄上が恐ろしかったのでしょうね」
「馬鹿な、信玄公が俺を恐れるわけがない」
「ご謙遜を。
まあ、真実は分かりませんが、
策を打ったのは確かです」
「策?」
「三国同盟の布石です」
秀政の眉が歪む。
(なんだそれは?
武田は長篠で力を失い、滅びゆくはずだが)
「三国?」
「武田・北条・上杉――」
政親は静かに言い切る。
「昨年、“甲相越三国軍事同盟”が成立しております」
秀政の顔が変わる。
「……何だと?
さすがにそれはあり得ないだろう。
武田・上杉はともかく。
上杉と北条は相容れぬのではないか?
状況を詳しく説明してくれ」
「はい、まず北から。
北陸では柴田様、丹羽様が、
上杉に対して押し気味に進めておりました」
(なるほど……柴田殿は張り切っておられた。
織田が強くなっている現状では、それもありうるだろうな)
「そして南ですが、
徳川殿が三方ヶ原の敗戦後から、
怒涛の勢いで国力を回復させて、
昨年駿河を武田より奪い取りました」
「は?あり得ぬ。
状況的に困難極まりない。
異常事態ではないか!」
「確かに。
ですが、徳川殿はどうも芋粥を模倣している節があります」
「どういうことだ?」
「義兄上が行われた治水術、農地改革、肥料改革、二毛作。
全て徳川殿は秘密裏に模倣しております」
「は?」
「おそらくですが、徳川殿は自身が完敗した武田を、
圧倒的に打ち破った殿に何かの可能性を見出したのやも。
大殿以上に義兄上を買い、畏れている可能性があります。
その結果が内政模倣です」
(家康ほどの名将に認められて模倣されるのは悪い気がしないが……。
確かに徳川は史実においても、
甲州流軍学、武田検地、兵農分離、
兵站制度、騎馬軍団編成を模倣した。
模倣するのは得意だ。
徳川が肥料改革で三河・遠江を上田化、二毛作化すれば……。
二国合わせて百万石にはなるぞ。
それならば駿河を落とせることも納得できる。
だが、織田・徳川の勢力が強くなりすぎる。
北条の関東支配が揺らぐ。
それが三国同盟の引き金か)
「織田を警戒する武田は滝川様に注力していました。
そこに駿河攻めです」
「なるほど、各国が織田・徳川に危機感を持ったのは理解できた。
だが、同盟となると難しいぞ」
「信玄入道の亡霊です」
「亡霊?」
「義兄上の言う通り、
信玄入道は間違いなく天正元年の内には死んだはずです。
ですが、この流れをよみ、完全な筋書きを組んだ模様。
それを影武者の信廉が演じ切り、まとめ上げました」
「まさかな」
「軍神謙信は信玄入道を認め、
そして認められたいと思っておったのでしょうな。
信玄の亡霊から、病床の自身に代わって、
武田と北条をまとめあげ、盟主として大敵織田にあたるよう、
説得を受けたようです。
足利幕府の大敵を討つという大義には抗えなかったようです。
織田に比べたら、北条は小さき者。
一旦、北条に対する関東仕置きを棚上げしてでも、
三国軍事同盟に舵を切りました。
北条からすると上杉の関東攻めが避けられるのであれば、
乗らない理由がありませぬ。
すんなりまとまりました。
これにより武田は滝川様に、北条は徳川殿に、
上杉は柴田様に全力を注げるようになりました」
「そうか……織田にとっては最悪の展開だな」
「その後、亡霊は引き下がり、
勝頼が正式に武田の後継となっております。
武田の名臣たちに支えられ、
代替わりの影響は少なそうです。
勝頼、氏政。
いずれも、先代に劣らぬ器にございます。
三国がまとまれば、東は容易に崩れませぬ」
秀政は黙る。
政親は淡々と状況を説明する。
「三国は経済、軍事で協力し、
滝川様、徳川殿は押していた勢いを殺され、
現在は防戦一方に押し込まれております。
柴田様、丹羽様も上杉を攻めあぐねております」
「そうか……」
秀政は渋い顔で頷いた。
「そして西にございます」
「……西もか」
「はい」
政親は一度だけ息を整えた。
「長宗我部をご存知ですか?」
「あぁ、知っているとも」
「さすがですね。
あのような小勢力を気にしておりましたか」
「あぁ。あれは四国を統一する器の将だ。
その長宗我部が?」
「四国を統一いたしました」
「は!?
待て、詳しく申せ!」
(四国統一?!十年近く早すぎないか?)
「はい、当時の毛利は、武田赤備え壊滅の報に震えたようですな。
織田の進軍に備えて、四国に着目したようです。
そこで土佐を統一し、阿波に手をかけた長宗我部に注目しました」
(まさか毛利が絡むのか?)
「毛利は合理主義です。
遠方の四国を直接支配するのは難しいと考え、
長宗我部を従属させて、四国統一を後押ししました。
当主の元親は積極的に阿波・讃岐・伊予に侵攻しておりました。
そこに毛利の後ろ盾です。
阿波三好は一気に崩壊し、
讃岐の豪族は悉く元親へ降りました。
伊予の河野は毛利の圧力で孤立、
元親の餌食になったようで。
瀬戸内水軍を吸収し、一大勢力と化しました」
「なるほど……だからか。
まだ何年も先の話と思っていた」
「今は毛利から独立し、
毛利・長宗我部軍事同盟に転換しております。
毛利は四国の戦力を使い、瀬戸内の制海権を強化、
備前・播磨も従属させました」
「おいおい、甲相越三国同盟も大概ではあるが、
こちらも地獄ではないか」
「はい、その通りです。
佐久間様は、長宗我部に各地で敗北を重ねております。
完全に押されております」
(だろうな。器が違いすぎる。
おそらく蹂躙される勢いだろう)
「結果――」
政親がわずかに間を置く。
「石山本願寺は、安全地帯となっております」
空気が一段、重くなる。
「さらに」
政親は視線を上げた。
「安全な本願寺より、下間頼廉が出ております」
秀政の眉が跳ねた。
「……誰だと?」
「下間頼廉」
静かに告げる。
「本願寺の中枢にございます。
現在、筒井の客将として大和で軍を率い――
松永殿が苦戦しているとのこと」
沈黙。
一瞬、理解が追いつかない。
そして。
「はぁ!?」
思わず声が出た。
「下間頼廉だと!?
勝てるわけないぞ!
大和にあの頼廉が居るのか?」
政親は表情を変えない。
「そうです」
淡々と。
「だから申し上げているのです」
一拍置く。
「義兄上は――」
まっすぐに見る。
「大和を、甘く見過ぎでございます」
秀政は黙った。
(……だからか。
岐阜の空気が、あれほど重かった理由は)
東は三国同盟。
西は毛利と長宗我部、本願寺。
(織田は――
囲まれ始めている。
いや、そんな生易しいものではないぞ。
俺の知る史実の何倍も厳しい状況だ。
織田は歴史を前倒して進むほど強かった。
だがそれが今は、
逆に押し込まれようとしている)
ゆっくりと息を吐く。
(……そして俺は、
その真ん中に、放り込まれるのか)
「……分かった」
低く言う。
「大和、甘くは見ぬ」
視線を上げる。
「だが、やるしかあるまい」
政親は静かに頷いた。
「はい、私は戦には向きませぬ。
他のことであれば、何なりとお命じ下さい。
私は芋粥と義兄上のためなら何でもやります」
「……あぁ、頼るやもしれん」
そう言いつつも、
秀政は遠い空を見つめていた。
(俺が知る史実よりも、
織田は追い詰められるだろう。
唯一の織田の勝機は、
今の所――
上杉謙信死後の御館の乱で、
三国同盟が解消されることだ。
そこまで織田が耐えきれるか?
いや織田はともかく、
芋粥は耐え切らねばならない)
静かに、戦は次の段へ移っていった。
秀政の心は自覚のない不思議な高揚感に満たされていた。




