第百二十七話 大河内落城
天正二年十二月末。
志摩は、完全に芋粥の手に落ちた。
海は九鬼が押さえ、
国衆はすべて従い、
北畠の影は消えた。
残るは――
本城のみ。
*
明けて天正三年一月十二日。
鷺山は、秀政の許しを得て大河内へ兵を進めた。
冬の山は静かで、
その静けさが、
かえって戦の気配を際立たせている。
陣中。
日根野が地図を見ながら口を開いた。
「……申すまでもありませんが、
力攻めはなさいませんな?」
鷺山は鼻で笑った。
「当たり前だ。
蝮はな、噛みついて殺すんじゃない」
ゆっくりと本丸を見つめる。
「絞めて、息を止めて――
力を奪ってから、
丸呑みにする」
その目に、迷いはない。
*
大河内城は山城である。
水もあり、曲輪も多く、兵糧庫も備える。
周辺の国衆が健在であれば、
三月や半年は軽く耐える堅城だった。
だが――
今の北畠には、何もなかった。
志摩はすでに芋粥のもの。
九鬼は敵に回り、海は閉ざされている。
陸は鷺山が押さえ、
人の出入りすらままならぬ。
国衆は離れ、
民は芋粥へ流れた。
知らせは届かず、
援軍も来ない。
気づいた時には――
城は、孤島になっていた。
*
まず、兵糧の補給が途絶えた。
山道はすべて押さえられ、
荷駄は一つも通らない。
海からの補給も望めぬ。
九鬼水軍が目を光らせ、
北畠の船は一隻たりとも通さなかった。
忍びも動く。
使者は途中で消え、
密書は届かぬ。
城は、外界から切り離された。
*
次に、外郭が崩れていく。
ある夜、見張りが倒れた。
声も上げずに。
別の夜には、火が上がる。
兵糧庫が焼け、
水桶がひっくり返り、
混乱の中で兵が散る。
追えば伏兵にかかり、
退けば門が閉じられる。
誰が敵で、誰が味方か。
それすら曖昧になっていく。
外の曲輪が一つ、また一つと失われ、
やがて本丸だけが残った。
*
水も、塩も尽きていく。
水源は濁り、
口にすれば腹を下す。
塩は入らず、
兵の体は弱っていく。
曲輪内の畑は焼かれ、
逃げ出した農民は捕えられた。
城の中に残るのは、
痩せた兵と、不安だけだった。
*
そして、噂が流れる。
志摩はすでに落ちた。
九鬼は寝返った。
援軍は来ない。
北畠は終わった。
どこからともなく入ってくるその声は、
誰にも止められない。
降った者は食を与えられ、
また城へ戻される。
「向こうは食える」
その一言が、
何よりも強かった。
*
二月を越えた頃には、
夜になると人影が消えるようになった。
逃げたのだ。
止める力も、残っていない。
二月中旬。
ついに、北畠具教と雅千代は、城を出た。
霧山御所へ。
残された者たちは、
もはや戦う理由すら失っていた。
*
夜、門が、内から開いた。
音もなく。
芋粥の兵が流れ込む。
だが、戦いにはならなかった。
抵抗は、ほとんどない。
剣を交えることもなく、
静かに終焉を迎える。
*
大河内城は、陥ちた。
血ではなく、
飢えと疑いによって。
鷺山は、その報を聞いて、ただ一言。
「……よし」
それだけだった。
蝮は、獲物を呑み込んだ。
*
天正三年、二月中旬。
稲生館に大河内城落城の報が届く。
「よし!
鷺山、やるな。
大河内は堅城だ
よほどうまくやらねば、
ここまで手早くは落とせまい。
良い将に育った」
思わず笑みがこぼれる。
「あとは霧山御所だが……。
もうすぐ一年か。
一年は北畠を放置するはずだったが、
開発と並行して、
その一年で北畠征伐が出来てしまった……。
あ、そうだ。
お悠の所へ行こう」
*
千種屋屋敷。
相変わらずお悠の勘定部屋からは、
算盤の音が激しく鳴り響く。
少し入るのに躊躇するが、
ゆっくりと襖を開ける。
奉行たちの隈はより深くなり、気の毒になる。
そして、もはや秀政の入室に誰も気づかない。
(早急に奉行を増やさねば、
倒れてしまうぞ)
「姉様、これはこの計算で合ってますか?」
「うん、合ってるわ」
「ん!?」
よく見ると一人増えている。
明の隣で蘭も算盤を弾きながら、
数値を書き込んでいる。
時折、不明点を明に聞いている。
「あ、父様!」
明が気付く。
お悠、明、蘭が一度に秀政を見る。
余りの圧に、秀政も少したじろぐ。
「すまぬ。
邪魔する。
……お蘭、お前も手伝いか?」
先ほど教えてもらった計算を覚えるのに必死で、
蘭は算盤から目を離せない。
代わりにお悠が髪を整えながら答えた。
「はい、明が手伝っているのを見ていたら、
自分も手伝いたくなったようで。
蘭も覚えが早くて助かります。
明と同様、計算も早ければ、
暗算も得意のようです。
この二人は、
仕事が丁寧で間違いもないので、
即戦力です」
「そ、そうか。
ますます芋粥家は安泰だな……。
ところでお悠、少しだけ時間を貰えるか?
話がある」
「あ、はい。承知しました」
明が顔を上げて、すぐに声をかける。
「母様、大丈夫です。
任せてください」
「えぇ」
お悠は立ち上がって、秀政の元へ向かう。
隣の部屋で二人は向き合って座った。
*
「弥八様、お話とは何でございましょう?」
「先ほど大河内城を落としたと朗報が来た」
疲れが見えるが、お悠は笑顔で返事をする。
「まあ?それはおめでとうございます」
「一年だ。
伊勢の大名になって間もなく一年になる。
兵達の扶持を二十石にしてやりたい。
今、石高はどれくらいになった?」
「あら、そうですね。
よく働いてくださる皆さんです。
それに相応しい扶持をお渡ししたいですよね。
少々お待ちください」
そういうとお悠は立ちあがって、
一旦勘定部屋に入り、
複数の冊子を持って戻る。
そして資料を見ながら、
暗算で説明していく。
「五月の段階で、初期石高は六万石でした。
金銭収入が二万石相当あったので、
実質は八万石でした。
現在は……。
鈴鹿郡の新田開墾は八百町になっています。
六千石の増加です。
弥八様の肥料はとても優れておりまして、
既存田も大きく増収が見込めます。
肥料・二毛作・用水安定で一万石の増加です。
この鈴鹿郡だけで一万六千石」
「おぉ!」
「あと、鈴鹿川の治水の折に、
南條が河曲郡まで開発を広げたこともあって、
新田で四千石。
既存田も鈴鹿同様、三千石の増収です。
河曲郡で七千石。
南伊勢の田丸・大河内周辺は、
戦で荒れておりますが、
三万石ほどにはなりましょう」
「鳥羽と志摩はどうだ?」
「鳥羽は海産物や塩、税収で四千石。
志摩はざっと一万五千石ほどはありますが、
税や商業収入も含めると、
芋粥の取り分は一万石といったところです」
「政親に任せた桑名の方は?」
「順調に復興しているようです。
八千石程かと。
あ、そうです。
白子湊も大きくしたこともあって、
五千石は増収です」
「そういえば義父殿も何やら動いていたな。
あれは何だ?」
「はい、父は鈴鹿山麓に特産品を作ると言って、
茶を作らせました。
高級なかぶせ茶です。
今は三千石相当の収入になっています」
「……さすが義父殿」
「合計すると十六万三千石です。
倍以上の石高になりました。
六千の兵に二十石の扶持を渡せますよ」
お悠の満面の笑み。
「おぉ……十六万石?!
しかも一年で?
織田家の中でも有力な方じゃないか?」
「大殿には滝川様と同様の控えめな検地で報告してあります。
八万石です。
南伊勢も二万石くらいでいいでしょう。
芋粥家は公称十万石の大名です」
「良い、良い。
甘く見られる方が良いからな。
十万石でよかろう。
意外と早く南近畿を落とせるかもしれんな」
(ブラック企業も腰を抜かすほどの無茶苦茶なノルマ設定だったが……)
お悠の顔をそっと見る。
「何かついております?」
「いや」
(それを果たせる人材が芋粥にはいる。
喜ばしい事だ)
興奮する秀政だったが、
ちらちらと勘定部屋を気にするお悠を見て、
慌てて声をかけた。
「すまぬ、忙しいんだったな。
もう戻ってもらっても構わない。
まもなく鈴鹿館も完成する。
奉行も増やそう。
それまで倒れるなよ?」
「はい、大丈夫です。
明たちも手伝ってくれてますから」
笑顔を見せて、颯爽と勘定部屋へ戻っていった。
(本当に……倒れるなよ)
「近々北畠には引導を渡す。
その次は伊賀か……。
ここまで育てば攻めに転じられる。
開発を行いつつ、策を考えねば……」
第八章 伊勢太守編(国作り編)終幕




