第百二十六話 恋心
天正二年十二月下旬。
志摩は落ちた。
九鬼を軸とした志摩の国衆は芋粥の下にまとまり、
北畠に属する者たちは、拠点を次々に失っていった。
抵抗はあった。
だが、長くは続かなかった。
海は封じられ、陸は押さえられ、
頼るべき道は一つずつ潰されていく。
主なる者はほとんどが討ち取られ、
辛うじて生き延びるのは枝葉の先ばかりだった。
やがて、散々に打ち破られた志摩北畠の一族は、
命を繋ぐため、各地へと名を捨てて落ち延びていった。
*
桑名城、二の丸。
教高は客将として迎えられていた。
客と呼ばれてはいるが、自由はない。
護衛の兵が常に付き、出入りも限られている。
名目は保護。
実態は、動かぬように囲われているに等しい。
それでも――
命があるだけ、ましであった。
最後に残った娘のためにも、この屈辱を甘んじた。
*
同じ二の丸の奥。
御影は、さらに奥まった一室に住まわされていた。
こちらも侍女が付き、世話を焼く。
だが同時に、目を離されることはない。
庭に面した部屋。
御影は、縁に座り、ただ庭を眺めていた。
池の水が揺れ、風が枝を揺らす。
それを、ぼんやりと見ている。
何も考えていないわけではない。
ただ、考えすぎて、もう何も浮かばないだけだった。
その時。
障子の向こうから、静かな声がした。
「……よろしいでしょうか」
見えぬ位置から、控えめに。
御影は我に返り、姿勢を正す。
「……どうぞ」
障子が開く。
入ってきたのは、千種政親だった。
一礼する。
「お加減はいかがにございますか」
御影は小さく頷く。
「……はい」
短い返事。
政親は、それ以上踏み込まない。
無理に言葉を引き出そうとはせず、
ただ静かに続けた。
「志摩の方ですが……」
わずかに言葉を選ぶ。
「各地で争いが起きております」
御影の指先が、わずかに強張る。
「北畠に連なる方々も……被害を受けております」
やんわりと。
だが、十分に伝わる言い方だった。
御影は目を伏せる。
「……そう、ですか」
それ以上、言葉は続かない。
政親は、しばし黙った後、穏やかに言った。
「ですが――」
視線を合わせる。
「あなたは助かりました」
御影が顔を上げる。
「どうか、強くお生きください」
静かな言葉だった。
押し付けるでもなく、
ただ、そう願っているという響きだけが残る。
そして政親は、懐から小さな包みを取り出した。
「ささやかなものですが」
御影の前に置く。
中には、透き通る白い粒。
氷砂糖だった。
光を受けて、かすかに輝く。
御影は思わず手に取る。
「……きれい」
政親はわずかに笑う。
「堺より取り寄せたものにございます。
南蛮渡りの甘味で……」
少しだけ、謙遜するように続ける。
「北畠家の菓子には及びませぬが……
口に合えば幸いです」
御影はそっと一粒、口に含む。
そして――
目を見開いた。
「……こんなに澄んだ甘さ、初めて……」
思わず、声が漏れる。
その反応を見て、政親はわずかに目を細めた。
「それは何より」
さらに、もう一つ包みを差し出す。
「こちらは干し葡萄にございます。
唐菓子の一つでして」
黒く小さな粒。
「日持ちします。
少しでも、お慰めになれば」
御影はそれを受け取り、静かに頷いた。
政親は、もう一つ取り出す。
小さな香袋。
「心を落ち着けるには、香りが一番と申します」
御影がそっと受け取る。
袋を開くと、やわらかな香りが広がった。
「……いい香り」
「白檀にございます」
御影の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
その変化を見て、政親は穏やかに言った。
「あぁ、やっと笑顔が戻られました」
御影がはっとする。
無意識に、口元が緩んでいた。
「このようなものでよろしければ、
またお持ちいたします。
どうか、我が家と思っておくつろぎください」
深くは踏み込まない。
だが、確かに距離は縮める。
政親は一礼し、静かに部屋を後にした。
*
それから――
三日おきに、政親は訪れた。
同じように声をかけ、
同じように距離を保ち、
時に楽しい話、
時に異国の幻想的な話。
少しずつ、お土産を置いていく。
菓子。
香。
小さな飾り。
書物。
ある時は来ず、侍女を通して届けることもあった。
「政務が立て込んでおりまして」
と一言添えて。
御影はそれを受け取り、
気づけば、それを待つようになっていた。
来ない日が、わずかに長く感じる。
やがて――
御影の中で、何かが変わり始めていた。
それが何であるか、
まだ自分でも分からないままに。
*
ある日、いつものように政親が訪れる。
侍女が後ろに続き、白玉団子を運んでくる。
白玉粉は高級品で、
志摩ではまず口にできぬ品だ。
しかもそれに高級な黒蜜がかかっている。
質素だが、とても上品なお菓子だ。
「今日は白玉団子をお持ちしました。
実は私の好物でして、
御影様のお口にも合えば良いのですが」
とても美味しそうで御影も目を輝かせる。
そして、勇気を振り絞って御影の方から声をかけた。
「あ、あの、松次郎様。
こんなに多くは私だけではいただけません。
ご一緒にどうですか?」
顔を真っ赤にしながら返答を待つ御影を、
少しだけ焦らして、政親は笑った。
「はい、喜んで。
お隣に座ってよろしいですか?」
「は、はい」
縁側に並び、間に団子の皿を置いて座る。
「ではお先にいただきます。
これは蜜が垂れやすくて……おっとっと」
「あら……」
御影も自然と笑顔がこぼれる。
「御影様も」
「では、いただきます。あら……蜜が……蜜が」
「ははは、少々食べにくいのが難点ですな」
「……美味しい」
「喜んで頂けてよかった」
御影は一つ食すと、皿を戻した。
そして少しだけ間をおいて問いかけた。
「松次郎様、いつもありがとうございます。
ですが、その……。
私を励ますためとはいえ、
こう頻繁に来ていただくと、
奥方様が何か申されませんか?」
「あぁ、私はまだ独り身でして。
私の義兄は人使いが荒くて……。
仕事、仕事とかまけていたら、
いつの間にか、嫁の来手もなくなりました。
ははは。
私は戦働きも出来ぬ柔な男ですので、
好いてくれる女子もおりませぬ」
「そうなのですか?
松次郎様はお優しく、
まだお独りなのが信じられません。
……戦など起きない方が良いのです。
私は松次郎様のようなお優しい方にこそ、
惹かれます」
そこまで言って、言い過ぎたことに気づいて、
慌てて、団子を取る。
案の定、蜜が跳ねた。
「あ、あ、これ。手拭きを!」
慌てて政親が侍女を呼ぶ。
この騒動に先ほどの言葉が紛れて、
御影はそっと息をついた。
*
天正三年二月中旬。
桑名城が慌ただしく動いていた。
早馬が駆け込み、
その報は瞬く間に広がる。
鷺山――
北畠の本城、大河内城を落とす。
そして、北畠具教らは霧山御所へ退いた。
霧山御所は山中の小さき御所で、
守りは薄く、籠もるには心許ない。
それは、城ではない。
北畠の象徴――、
そして、終焉の予感。
*
教高も、その報を受けていた。
言葉はなかった。
ただ、静かに座したまま、
目を閉じる。
名門の終焉。
自らが背負ってきたものが、
崩れ落ちていく音を、ただ聞いていた。
やがて、ゆっくりと目を開く。
「……御影を呼べ」
声は、もう揺れていなかった。
*
二の丸の一室。
教高、御影、そして政親が対面していた。
しばし、誰も口を開かない。
先に沈黙を破ったのは教高だった。
「……いつまでも、ここにおるわけにもいかぬ」
低く、重い声で伝える。
「北畠の名を引く者として、
これ以上、御厄介になるわけにもいかぬ」
一度、言葉を切る。
「隠れ里へ移る」
御影がわずかに俯く。
「人目を避け、
名も捨てて生きるしかあるまい」
覚悟の言葉だった。
だが――
その覚悟は、どこか寂しかった。
その時、
政親が静かに口を開いた。
「……お待ちくだされ」
教高の視線が向く。
政親は、まっすぐに言った。
「私は、芋粥の中核におります」
間を置かず、続ける。
「御影様を――
私の正室としてお迎えいたしたい」
空気が止まる。
御影が顔を上げる。
教高は驚き、目を見開いた。
政親は言葉を重ねる。
「私の家格が、
北畠に及ばぬことは承知しております」
一度、頭を下げる。
「それでも――」
顔を上げる。
「御影様をお娶りすれば、
教高様も御影様も、岳父と妻として、
芋粥の内にお留まりいただけます」
静かに、だが揺るがず。
「この身の届く限り、
お守りいたします」
沈黙。
教高は政親を見つめる。
その目は、値踏みでもあり、確かめでもあった。
政親は逃げない。
その視線を、正面から受ける。
やがて政親が少しだけ、
言いにくそうに続けた。
「……身の程を弁えぬ願いにございますが」
ゆっくりと御影の方を向く。
「御影様に、惚れ申した」
御影の瞳が大きく揺れる。
そのまま、政親を見つめる。
教高はゆっくりと、娘へ視線を移した。
「御影……」
問いではない。
確認だった。
御影はしばし俯き、
やがて、はっきりと顔を上げる。
「……はい」
小さく、しかし確かな声で伝える。
「私も、松次郎様をお慕い申し上げております」
教高は目を閉じた。
そして、短く息を吐く。
「……そうか」
ゆっくりと、頷く。
「家格の違いか……。
どうせ隠れ里に入れば、
家も名も消え、ただの百姓よ」
わずかに苦笑する。
「ここまで無様に生き延びたのも、
すべては御影のため」
顔を上げる。
「その御影が選んだ男ならば――
もはや何も申すまい」
政親に向き直る。
「千種殿」
力強く見つめる。
「御影を、頼み申す」
深く、頭を下げた。
政親もまた、膝を正し、頭を下げる。
「は」
顔を上げる。
「生涯、大切にいたします」
言葉は短い。
だが、その重さは、十分だった。
御影はその様子を見つめながら、
静かに息をつく。
外では、風が木々を揺らしていた。
時代は動く。
名門は滅び、
新しい縁が結ばれる。
その小さな一室で、
確かに一つの“未来”が生まれていた。




