第百十八話 人を呼べ
三日後。
遅れていたお悠と子供たちの引っ越しが行われた。
お悠たちは、千種屋松之助の家族と共に
鈴鹿へと移ってきたのである。
やがて一行は、
秀政が政庁として使っている稲生館へ到着した。
だが――
その館は、あまりにも質素だった。
庭もなければ、兵の詰所も最低限。
屋根は古く、柱も軋み、
壁には長年の湿り気が染みついている。
とてもではないが、
大名家の居館とは呼べぬ代物であった。
秀政は町の区画、湊、田畑、道――
ありとあらゆる事に気を配っていた。
だが、ただ一つ。
自分の家族が住む場所だけは、
完全に後回しになっていた。
到着の報を受け、秀政が急ぎ庭へ出てくる。
「おぉ、遠路ご苦労であった。
疲れたであろう」
笑顔で迎える。
だが。
明も蘭も松丸も、
館を見上げたまま固まっていた。
そして。
「……ちいさい」
明がぽつりと呟いた。
「くっさ~い」
蘭が鼻をつまむ。
「くっさーい」
松丸まで真似をした。
三人が一斉に文句を言う。
「これ、わがままを申すでない」
お悠が慌てて叱る。
だが。
叱りながらも、
お悠自身も館を見上げて、
少し困ったような顔をしていた。
秀政は頭をかいた。
「あ……そうか」
苦笑する。
「そうだよな。
俺一人の時は、世話女と護衛が少し居るだけだった。
それなら、この館で足りたのだが……」
子供たちを見て、言葉を止める。
「さすがに、子供には辛いか」
(鈴鹿城の計画地に、
居住用の館だけでも急いで建てさせるか)
そう考えていると――
後ろから笑い声が聞こえた。
「だから城より先に
鈴鹿館を建てましょうと申したのですよ」
振り返ると、
松之助が立っていた。
「秀政様、姉上」
にこりと笑う。
「千種屋の伊勢本店に、居館を用意しております。
まだ建てたばかりで、物が足りませんが、
この館よりは、ずっと住みやすいかと。
鈴鹿城が出来上がるまでは、
仮御殿としてお使いください」
秀政は少し安堵した顔になる。
「松之助、すまんな」
振り返る。
「皆、千種屋の居館へ向かってくれ。
俺も今日からそちらに住まわせてもらう」
松之助は子供たちに優しく声をかけた。
「松太郎も待ってます。
遊んでやってくだされ」
「はい!」
そしてお悠に向きなおす。
「姉上。
秀政様は、ご自身の城よりも先に、
民の町をお作りになっております。
考えることが山積みで……。
ゆえに、今はこのような有様なのです」
お悠は静かに頷いた。
「そうなのですね」
秀政を見る。
「さすが弥八様です」
少し微笑む。
「なんだか、わたくしが
わがままを申したようで」
秀政は首を振った。
「いや。
お前たちも、もう大名の一家だ。
俺の気配りが足りなかった」
少し照れくさそうに笑う。
「政庁はこの稲生館だが、
子供たちには、それなりの暮らしをさせてやってくれ」
お悠は静かに頭を下げた。
「はい、私も何か手伝わせてください。」
「あぁ、ちょうど明日、湊と治水の開発計画の詳細を、
詰める予定だ。お前も参加してもらいたい」
「はい!」
こうして芋粥家の家族は、
まず千種屋の居館へ落ち着くことになった。
*
翌日、政成、お悠、浅野、長政、松之助、泉川、荒木、南條、木曾が
再び集った。
村瀬は道場移転のために桑名に向かっている。
秀政は白子湊と鈴鹿川の図を並べ、筆を置いた。
「よいか。今日は“気合い”ではなく“算盤”で話すぞ。
各々、考えてきた計画を述べよ」
白子湊の責任者に任命された南條が口を開く。
「まず、白子湊です。
白子は浅瀬が多い。
船底が擦る場所を、
まず“筋”だけでも通さねばなりません。
浚渫に使える人手は――
農民・足軽・漁民を合わせて一日あたり四百人。
これを二十日続ける」
浅野が指を折って数える。
「延べ八千人分の働き、ですな」
「そうです。
干潮の二刻を掘ります。
これで船が通れる“筋”だけなら二十日で通ります。」
南條が筆を取り、海へ突き出した線を引いた。
「次に仮防波堤です。
木杭を打ち、板を渡す簡易なものですが、
これがあるだけで船が横付けできます」
再び筆を置いた。
「投入できる大工は百五十。
手元として農民を三百付ける。
一日五百人で十五日。延べ七千五百人分の働きです。
これで“仮”とはいえ、湊としての体裁は整います」
政成が頷いた。
「つまり――
浚渫二十日と仮防波堤十五日で三十五日。
ひと月強で白子湊は“使える湊”になる。
ここまでは“急ぎの工事”だ」
政成の発言に頷いたあと、
南條が続けた。
「ですが、本防波堤――石垣はそうはいきません。
山から石を切り出し、牛車で運び、積む」
一拍置く。
「石工五十、大工百、運搬と手元に農民五百。
一日六百五十人で半年から一年。
延べ十万から二十万の働きが要ります」
泉川が息を呑んだ。
「……それだけの手間をかけて、
ようやく桑名並み、ですな」
「そうです。
だから“完成”は急ぎません。
ひと月で動かし、半年から一年かけて育てる。
湊はそういうものです」
「うむ、その計画で進めよ」
秀政は一度頷き、図を鈴鹿川に移した。
治水を担当する荒木が続けた。
「次に治水です。
まずは堤防。
川沿いに“最低限の防御線”を引く。
土を積み、杭を打ち、草を植える。
これに使える人手は一日三百。
二十日で延べ六千人分。
これで“とりあえずの堤”は立ちます」
浅野が頷く。
「洪水の被害は、かなり抑えられますな」
「次に分水路です。
川の水を二つに割り、流れを弱める。
幅三間、長さ一里。
掘削に一日五百人が必要です。
三十日で延べ一万五千人分。
上流から水を流し、土砂を押し流させる。
人力だけで掘るより、半分の手間で済みます」
南條が図に目を落とした。
「……これで“幹”が通るわけですな」
「そうです。
その“幹”から“枝”を伸ばす。
用水路です」
「用水路は升目に区切る。
一本あたりの延長は短い。
大工五十で水門を作り、農民四百で掘る。
一日四百五十人で二十日。延べ九千人分。
これで田に水が行き渡る」
秀政は筆を取った。
「まとめるぞ」
堤防は一日三百人で二十日、延べ六千。
分水路は一日五百人で三十日、延べ一万五千。
用水路は一日四百五十人で二十日、延べ九千。
堤防と水路は同時に行える。
ゆえに、合計で延べ三万程度の働き、五十日。
これで“水を制した鈴鹿”ができる。」
その場に控えていたお悠が、
ゆっくりと一歩前へ出た。
「弥八様。
工期は理解いたしました。
では――
そのために必要な“金”を、今ここで試算いたします」
政成が驚いたように眉を上げる。
「お悠、もう計算が?」
「はい。
今のお話で、延べ人数がすべて出揃いましたので」
お悠は懐から小さな算板を取り出し、畳の上に置いた。
「まず、浚渫。
一日四百人を二十日で、延べ八千人」
算板が軽やかに鳴る。
「一人一日で米十合、
味噌菜っ葉に小遣い銭を合わせて、
米に直せば、十五合ほどになる。
ゆえに――」
ぱちり、と珠が止まる。
「八千人で、十五合ずつ。
合わせて十二万合。
すなわち――
百二十石です」
浅野が息を呑む。
「次に仮防波堤。
一日五百人を十五日。
延べ七千五百人」
算盤がまた鳴る。
「七千五百人が十五合ずつ。
合わせて、十一万二千五百合。
すなわち――
百十石と少し」
泉川が小さく頷いた。
「……湊だけで二百三十石ほど、ですな」
お悠は治水の図に目を移した。
「堤防は六千人。
六千人が十五合ずつで、九万合、
すなわち――
九十石」
「分水路は一万五千人。
一万五千人が十五合ずつで、
二十二万五千合。
すなわち――
二百二十五石。
用水路は九千人。
九千人が十五合ずつで、
十三万五千合。
すなわち――
百三十五石」
算盤の珠が止まる。
「合わせて――
四百五十石です」
南條が思わず声を漏らした。
「……湊と治水だけで、六百八十石近い……」
お悠は算板を置き、静かに言った。
「人件費は六百八十石前後。
ですが、これで終わりではありません。
杭の材木、石垣の石、牛馬の飼料、
縄、桶、鋤、鍬、運搬の費用……
これらは人件費と同程度、
あるいはそれ以上かかります」
南條が息を呑む。
「つまり――
総額で千二百から千五百石。
これが、鈴鹿を半年で“国”にするための初期費用です」
お悠の算盤が止まり、
「総額、千二百から千五百石」と告げられた瞬間、
広間の空気が凍りついた。
家臣たちは誰一人として声を出せなかった。
千石を超える金。
それは、ただの数字ではない。
お悠がさらに続けた。
「芋粥家は伊勢六万石。
湊税や市場税を合わせても、良く見積もって八万石。
ですが――
兵六千人の扶持だけで六万石が消える。
足軽組頭以上の家臣団の扶持が四千から六千石。
城・町・役所・馬・武具の維持費に五千から八千石。
さらに、いざという時の備蓄も欠かせない。
残るのは、
六千石あればよいところ。
政親が長島の復興に当たっています。
そちらにも二千石は用意した方が良いでしょう。
残り四千石。
その四千石のうち、
千五百石を一気に投じる」
浅野が小さく息を呑んだ。
南條は算盤の珠を見つめたまま動かない。
だが、お悠だけは迷いなく言った。
「ですが――
湊が動き、田が実れば、
三千、五千と実りが返ってまいります。
この投資は、必ず回収できます」
秀政が満足げに頷いた。
「そうだ。
金は使うためにある。
国を作るためにな」
政成が頼もしげにお悠を笑顔で見つめる。
「お悠、お前も立派に育った。
自慢の娘だ。
だがな、その投資には問題が潜んでおるぞ」
お悠がにこりと笑う。
「ははは、その顔は既に分かっておるようだな?」
お悠は算盤を閉じ、政成に向き直った。
「はい。
この人数を動かすには――
人が足りませぬ。
延べ四万五千の働きをこなすには、
今の鈴鹿の人口では到底足りませぬ。
湊が出来ねば金は湧きませぬ。
治水を為さねば、田は実りませぬ。
そして仮に湊も治水も為したとして、
人なくば、田は耕せませぬ」
秀政は静かに頷いた。
「お悠を言う通りだ。
金も限られている。
人も足りぬ。
ならば――」
畳を指でとん、と叩く。
「今すぐ人口流入計画を立てる。
鈴鹿に“人の海”を作るのだ。」
その言葉に、
広間の空気が再び動き出した。
秀政は続けた。
「四千石しか自由に使えぬなら、
その四千石で“人”を呼び込む。
人が来れば湊が育ち、
湊が育てば税が増え、
税が増えれば田が広がる。
田が広がれば、再び百姓を呼び込める」
家臣たちは静かに頷いた。
秀政の言葉は、
財政の現実を踏まえたうえで、
なお前へ進む覚悟そのものだった。
秀政は広間を見渡し、
静かに、しかし迷いなく言い切った。
「人口流入策は一つだ。
仕事を出し、飯を出し、土地を出す。
これだけで、人は勝手に鈴鹿へ流れ込む。
そして――
初期投資をけちるな。
四千石しか自由に使えぬ。
だが――
その中で二千石を覚悟せよ。
初期投資に五百石を上乗せするのだ。
報酬をはずめ。
人を呼び込め。
それがお悠の言う、回収の大前提だ」
その言葉に、
家臣たちは静かに頷いた。
財政の現実を知ったばかりの胸に、
それでも前へ進む道だけが残された。




