第百十七話 動き出す鈴鹿
南の脅威に対しては、
新鋭の鷺山利玄が睨みを利かせた。
そのため、秀政たちは鈴鹿の居住区建設に集中することができた。
二ヶ月。
誰もが不可能と考えた期間で、
鈴鹿が立ち上がる最低限の準備が整った。
「なぁ、南條殿。
不可能ではなかったでしょう?」
松之助が得意げに話しかけた。
手拭いで汗を拭きながら南條が答える。
「えぇ、やり切りましたね。
あとは皆の到着を待つばかりです」
*
天正二年五月中旬。
那古野の朝は、
いつもより早く騒がしかった。
芋粥軍団四千――
家族を含めれば一万を超える人々が、
伊勢鈴鹿へ向けて国替えの行軍を開始する日である。
槍を束ねる音、荷車の軋む音、馬のいななき。
町全体が、巨大な生き物のように蠢いていた。
「行列、三里に及びます!」
先頭に立つ足軽組頭の男が大きな声で宣言した。
「慌てるな。列を乱すな。
今日は国が動く日だぞ」
全ての引継ぎを終えた軍権家老の浅野清隆が声を挙げた。
その声に、兵たちは自然と背筋を伸ばした。
浅野はこの行軍の先鋒を務める。
秀政は先に鈴鹿入りしているため、
総大将は芋粥長政。
ただし、元服したとはいえ、
子供は子供。
この軍の指揮は全て浅野が執っている。
*
行列の中央には、家財を積んだ荷車が延々と続く。
鍋、布団、米俵、農具、木箱、
子どもを乗せた籠、鶏を入れた籠、
さらには家の柱まで積んでいる者もいた。
「お父ちゃん、伊勢ってどんなとこ?」
「海があってな、魚がうまいぞ。
鈴鹿は風が強いらしいがな」
子どもたちははしゃぎ、
母親たちは不安げに荷車を押す。
「荷が落ちるぞ、気をつけろ!」
村瀬新九郎が声を張り上げた。
新陰流の達人でありながら、
こうした雑事にもよく目が届く。
「新九郎様、車輪が割れました!」
「予備を使え。五十歩先で合流させろ」
的確な指示に、荷車は止まらず進む。
*
行列の後方では、芋粥長政が兵の点呼を取っていた。
秀政の傍で政務を学ぶために先行していたが、
今日は軍団の“顔”として尾張に戻り働いている。
「遅れるな! 荷車の間隔を保て!」
その横で、竹内小四郎が慌てて走り回る。
「長政様、こちらの家族が列に入れません!」
「順番を守らせろ。
焦らせるな、小四郎」
佐治兵九郎は弓を背負い、
周囲を警戒していた。
「長政様、前方異常なし。
……しかし、これだけの人数が動くと壮観ですな」
「国が動くというのは、
こういうことなんだろうな」
長政の言葉に、佐治は深く頷いた。
*
行列が那古野を離れる時、
町の人々が道の両側に並んだ。
「芋粥様、伊勢でもご武運を!」
「また戻ってきてくださいまし!」
「長屋の皆さん、元気でな!」
兵たちは手を振り、
子どもたちは泣きながら町を見つめた。
尾張を離れるという現実が、
ようやく胸に迫ってくる。
*
数日後、鈴鹿の地が見えてきた。
「見ろ……道がまっすぐだ」
「本当に二ヶ月で作ったのか……」
「井戸があるぞ!」
「長屋が並んでる……!」
兵も家族も、言葉を失った。
そこには、
二ヶ月で作られたとは思えぬ“町の形”があった。
升目に区切られた道。
規格化された長屋が整然と並び、
井戸の水は澄み、
炊事場には煙が上がっている。
浅野が静かに呟いた。
「……これなら、すぐにでも戦えるな」
政成は深く頷いた。
「いや、戦うためではない。
ここから国を作るのだ」
長政は、広がる鈴鹿の町を見つめた。
「ここが……我らの国になるのか」
その言葉に、兵たちは黙って鈴鹿の町を見つめた。
こうして芋粥軍団四千の国替えは、
混乱もなく、滞りもなく、
まるで一つの巨大な軍団が呼吸するように
鈴鹿へと移り住んだ。
南を守る鷺山軍団の働きがあり、
鈴鹿の町を作り上げた者たちの努力があり、
そして四千の移住の覚悟があった。
この日、
芋粥家は尾張の一勢力から、
伊勢の国を動かす“大名家”へと変わった。
*
引っ越し完了当日に、
政成、浅野、村瀬、長政、松之助、泉川、荒木、南條、木曾は稲生館に呼ばれた。
疲れた顔も見せずに全員が秀政の前で平伏する。
「面をあげよ。移動ご苦労であった」
皆が頭を上げる。
疲れを見せる者は一人もいない。
四千の大移動を終えたばかりとは思えぬほど、
全員が背筋を伸ばしていた。
そしてすぐに秀政が切り出した。
「ゆっくり休めと言ってやりたいところだが、
そうも言ってられん。
鈴鹿の開発は途上だ」
秀政の声は静かだったが、
その奥にある緊張と熱は、
誰もが感じ取った。
「湊の整備と開墾を、
明日からでも行わねばならん」
家臣たちは一斉に姿勢を正した。
「まずは湊だ」
秀政は白子湊の図を広げ、
海岸線を指でなぞった。
「白子は浅瀬が多い。
船が座礁しやすく、
荷揚げに時間がかかる。
まずは“浚渫”だ。
海底の砂を掘り、
船が通れる深さを確保する」
政成が頷く。
「浚渫は人手が要りますな」
「だからこそ、明日から動く。
潮の満ち引きを利用し、
干潮時に砂を掘り、
満潮で海が砂を運び出す。
人力だけでなく“潮”を使うのだ」
浅野が感心したように目を細めた。
「潮を味方にする……なるほど」
秀政は続けた。
「次に“防波堤”だ。
白子は波が荒い。
このままでは船が横付けできぬ。
ゆえに、海へ突き出す形で石垣を築く」
木曾が図に線を引く。
「桑名湊のような形にするのですな」
「そうだ。
桑名は北伊勢随一の湊だ。
白子も同じようにする。
ただし石垣は時間がかかる。
ゆえに先に“木杭の仮防波堤”を作る」
泉川が驚いた顔をした。
「木杭で……波を止められますか?」
「止めるのではない。
“弱める”のだ。
木杭を並べれば波の力は半分になる。
その間に石垣を積む。
仮防波堤があれば、船はすぐに横付けできる」
政成が深く頷いた。
「つまり、
浚渫で船を通し、
仮防波堤で荷揚げを安定させ、
その間に本防波堤を築く……
段階的に湊を育てるのですな」
「そうだ。
湊は一気に作るものではない。
“動かしながら育てる”のだ」
秀政は図の東側を指した。
「さらに、湊の脇に“荷置き場”を作る。
屋根付きの倉だ。
雨で荷が濡れれば商人は来ぬ。
倉があれば、商人は勝手に集まる」
浅野が笑った。
「白子が桑名のような湊になる日も近いですな」
「いや、桑名を越える。
白子は伊勢の玄関口になる。
次に開墾だ」
秀政は鈴鹿川の図を広げた。
「鈴鹿川は暴れ川だ。
だが逆に言えば“水が豊富”ということだ。
水を制すれば、田は勝手に実る」
南條が身を乗り出す。
「治水から始めるのですな」
「そうだ。
まずは“分水路”を掘る。
川の水を二つに割り、流れを弱める。
その分水路を“幹”として、
左右に“枝”となる用水路を伸ばす」
木曾が図に線を引く。
「升目の町と同じく、田も升目に区切るのですな」
「その通りだ。
升目にすれば管理が容易だ。
水の流れも読みやすい。
そして――“水門”を作る」
荒木が驚いた顔をした。
「水門……木製の扉で水を止めるのですか?」
「そうだ。
水門があれば、田に入れる水を調整できる。
干ばつにも洪水にも強い田になる」
南條が感嘆の声を漏らした。
「……これなら百町の新田も夢ではありませんな」
「夢ではない。
百町どころか三百町でも作れる。
人手さえあればな」
「村瀬」
「はっ」
「お前には別の役目がある。
桑名にある新陰流道場を、鈴鹿へ移せ。
そして――“剣豪隊”を増やせ」
「剣豪隊……お気に召しましたか?」
「あぁ、刀は戦では主流ではない。
だが、治安を守る抑止力にはなる。
鈴鹿はこれから国になる。
治安も、威信も、武も必要だ。
剣の達人を集め、鍛え、
“鈴鹿の剣”を作れ」
村瀬は深く頭を下げた。
「承知。
鈴鹿を剣の都にしてみせます」
「長政」
「はっ」
「お前は明日から、俺やこの者たちの働きをよく見て覚えよ。
政も、軍も、開発も、すべてだ。
伊勢を治める者は、机上では務まらん。
現場を見て、汗をかき、民の声を聞け」
長政は拳を握りしめた。
「必ずや、学び取ってみせます」
「最後に――」
秀政は全員を見渡した。
「湊と開墾は、別々に進めてはならん。
“同時に”やる」
政成が目を見開いた。
「同時……でございますか?」
「そうだ。
湊で荷を揚げ、
その荷を荷車で開墾地へ運び、
開墾地で出た土を湊の埋め立てに使う。
湊と田畑を“循環”させるのだ」
浅野が笑った。
「殿らしい……芋粥流の策ですな」
「人も物も、止めるな。
常に動かせ。
動けば国は育つ。
止まれば国は死ぬ」
秀政は静かに言った。
「二ヶ月で町を作った。
ならば――
一年で国を作る」
その言葉に、誰もが息を呑んだ。
だが、誰一人として否定しなかった。
秀政が言うなら、できる。
それを知っているからだ。
「政成、浅野、新九郎、長政。
明日から忙しくなるぞ」
「「「はっ!!」」」
こうして、鈴鹿の湊と田畑を拓く
芋粥家の急速な開発が始まった。
湊は海を呼び、
田畑は民を呼び、
民は町を作り、
町は国を育てる。
秀政の描く未来は、
すでに動き始めていた。




