第百八話 悲劇
長島一向一揆の総本山たる願証寺は、
孤立しつつあった。
軍事指揮を執っていた下間頼旦は、
一つの賭けに出る。
非戦闘員の門徒たちを逃がすため、
海路での退路を切り開く。
長島が保有する全ての水軍力を使って討って出る。
戦闘用として整備された小早は二十隻。
さらに漁船・渡し船・荷船など、
動く舟という舟を軍用に転用し、
三十隻あまりがこれに続いた。
合わせて五十隻。
長島が持ちうる最大の水軍力である。
さすがに白子水軍だけでは、
この数を正面から相手にするのは厳しかった。
だが、秀政はこの出撃の可能性を想定しており、
対策を井口に授けていた。
すなわち――退く。
白子水軍は正面決戦を避け、
長島水軍を深みへと誘導する。
水路の先には、伊勢湾――
九鬼水軍が待ち構えている。
伊勢湾で、長島水軍を殲滅する作戦だ。
*
白子水軍が見える高台。
そこに千種松親が居た。
その隣には、秀政が伊勢入りする際に、
新たに雇い入れた伊賀忍者の一人。
水蜘蛛の弥九郎。
水上潜行・舟団偵察など、
“水戦”に特化した戦力。
白子水軍を松親が任された際に、
同時に預かった芋粥家の裏の戦力。
松親が白子水軍を、
冷たい目で見つめながら命じる。
「動き出したか。
弥九郎、先ほど命じた通りだ。
抜かりなくやれ。
殿のため、そして芋粥のために。
迷うな」
「は!お任せください」
そういうと、弥九郎は川に入り、
まるで魚のように泳いでいく。
*
一方、白子水軍、井口。
「殿が仰せの通りだ。
敵が全軍で退路を作りに来おった。
一旦退くぞ!」
関船の上から陣太鼓を叩く。
白子水軍が一斉に退却を始めたその時、
二番隊隊長・井口新右衛門の小早の船尾に、
水中から黒い影が忍び寄った。
弥九郎である。
弥九郎は水底を這うようにして船腹へ取りつくと、
そのまま船尾へと滑るように移動した。
小早の命綱――舵櫂。
その根元を支える楔に、
細工した金具を静かに差し込む。
てこの要領でひねり上げると、
乾いた音もなく楔が外れた。
次の瞬間、舵櫂がぐらりと傾き、
小早は船首を大きく振って横方向へ流され始めた。
漕ぎ手たちが必死に操櫂を動かすが、
方向を失った船は制御不能だった。
弥九郎は泡ひとつ立てず、
水底へと沈むように離脱した。
「ん!? おかしい」
小早の船頭が叫ぶ。
新右衛門が心配そうに問いかける。
「どうした?」
「いえ、さっきまで動いていたのに、
急に舵が効かなく……」
退却際、関船の上で、それに気づいた井口が不審な顔をする。
「おい、あの船はどうした?
新右衛門の船か?」
白子水軍の者がその小早を見つめる。
新右衛門の船頭が身振り信号で関船に伝える。
「井口様、大変です。
新右衛門様の小早の舵が壊れたようです。
このままでは退却できないと」
井口の顔に焦りが出る。
「何だと?!
うぅむ、他の船はそのまま、海に向かえ。
この船で新右衛門たちを助けに参るぞ。
これは関船だ。まだ人は乗れる」
「は!」
さすがの井口も息子の命を無視できなかった。
大将である前に、やはり父親だった。
井口の関船が急遽回頭して、
取り残された新右衛門の小早の元へ急ぐ。
敵が訪れる前に接弦し、
縄を落として新右衛門達が関船に乗り込んだ。
「よし、救うたぞ! このまま退け!
急げ!」
だが井口の関船は船底にいくつも鈎爪がはめ込まれていた。
これは松親によって、
この直近に仕掛けられたものだ。
白子水軍のような弱小水軍が関船を持つこと自体が珍しい。
建造費も維持費も、相応にかかるからだ。
敵威圧と作戦の幅を広げる目的で、
松親によって、千種屋に無理して用意させたものだった。
そして旗艦として井口に与えられた。
表向きは井口の戦力強化であるが、
裏向きとしては井口が乗る船を固定することにあった。
仕掛けを仕込むためには井口専用の船が必要だったのだ。
井口が退却に転じた。
水路が狭まり、
底が浅くなる地点に差しかかった時、
その鈎爪が岩に噛んで、関船は急に速度を失った。
ここは退路としては通行必須な水路であり、
井口の記憶では、関船でも十分通行可能な浅瀬だった。
「くぅ、早く退くぞ!
敵が来る!
過剰に人が乗るとこうも速度が落ちるものか……」
船上の井口の頬を汗が一筋流れる。
ついに井口の関船は、数十隻に及ぶ小早に取り囲まれた。
「えぇい! 迎えうて!
退路を作れ!」
矢や槍が関船に降り注ぐ。
井口は奮闘した。
やがて火矢も注がれ、関船から火の手が上がる。
*
川から上がった弥九郎、林の中の小さな小屋に入る。
その周りにはなぜか人の気配がなかった。
この周り一帯には見知らぬ忍びが点在し、
人を遮断したからだ。
その見知らぬ忍びたちは、
松親が神崎の伝手で極秘に雇い入れた甲賀衆だった。
甲賀衆は六角家の縁で動く。
松親直接ではなく、神崎の顔を立てて従っている。
小屋の中には、松親とその家来が待っていた。
「果たしました。
……しかし、よろしかったのでしょうか?」
弥九郎が心配そうに確認した。
「あぁ、お前は芋粥のためによく働いてくれた。
義兄上も本当は松丸君に家督を譲りたい。
だが、大殿や井口殿がそれを許さないのだ。
だからまずは井口殿を排除することに決められた」
「なるほど、そういうことでしたか」
「芋粥家は忍びへも褒美は惜しまない。
これは美濃物の名刀だ」
松親は一本の脇差を持ち出して鞘から抜く。
「この刃紋を見よ、美しかろう。
お前への褒美だ」
「な、なんとそれを頂けるのですか?」
「あぁ、お前はそれに見合う働きをした」
鞘に戻して、隣にいる家来に脇差を渡す。
家来が弥九郎にその脇差を差し出した。
受け取ろうと手を伸ばす。
その瞬間、家来によって抜き放たれた脇差は、
弥九郎を斬りつけた。
血しぶきが舞い、そのまま倒れ伏して動かなくなった。
その家来も甲賀忍者の一人だった。
甲賀忍者にとって、伊賀忍者は同業であっても仲間ではない。
口封じのために斬ることに、ためらいはなかった。
「とどめを刺しておけ。ぬかるなよ。
長島の手の者に討たれたように見せて川に流せ」
「は!」
「井口殿、恨むなよ。
これは芋粥のためだ。
万丸ではなく松丸君こそが芋粥を継ぐべきなのだ」
*
秀政のもとに織田家の伝令が走る。
願証寺から出た水軍は全て九鬼水軍が駆逐した。
これより総攻めを行う。
その知らせだった。
「そうか。井口は上手く誘導できたようだな」
だが、すぐに別の伝令が走る。
芋粥家の者だった。
「先の長島水軍との戦いで……」
「ん?どうした?」
伝令はうつむき、声を詰まらせた。
「第一隊の関船が討ち破られ……
井口甚右衛門様、新右衛門様、お討ち死に」
「は?」
秀政が目を丸くする。
「なぜだ?九鬼水軍が長島水軍を……」
「子細は分かりませぬが、関船が浅瀬にはまり、
敵に取り囲まれたようです。
関船には故障した小早から乗り替えた新右衛門様も、
御同乗されており……。
お二方は水軍の大将と見なされて、
門徒どもに執拗に狙われました。
救援に駆けつけられた白子様の目前にて、
お二方とも討ち取られ……焼かれました。
白子様も危のうございましたが、
間一髪その場から退却なされました」
「馬鹿な?!井口が?
ありえんだろう。
あいつは通れぬ浅瀬くらい把握しておる」
秀政の膝が崩れ落ちそうになる。
「井口……」
秀政が慌てて白子水軍の元へ向かう。
芋粥軍がこの局面で動かずとも、
織田の総攻めは成立し、
長島は落ちた。
下間頼旦含め、男女二万人余りの門徒が、
犠牲になった。
こうして、長島一向一揆は終結した。




