第百六話 長島大戦、開戦
九月。
長島。
木曽川と長良川に挟まれた湿地帯。
集結した七万の織田の軍勢、
かつてない規模の大軍である。
だが、信長は命じた。
「正面から攻めるな」
湿地帯、堤、水路。
長島は天然の要害だった。
正面突破をすれば、損害は大きい。
だから――
包囲し、兵糧を断つ。
逃げ場を消す。
最後に焼く。
これが信長の戦だった。
*
まず動いたのは北の柴田勝家。
重装の槍隊、鉄壁の軍が、
北側の堤防と土手を押さえる。
門徒が最も出てくる可能性の高い場所。
柴田の軍は動かない。
ただ、立つ。
槍を揃え、
盾を並べ、
堤を塞ぐ。
門徒が突撃してくれば、
ここで受け止める。
鉄の壁だった。
*
西の丹羽長秀。
戦の名人ではない。
だが――
戦を作る男。
湿地帯、ぬかるみ、泥。
そこへ道を通す。
杭、板、石。
兵が踏み固める。
湿地が道に変わる。
さらに柵、塀、土塁。
夜襲を防ぐための囲いが次々と築かれていく。
包囲線は、
ただ囲むだけではない。
守らねばならない。
丹羽はそれを知っていた。
*
南の羽柴秀吉。
土木の天才。
堤を築き、橋を架ける。
湿地に人工の道を作る。
兵が渡れる。
荷車が通る。
補給が止まらない。
秀吉の工事は、驚くほど速い。
昼に杭を打てば、
夜には道が出来る。
南側の包囲は、
完全に閉じられつつあった。
*
東の佐久間信盛。
役割は監視、包囲線の維持。
地味な仕事。
だが――
最も重要な仕事。
ここが崩れれば、
門徒は逃げる。
だから、
動かない。
陣を張り、
見張りを置き、
夜も火を絶やさない。
静かな包囲。
東の空気は、常に張り詰めていた。
*
そして――
遊撃。
滝川一益。
北伊勢を知り尽くした男。
水路、干潟、複雑な地形。
そこを自由に動く。
門徒が突破を試みれば、
そこへ現れる。
叩く、追う、消える。
機動部隊。
包囲線の穴を埋める刃だった。
*
そして――
芋粥秀政。
伊勢惣奉行にして、兵站総責任者。
七万の軍勢。
その補給線は、
一度も止まらなかった。
*
こうして長島は囲まれた。
北、柴田。
西、丹羽。
南、秀吉。
東、佐久間。
その外を滝川の遊撃が巡る。
そして海――
九鬼水軍と白子水軍が伊勢湾を封鎖していた。
陸も、海も、逃げ道はない。
長島。
一向一揆最大の拠点。
その島は、
巨大な檻の中に閉じ込められていた。
秀政は高台から戦場を見渡す。
「……押しの一手だな」
お悠が隣で言う。
「包囲殲滅戦にございます」
秀政は頷く。
「門徒は飢える」
そして最後に言った。
「戦は、これからだ」
長島大戦。
その幕が、
静かに上がった。
*
滝川一益から、秀政のもとへ使いが来た。
「芋粥様、滝川様より援軍のお願いがございます」
秀政はすぐに陣を訪れる。
滝川は水路図を広げながら言った。
「厄介な敵がおる」
「どのような?」
「船に乗った鉄砲隊だ」
水路を指でなぞる。
「小早で縦横無尽に動き回り、
近づいて鉄砲を撃ってくる。
撃てばすぐ逃げる」
秀政は頷いた。
「なるほど」
「動きが素早いゆえ、弓では上手く狙えぬ。
追えば水路へ逃げる」
滝川は秀政を見る。
「備前殿は鉄砲足軽を九十丁連れてきておると聞いた」
秀政は答える。
「はい」
「奴らを牽制してほしい」
秀政は即答した。
「承知しました。ではすぐに準備して参ります」
*
自陣に戻る。
お悠は兵站責任者として陣中にいた。
一際目立つ。
前線だ。
鎧姿である。
黒漆の胴丸。
胸元には芋粥家の抱き沢潟紋。
女性の体格に合わせ、
腰回りをやや細く絞った小札重ねの当世胴。
漆黒の光沢は、戦場の空気を切り裂くように鋭い。
肩は動きやすいよう、大袖ではなく小袖板。
髪を後ろで結い、
鉢金で押さえ、
黒漆の陣笠をかぶる。
濃紺の袴。
黒漆の脛当て。
腰には短めの打刀。
凛々しく、美しい姫武将であった。
(こんな危険な場所にお悠を連れてきたくはなかった。
だが、言うことを聞かん。
しかし……お悠が居てくれる。
ただ、これだけで戦場で勇気が湧いてくる)
秀政はお悠の元に向かった。
「お悠、俺は出陣する」
お悠はあからさまに心配そうな顔をする。
「え?あ、はい。ご武運を」
「大丈夫だ。危険のない戦いだ。
それよりも兵站は任せるぞ」
危険がない。その一言でお悠の顔も少し緩む。
「はい、お任せください」
秀政が言う。
「では行ってまいる。頼んだぞ」
お悠は一礼する。
「はい! 弥八様も必ず生きて戻ってください」
「もちろんだ」
*
秀政は尾張から、鉄砲名人の火野甚四郎正種と
九十丁の熟練鉄砲隊を連れてきていた。
だが、そのまま並べはしない。
七十丁、
そして二十丁に分ける。
二十丁は撃たない。
装填だけを行う。
撃つ者は七十。
二十丁分は装填役が次々に銃を渡す。
火野が撃つ。
すぐ次の銃。
撃つ。
また次。
火野は装填を意識することなく、連射できる。
回転式速射陣だった。
*
やがて水路の向こうに影が現れる。
小早。
五隻。
船の上には三人の鉄砲足軽、
多数の弓兵、
そして船頭と漕ぎ手。
船は滑るように動き、
滝川隊へ鉄砲を放つ。
機動小早鉄砲隊――
厄介な敵だった。
そこへ芋粥隊が到着する。
秀政が火野を見る。
「敵の鉄砲の射程外から、鉄砲足軽を撃ち抜けるか?」
火野は即答した。
「行けます」
火野は地面に伏せる。
左肘。
右肘。
銃床。
三点で体を支える。
国友流、三点伏射。
銃を安定させ、反動を逃がす射法だ。
五十間。
この距離でも当てられる。
対して敵の鉄砲は、
三十間まで近づかなければまともに当たらない。
通常の足軽が木盾を構え、
鉄砲隊の傍に立ち、矢に備える。
小早が近づく。
五十間。
火野が銃を受け取る。
撃つ。
轟音。
船の鉄砲足軽が落ちた。
次の銃。
撃つ。
また一人。
装填役が次を渡す。
また撃つ。
鉄砲の音が連続する。
二十丁の回転式速射。
五隻の小早の鉄砲足軽が次々と撃ち抜かれる。
続いて七十丁の鉄砲隊が火を噴く。
船頭。
弓兵。
次々に倒れる。
小早は動きを失った。
その瞬間――
滝川隊の弓兵が矢を浴びせる。
矢の雨。
長島が誇る機動小早鉄砲隊が、
わずかな時間で沈黙した。
秀政が頷く。
「よし、これで役目は果たした」
振り返る。
「退くぞ。
前線は何が起こるか分からん」
芋粥隊は颯爽と引き上げた。
戦場に長く留まらない。
それが秀政の戦だった。
*
遠くから滝川がそれを見ていた。
鉄砲の連射。
沈む小早。
滝川は思わず唸る。
「備前殿……」
小さく笑う。
「良い鉄砲隊をお持ちだ」
こうして織田軍は、
静かに長島を圧倒していく。




