第百五話 七万集結
七月。
織田家中は、
にわかに慌ただしくなり始めていた。
長島一向一揆との決戦が九月に決まっているからだ。
尾張、美濃、伊勢。
各地で兵の動員が始まり、武具が整えられ、
兵糧が集められる。
その中で――
桑名の動きは、ひときわ速かった。
芋粥秀政の兵站が、
動き始めていたからである。
*
まず変わったのは、道だった。
松親、荒木、神崎が中心となって進めていた街道整備。
その効果が、早くも現れ始める。
街道の両脇には排水溝が掘られた。
雨が降っても、水はすぐ流れる。
道は泥にならない。
橋梁も補強された。
荷車は止まらない。
そして軍も止まらない。
長島側の妨害はすぐに軍が急行し、鎮圧する。
長島を結ぶ道が整備されていく。
さらに、農道や獣道を繋いだ迂回路が整備された。
道は一本ではない。
詰まれば、別の道へ流れる。
渋滞が消えた。
荷車の車輪幅も統一された。
轍が揃う。
道が崩れにくくなる。
そして――
一定間隔に馬の休憩所。
水。
飼葉。
交代馬。
輸送は止まらない。
速度が安定する。
兵士たちが驚いた。
「おい、今日は荷が早ぇぞ」
「昨日あんだけ雨降ったのに、道が崩れてねぇ」
「芋粥様の兵站、すげぇな……」
現場の空気が変わる。
兵站は、戦の裏方。
だが、兵たちは気付き始めていた。
この戦は――
いつもと違う。
*
海でも変化が起きていた。
桑名湊。
南條が整備を進めていた港だ。
まず浚渫が終わった。
浅瀬が削られ、大型船が出入りできるようになる。
倉庫は三つに分けられた。
兵糧。
武具。
火薬。
混乱が消えた。
船着場も分離される。
大型船と小型船。
荷下ろしは倍の速さになった。
そして――
九鬼水軍。
白子水軍。
二つの水軍が桑名に常駐し始める。
湊には検問が置かれた。
門徒の密輸は、ほぼ止まる。
海路の兵站が、一気に強化された。
九鬼嘉隆が湊を見て言った。
「……桑名が、戦の湊になったな」
南條の評価が、静かに上がる。
*
陸では、兵糧蔵の整備が進んでいた。
松親が進めた、小蔵分散。
巨大な兵糧蔵は作らない。
村ごとに、小さな蔵を置く。
兵糧は分散される。
火災。
水害。
一度に失う危険が減る。
盗難も起きにくい。
さらに――
この政策は長島戦以降も役立つだろう。
兵糧の回転が早くなる。
古い米は残らない。
腐敗が減る。
帳簿を見て、お悠が呟いた。
「……損耗率が、半分以下になっています」
秀政が満足げに頷く。
「よし」
兵糧は、減らない。
戦ではそれが最も大事だった。
*
そして――
商人たちが動き始めた。
千種屋。
兵糧買い付けの総元締めである。
触れが出された。
尾張。
美濃。
近江。
伊勢商人が各地を回る。
村々から余剰米が集まる。
雑穀。
干物。
味噌。
兵糧は少しずつ桑名へ流れ込んだ。
商人は帳簿を付ける。
出納は正確。
兵糧は山にならない。
流れる。
秀政の狙い通り。
兵站は変わった。
「積む兵站」
から
「流す兵站」
へ。
*
村の空気も変わった。
徴発が変わったからだ。
量が決まっている。
村ごとの定量。
無理な徴発はない。
村は荒れない。
さらに――
商人が来る。
米を買う。
金が落ちる。
百姓が笑う。
「芋粥様の徴発は、前もって量が決まってる」
「無茶を言わねぇから助かる」
「最近、商人がよう来るようになったな」
村は、戦を嫌がらなくなった。
兵站の民心が整う。
*
その頃。
長島。
門徒の中で、焦りが出始めていた。
桑名の湊が固い。
密輸が通らない。
街道にも見張り。
兵糧が入らない。
米の値が上がる。
民が騒ぎ始める。
門徒の密偵が報告する。
「桑名の湊が固く、荷が通りませぬ……」
「米の値が上がり、民が騒ぎ始めております」
長島はまだ落ちていない。
だが――
干上がる兆しが見え始めていた。
秀政の兵站戦は、
静かに、確実に効き始めていた。
*
秀政は於菟に指示を出した。
「凪を長島から撤収させよ。
雲雀の同じ轍を踏ませるな。
もはや情報は要らぬ」
「はい、計画的に撤収させます」
*
数日後。
桑名城・軍議の間。
秀政、井口、松親、南條が顔を揃えていた。
机の上には長島周辺の水路図。
干潟。
中洲。
入り組んだ水路。
伊勢湾の内海は、陸よりも複雑だった。
沈黙の中、松親が口を開く。
「殿、白子水軍についてご提案があります」
秀政が視線を向ける。
「申せ」
松親は落ち着いた声で続けた。
「白子水軍は、私の管理のもと整備して参りました。
今では、いっぱしの内海水軍と言えるまでになっております」
井口が腕を組んで頷く。
「確かに、船はよく動く」
松親は軽く頭を下げた。
「ですが私は戦が不得手。
この水軍は――井口殿にお使いいただきたい」
井口が眉を上げる。
「わしが?」
「はい」
松親は地図を指でなぞった。
「長島戦では九鬼水軍が参戦するでしょう。
彼らは大船団。
深い海から封鎖と威圧を担うはず」
指先が、長島周辺の浅い水路へ移る。
「ですが、この内海は浅い。
大船では動きづらい。
そこで――白子水軍です」
松親の指が水路をなぞる。
「白子は小回りが利く。
前線の水路を押さえるには最適」
井口の目が光る。
「なるほど」
松親は続けた。
「今のうちに訓練を重ね、
井口殿ご自身も水戦に慣れて頂く必要がありますが」
井口は大きく笑った。
「心配ご無用!
慢心はせぬ、訓練に励みますぞ」
拳を叩く。
「水戦は経験がないが、今からなら十分会得してみせる。
殿が陸から攻め、
わしが海から長島を攻める。
武名も上がるというものよ!」
秀政が笑う。
「頼もしい」
松親は頷き、さらに続けた。
「では編成をご説明いたします」
地図の横に簡単な船団図を描く。
「三隊に分けます」
一つ目の印を付ける。
「第一隊。
大将は井口甚右衛門殿」
地図の最前線。
長島の外堀近く。
「関船一隻。
小早六隻。
兵は芋粥。
船頭と漕ぎ手は白子水軍」
松親は人数を書き込む。
「関船には足軽三十。
船頭と漕ぎ手十。
小早は足軽二十。
船頭と漕ぎ手四」
井口が唸る。
「つまり――
総勢百九十一名」
松親は静かに言う。
「長島外堀の最前線で戦う隊です」
井口は満足げに頷いた。
「よし」
松親は二つ目の印を付ける。
「第二隊。
大将は井口殿の嫡男、新右衛門殿。
小早五隻。
第一隊の側面支援。
増援。
追撃
総勢百二十五名」
井口が小さく笑う。
「倅にも武功の場を下さるか」
松親は三つ目の印を描く。
「第三隊
大将は白子甚右衛門。
今度はすべて白子水軍。
関船一隻。
小早八隻。
総勢百十五名」
松親の指が干潟をなぞる。
「浅瀬。
干潟。
中洲」
迷路のような海域。
「ここを自在に動く」
松親は言った。
「この隊は――
封鎖、奇襲、高速戦」
沈黙。
井口が腕を組んだ。
「見事な構成だ」
そして笑う。
「今から腕が鳴る」
立ち上がる。
「早速、新右衛門と訓練して参る」
松親は静かに頷いた。
「水戦は陸戦とはまた一味違います。
油断すると足を掬われる」
井口が笑う。
「任せよ」
そして去っていく。
秀政が松親を見る。
「すまんな。
お前に戦略まで考えさせてしまった」
松親は軽く首を振る。
「いえいえ」
少し笑う。
「“政”の字を頂くためには、
もっと仕事を下され」
秀政は満足げに頷いた。
「そうか」
鬼備前の目が光る。
「では――働け」
松親は深く頭を下げた。
「は」
桑名の海でも、
戦の準備は整い始めていた。
*
八月末。
伊勢の空は、戦の匂いに満ちていた。
長島。
木曽川と長良川に挟まれた湿地帯。
そこへ――
織田の軍勢が集まり始める。
旗。
槍。
荷車。
終わりの見えない行列。
街道は、兵で埋まった。
七万。
それが、今回の軍勢であった。
*
まず到着したのは、織田信長の直属軍。
鉄砲隊。
旗本。
近習衆。
一万を超える兵が、整然と陣を張る。
この戦の総大将。
織田信長。
すべての指揮は、ここから発せられる。
*
続いて、北伊勢の軍勢。
滝川一益。
兵一万。
北伊勢の地侍と国衆をまとめ上げた軍。
信長を補佐し、長島攻めの総指揮を担う。
伊勢の地を知る者。
芋粥家とも最も密接に動く男であった。
*
柴田勝家。
重装の槍隊。
一万。
織田家中でも屈指の武威。
包囲線の“押さえ”を担う。
鉄の壁のような軍勢だった。
*
丹羽長秀。
兵七千。
兵站。
築城。
補給。
戦の裏方を知り尽くした名将。
今回の兵站では、
芋粥家と役割が重なる。
だが――
両者は競わない。
協力関係にあった。
*
羽柴秀吉。
兵七千。
橋を架け、
堤を築き、
道を通す。
土木の天才。
長島周辺の湿地帯は、
彼の工事によって道へと変わる。
*
佐久間信盛。
兵七千。
役割は包囲線の維持。
監視。
敵の出入りを断つ。
地味だが、重要な役目だった。
*
そして海。
九鬼嘉隆。
織田水軍の主力。
大型船二十から三十。
兵一千から一千五百。
伊勢湾を封鎖する。
海の覇者。
*
その中で――
芋粥秀政。
伊勢惣奉行。
兵站総責任者。
本隊千二百を率いる。
さらに――
水軍。
白子水軍。
総勢四百十八。
そして――
千種屋。
商人ネットワーク。
兵站従事者。
三百から五百。
物資調達。
荷役。
帳簿。
兵站は、すでに“商い”として動いていた。
*
こうして軍勢は配置された。
陸の包囲軍。
およそ四万。
柴田。
丹羽。
佐久間。
滝川。
秀吉。
その中に芋粥軍の一部も組み込まれる。
*
築城と土木。
およそ一万五千。
秀吉隊。
丹羽隊。
北伊勢の土豪。
芋粥家の土木班。
湿地帯は、城へ変わり始めていた。
*
兵站。
一万。
丹羽長秀の補給隊。
芋粥家。
千種屋。
村々の徴発。
戦を支える巨大な背骨だった。
*
長島の湿地帯。
その周囲を、
七万の軍勢が埋め尽くす。
旗が林立する。
槍が波のように揺れる。
秀政は高台から、その光景を見ていた。
「……七万か」
隣に立つお悠が言う。
「兵站が止まれば、この軍は三日で崩れます」
秀政は頷く。
「だから止めない」
鬼備前の目が、長島を射抜いた。
戦は、もう始まっている。
長島大戦。
織田家最大級の軍勢が、
ついに動き出した。




