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目醒め/遭遇

 

 色鮮やかな液体が遥か彼方まで広がっていた。

 何一つ境い目はなく、明確さの欠片もない。すべてが模糊もことして溶け合ったその場所でぼうと漂う。


 全てがあり、全てがない。実と虚が寄り添う不確かな世界に、すっと静かな呼吸が響いた。何かがいる。確認したいが上手く出来ない。何故だろう。

 そうして気付く。観測しようとした『自己』が在ることに。じわりと染み込んだその感覚は、緩やかな覚醒を促してゆく。目醒めるに従い、曖昧な輪郭が生み出される。

 自己を自己と認識する。境界面が定まる。枠線だけの虚ろな存在へと色水が流れ込み、内側をとろりとろりと満たしてゆく。揺蕩う色彩が少しずつ濃度を増し、人間の形を模してゆく。その中心へと闇色の礫が一粒落とし込まれ、


 そうして僕は、






 瞳を閉じたまま、少年は身動ぎをした。


「……」


 彼は先ほどまで見ていた不思議な夢を思い出そうとする。

 しかし内容は覚えていなかった。ただ、水面に浮く油膜のように不確かな、粘度を持つ違和感だけが彼の中に残っている。

 ともすれば吐き気に繋がるその感覚が、彼の眠気を奪い去っていった。


 瞼を開くと、そこには見慣れぬ天井があった。


「……」


 固いフローリングの床から身を起こし、呆けたように周囲を見渡す。仄暗い小部屋だった。奥には『貸借』の看板が掲げられた木製の受付台が見える。左手側は本棚で埋め尽くされ、右手側には大きな窓が並ぶ。

 まるで図書室のようである。

 窓ガラスの向こうは暗く沈んで、景色は欠片も見透せない。塗装の削れた板張りの床、薄汚れた鉄筋コンクリートの壁、死んだ様に眠る書物たち。

 人の気配はなく、周囲を舞う埃だけが楽しそうに徒党を組んで渦巻いている。


 彼は数度瞬きして、改めて室内を見渡す。よく見ると受付台の横合いに扉があった。図書室には不釣り合いな、幾何学模様の大扉である。

 背丈の倍はあるそれには取っ手が存在していない。迷った彼は、そっと触れて、ゆっくりと押す。

 びくともしない。


「……」


 横に引いても、やはり開くことは無い。どうやら簡単には出られない様だ。

 閉じ込められている。

 ぞわりと悪寒が彼の身体を通り抜けた。

 脱出経路を求めて室内を振り返る。窓が目に付いた。見た所嵌め殺しの構造だが、叩き割れば脱出可能かもしれない。

 しかし窓の向こうに控える黒闇が彼に制動をかける。穴を開けたが最後、あの闇に飲み込まれる。そんな予感が胸の辺りから湧き上がって拭えない。

 代わりに、視線は別の場所へと向かった。

 部屋の中央、表紙が見易いように傾斜の付いた本棚。そこには色鮮やかな絵本たちが並べられている。

 どれも見覚えのない装丁。表紙に綴られた言語もまた、残念ながら読解する事ができなかった。しかし何故だろうか、彼の意識を捕らえて離さない。仕方なく心の要請に従って、それらを手に取るでもなく眺めて歩く。

 ずらりと並ぶ絵本の中に一冊、分厚い上製本が姿を現した。


 彼の足が止まる。大きく雰囲気の異なるそれ。一度気付けば無視はできない。手を伸ばして掴んだ刹那、昆虫の腹を押すような柔らかい感触が指へと伝わって来る。


「っ! ……?」

 

 しかし、それは一瞬だけ。気付けば生物的な弾力は失われていた。恐る恐る持ち上げ、隈なく検分するも、そこにあるのは堅く乾いた、ただの布表紙。


 開け。


 心の声に従い、彼は表紙に指をかけた。未知を恐れる感情があるはずなのに、身体は心の求めに従って止まらず動く。

 躊躇いなく表紙を開け放つ。瞬間、頁の合間から美しい極彩色の靄が滴り落ちる。これには少年もすぐさま飛び退いた。

 放り出された上製本は地に落ちることなく、零れ落ちた靄が地面と本の間に入り込み、支えるように滞留する。徐々に密度を増すそれは、気付けば巨大な芋虫へと変化していた。蝶となる事を想起させる華華しい表皮がずぐりずぐりと艶かしく波を打ち、円形の口腔に生え揃う牙からは金糸の如き粘液がてらてらと光る。三日月のように反り上がる尾の先は背表紙に繋がり、開いた頁たちは呼吸するかの様に優しく開閉する。

 少年はその大芋虫の美しき様を、しかし冷静に直視していた。

 故に気付いたのであろう。突如身体を右側へと投げ出す。瞬間、彼の真横を色鮮やかな巨体が猛進する。床に転がった少年は木椅子に縋って姿勢を立て直す。振り返れば芋虫は固く閉じた蕾のように力を溜めていた。また突進してくる。回避は間に合わない。彼は飛び込んでくる巨体を相手に、手にした木椅子を力の限り振り抜いた。瑞々しい感触が彼の両の手に伝わる。角張った脚部が容易く皮膚を割き、緑の鮮血が花咲くように飛沫を上げた。方向を逸らされ、本棚を巻き込み床に転がる大芋虫。少年は目の前の獲物に対して追撃しようとした、しかしすぐさま足を止める。

 なぜなら視線の先、熟れた柘榴のように大口を開けていた損傷部が泡立ち始めていたのだ。

 瞬く間に快復した大芋虫が鎌首をもたげる。少年が前方へ飛び込むと同時、彼の首があった場所を無数の牙が空振りした。素早く体制を整え、床に散らばる本棚の残骸を手にする。少年は狂った独楽のごとく横回転、芋虫の頭部を切り落とす。

 荒々しい切断面から鮮血の雨が降る。身体を緑色に染めた少年は、しかし唐突な衝撃に襲われて弾き飛ばされた。壁際の本棚に激突、上製本の雪崩に呑まれる。運が悪ければ死んでいてもおかしくない。それほどの勢いであった。しかし彼は、腹部を庇いつつも立ち上がる。対する芋虫は半ば再生された頭部で少年を見据えつつ、下半身を振り切った状態で佇んでいた。尾撃で少年を強かに打ったのであろう。

 たったの一撃で満身創痍となった少年と、片や頭部を落とされても早々に治癒する大芋虫。

 勝負は見えているかに思えた。

 しかし、優勢なはずの大芋虫には、欠片も動く素振りが見られない。

 よく見れば尾部に有るはずの上製本が付いていなかった。代わりにそれは、少年の手に握られている。尾撃を受けた際に掠め取ったのだろう。

 少年の手元から落葉するように上製本が解けてゆく。

 地に墜ちた頁の上、読解叶わぬ文字達がやおら蠢き始める。

 蠢く文字は姿を変え、啓蟄の如く新たに文字が涌き上がる。


「ーーー」


 認識可能となった言葉を少年が読み上げる。瞬間、彼は初めて表情を変えた。胸元を押さえて何かに耐えているようだ。

 一方、苦しむ彼を置き去りに、紡がれた言葉は波打ち伝播してゆく。凛々しき彫像と化していた大芋虫へと到達すると、その姿形はぐにゃりと歪み、気が付けば一人の儚い少女が現れていた。


 静かに瞑目する彼女は、切り揃えられた黒髪を艶やかに揺らす。そして、小さな丸眼鏡の奥で瞼を開いた。


「……?」


 夢うつつに揺蕩う彼女は、しかし思い出す。

 自らが何と化していたのかを。そして救われた今もその残滓と混ざり合っているということを。鳥肌と涙が溢れ、頬がぎりりと痙攣する。自らの中の何かチカラがどのような類いであるか、その情報が否応無く流れ込む。

 彼女には耐えられなかった。血管内で芋虫が這い廻る姿を想像して毛穴と瞳孔が極限まで開かれる。すぐにでもこの身を切り刻んで欲しい。心が潰れそうな少女に、小さな人影が被さった。

顔を上げた彼女は、


「大丈夫、助けてあげるから」


 大芋虫の一撃によって出血し、不自然に右手が曲がっている少年と目が合った。他ならぬ彼女自身の一撃によって、ぼろ雑巾のように痛々しくなった立ち姿。

 虚をつかれた彼女は、そして泣くように笑った。


「あなたこそ。助けが要るでしょう」


 目の前にいる恩人を癒さなくてはならない。たとえ拒絶されようとも。

 恐れと罪悪感を引きずったまま、白魚のような指を自らの口腔へと突き入れ、ゆっくりと歯を立てる。口から引き抜かれた指先には生血が滴っていた。

 少女は睫毛を震わせ、それが赤色であることに安堵する。


「……飲んで」


 否定される恐怖に抗い、躊躇いがちに差し出される指先を、少年は躊躇う事なく口に含んだ。彼の身体がやおら泡立つ。その感触に彼は身を委ねていた。

 ものの数秒で、彼が負ったはずの怪我は全て消え失せていた。改めて、少女は自らが異質な存在となった事を認識して自失する。変質した自らの存在を否定したい、そんな激情に抗う為、片腕で細く頼りない身体を抱き締める。それを少年は無言でただ見つめていた。

 どれほどの時が経ったろうか、少し心の落ち着きを取り戻した少女は小さく問い掛けた。


「……私は雨無あめなし冬深ふゆみ。学校の図書室に居たはずなんだけど、気が付いたら、その、あんな感じなっていて、本の中に綴じられて……。あなたはどう?」

「……」


 聞かれて初めて少年は気が付いた。自分が何者かを思い出せない事に。


「そう、分からないの……。何か少しでも、覚えている事はない?」


 少年は首を横に振った。

 沈黙の帳が降りる。

 同時にカチリ、と音がした。

 見遣れば受付台の隣り、そこにあったはずの扉は開かれていた。

 少年はすくりと立ち上がり、少女に手を差し伸べた。


「行こう。何か分かるかもしれない」

「……そう、ね。じっとしていても何も変わらない、かもしれないし」


 二人は連れ立って扉を潜る。

 この場所は少女の記憶にある、学校の図書室を模していた。しかし記憶とは違い、扉の向こうは廊下ではなかった。


「なに、これ」


 宇宙のように暗く冷たい空間に、二人は放り出されていた。足場の不安定さが少女の心を掻き毟る。

 一方、少年は直ぐさま周囲を見回し状況を確認した。その空間には、彼等以外に三枚の扉が存在し、他には何もなかった。背後を見るも、あったはずの図書室はそこになく、ただただ暗闇が広がっていた。

 少年は、硬く震える少女の右手を強く握ると、気負う事なく前へと踏み出した。


「……」


 少女は驚きと尊敬の表情を浮かべ、少年に手を引かれる。

 彼は続けて無造作に中央の扉を開く。その先は闇に沈んで見通す事が叶わない。

 やはり躊躇なく扉を潜ろうとする少年に、少女は導かれるまま身を委ねる。唯一の縋るべきその手を、強く強く握りしめる。


 ……そして。ずぶりと闇へ沈み込み、二人の姿は消えていった。



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