第六話
圭一が疑いの無い自信に満ちた(ように見える)笑顔で、車に乗り込み、駐車場から出て行くのを僕は見送った。空気中で埃っぽく瞬いていたいくつかの電灯の丸い明りが、僕がまぶたを閉じると放射線状に光を伸ばした。深夜の駐車場は車が少なく広々としている。自然性と人間性のどちらをも排除した重量を感じさせない、プラスチックで作ったような家々が取り囲み、すでに明りの消えたレンタルビデオ屋と、まだ暖色の光りを漏らせているファミレスの内側で、駐車場は草原を思わせる広さだった。わびしく広々としたアスファルトと、綿密に、くっきりとした嫌になるほど敷き詰められた、光と影が月の世界のようなあの地面と……。圭一がいなくなってしばらくしてから、僕は帰り道に向かって歩き始めた。
点滅を繰り返していた信号は、今は赤だった。あまりにも静かな、空間が冷たくきしんでいるかのような静けさで、車通りが著しく少なく、僕は赤なのに構わず信号を渡った。横断歩道の真ん中、中央で、辺りに誰もいないことを知っていた僕はその場で、道の遠い向こうを見つめた。人の目を射す強い車の光も、音も、人もいない遠くまで真っ直ぐ続く道路は、乾燥した無機質な道路と、全体を覆う鉛色の夜が遠くに行くに連れて濃さを増し、明りは小さく遠くでいくつか浮かんでいるきりで、ぞっとするほど荒涼としていた。足音、僕の足音だけが、唯一大きな音を響かせている。
しばらくその景色を眺めた後、僕は再び歩き出し緩やかな坂を下り始めた。
僕は圭一について思い出し始めていた。もしかしたら、確かに……、圭一の中にも少なからず劣等感はあったのかも知れない。そのことが、必要以上に彼を興奮させていたのかも知れない。しかし、それにしても、圭一は生き生きと、力強く、人生を信じているのだ。少なくとも、あの時、圭一は確かに生命力に満ちていたのだ……。
何も変わらない道路、わずかな時の進みを除いてあらゆるものがそのままな道を、雲が流れる向こうに依然として見下ろしている月も、灰色に伸びる雲も、砂利も、車も、静けさだけが充ち満ちて、ただ風が、時々風が吹くのみの、僕の足音が聞こえるのみの、この下り坂を僕は、圭一を思い出しながら下っていく。すべてが灰色の陰影へとスライドした世界で、明り、曲がり角に建てられたカーブミラーに映る二つの明りが左右に、それからやはりあの、明り、宙にいくつも浮かぶ、明り。坂からはわずかに街が見下ろせて、ただあちこちに浮かぶ明りが見えて……。
僕は列の持つ理性や客観性では捉えられない強い正当性を目撃した。いや、正当性を持っているかのように、僕が感じただけかも知れない。しかしその、感じた、ということが大事なのだ。なぜなら、その部分が、僕の理性を否定し、まるで真実を知っているのは自分だけであるかのように、自信を持って僕に訴えかけているのだから。
もしも圭一以上に僕が自分の人生に根拠を持っていたなら、僕はこんなにも悩まなかっただろう。そして同時に、列も姿を現さなかっただろう……。圭一の話した言葉は、まさに僕の考えそのものだったのだ。一寸の狂いもなく、僕らは同じだったのだ。ところが、僕らはどういうわけか、違う答えを出し、違う道へと進んでいく。僕らはどちらも理性によって問題を突き詰め、答えを端に端にへと追い詰め、納得した直後――どういうわけか――理性ではない別の何かの根拠によって、自らの道を選んだのだ。それはもしかしたら僕らの内面が深く関わっているのかも知れない。結局僕らは何も理性的には答えを見出せず、初めから僕らの行動原則を決定する、内面にあるメカニズムによって動かされているに過ぎないのかも知れない。なぜなら、僕らが僕らの道を選んだ根拠は、結局衝動としかほとんど呼べないからだ。圭一は列に向かうのは、自分に列を否定する勇気が無いからだと言ったが、それは僕だって同じことだ。僕は勇気があったから列に加わらなかったのではない。その理由を聞かれれば、僕はほんの小さな衝動が理由としか言えないだろう。それは結局、圭一が列に参加する理由となんら変わらないのだ。そうした人間の行動を決定しているかも知れない内面のメカニズムの背後、僕にはそのさらに背後に、列の姿がほの微かに見えるのだ……。
列の持つ魅力が、圭一を動かしたのだと僕には考えられるのだ。理性によってすべてを否定されながらも、僕の目の前で圭一の行動を介して、列は自身の魅力を僕に存分にアピールしていったかのように。まるで(それがまるでなのか、それとも真実なのか、僕にはわからないが)、理性なんかでは揺るがない正当性を列が持っているかのように、列は振舞ったのだ。僕の目に映る圭一は、まるで僕が知らない正当性、それも実は誰の目にも明らかなのにも関わらず、僕だけが間抜けにも見落としている単純な、強い正当性を持っているかのように見え、自信あり気に自らの道を進んでいったのだ。そう、この体験は理性の外で重要性を持つ。理性的な判断を経て、その上別の理由から道を選んだ圭一は、理性の外に答えを求めたのだ。そして、なにより言わなくてはならないのは、この体験の間中、僕は強い敗北感を感じていたということだ……。
この感情もまた、理性の外で感じているのだ。僕がどう考えるか、どう判断するか、あの場所や記憶の中での二人のやりとり、客観性と呼ばれるもの、あらゆる理性的な判断を越えて、僕の精神は、まるで自分こそが唯一真実を把握しているかのごとく、強い敗北感を感じていたのだ。圭一に褒められれば褒められるほど、僕は小さく萎縮し、困惑して冷や汗を流していたのだった。僕が圭一に向けたのはあの笑み――弱者特有の、彼等が困った時に見せる、あの弱々しい引きつった愛想笑いだった!これらの体験が指し示すのは、むしろ僕らの理性の背後にこそ真実があり、魂や感覚と呼ばれる絶えず錯誤を持つ感性の方にこそ、まるで真実を認知する力を持っているかのように見え、まるで僕がどう考えるかは無関係かのように、結果だけを与えられるように、僕の精神に敗北感が降ってきたということだ。僕の理性はもちろん、と言っていいのかさえわからないが、もちろん、理性を尊重し、こんな判断、観察は馬鹿げているという想いを抱いている。が、にも関わらず、なぜ確かに僕の内部には結果としての敗北感がそこに存在しているのだろう。証拠と事実がつじつまが合わないかのようで、僕は困惑しているのだ。そして、こうした乱暴な魅力を持つのが、列なのだ……。列はまるであらゆる過程とは無関係に結果だけを押し付けられるかのように、参加しない僕に敗北感を植えつけて行ったのだ。
圭一は列の魅力に当てられて、間違った道へと進むのだろうか?単に列に惑わされて自身の人生を選択してしまったのだろうか?圭一を見送る僕はそうした感傷的な想いから彼を見送ったが、しかし、僕が最も恐ろしいと感じるのは、全く同じことが僕に対しても言えるということだ。駐車場で圭一を見送る僕と同じ感情を、なぜ圭一が抱いていなかったと言えるだろう?「ああ、あいつはどうして気づかないのだ、あいつの背後にある列があいつを惑わし、滅びの道へと歩ませているのだということに」と圭一が僕に対して感じ無かったとなぜ言えるだろう?僕らは同じ条件、同じ理由から別の道を選んだ二人なのだ。僕の目には圭一の背後に列が見えるように、僕の背後になぜ列がないと言えるだろう……。
逃れたと思った瞬間に、すでに僕は列に惑わされているのだろうか?どこからどこまでが僕の判断や選択なのだろう。僕を動かす小さな衝動の発生が純粋に僕の内部から起こっていると僕は言い切れるだろうか?圭一は決断しない限り、種は種のままだと言った。それは違う。種は、どんなことがあっても種のままなのだ。人間の内面での激しい衝動などと言うものは、幻想的な妄想でしかない。種は種でしかないまま、僕らは自分たちを動かさなくてはならないのだ。あるいは列に惑わされているのかも知れない。ヘンリー・ミラーの言うように、死の牢獄へ向かっているのかも知れない。僕が想像するように、圭一が僕に対して抱いている想いのように、僕は間違った道を盲目的に選択したのかも知れない。大多数の列に向かう人々が僕に対して感じるような、青臭い失敗を僕は選択したのかも知れない。
ひやりとする、驚きをもたらす、嫌に明りの強い公園があり、遊具が、その光にはっきりと照らされて、小さな公園ながら不思議な光景、暗闇の中に幻想的な一空間を作り上げていて、昼間とは言えないまでも、しかし夜とは言えない世界がそこにはあり、そしてそれらが設計者の思惑とは無関係なことが明らかに見て取れたために、ああ、僕の眼球の奥の感傷的な球体が、かわいそうにまだその光景を信じられないでいるのか、つい目を向けて、またも向けて、そうか、どうしても自分の理解へと公園を小さく収縮させたいのだろう、その横を通りながら、下品で単調でつまらなく無計算でだからこそ人の目を惹きつけるその光りをもう一度確認したいのか、僕の白い表面の上に茶色いひも状のゆらめきをいくつも浮かべた眼球が、何度もそちらへ引き寄せられた。光りを浴びている敷き詰められたアスファルトから生えた、バイクを阻む、白くところどころに錆を見に纏い、U字を逆さにした鉄の脇を抜け、公園の輪郭に沿って通りぬけ、一本の長い直線へと出た。
鉛色と黒々ともう少し柔らかな黒と。実際はどこまでも分類出来るのだろう黒の膨大な黒の。音を知らないのだろうか、静けさという音を?静けさは夜の上空で世界を包むように偉大な大きな音で囁いている。目を閉じて息をこらした家々の壁と雲と空気とが、同じ一つの夜の差でしかない中に、均等に、一つ一つが糸で結ばれているかのように、冷たい緊張した空気の中に淡く放射線状に漏れ溶けながら拡散する喜びと、それを不可能にさせられる哀しみのなかで、電灯はあるのだ。地面は輝いている。僕はステップを踏むだろう。ヘンリー・ミラーが書いたあのステップを。あの足並み揃えたステップ、死の牢獄へ向かうステップ、逃れられない、あの、素敵なステップを――。




