第五話
――それから、冬が来た。灰色の雲は夏の間保っていた自身の境界を忘れ、どこまでも拡散する代わりに濃密さを失った。雲はそのまま空であり、
年老いたかに見えるか細く白い太陽の光は、隙間からわずかにかけらを逃がすに過ぎない。乾いた軽いひんやりとした高音の風が道を吹き通る。
この頃になると学校に通っている4年生はほとんどいない。大抵の生徒は単位を取り終わり、就職先も決まり、家で最後の休息期間を味わっているか、または卒業旅行や催し物を計画することで、知らず知らず自分たちの4年間をひとまとめにしようと工夫する。僕は時々学校に行ったが、知った顔はほとんどおらず、ごくたまに知り合いに会うと、過剰な喜びを受けた。心細く感じていたところに、見慣れた顔が通ったので、つい制約を失って本音を漏らしてしまったのだろう。それに、この時期に学校に来ている生徒は少なからず落伍者なのだ。その人物は未だに単位を取り終えていないか、同じ理由――彼の怠惰で楽天的、それから人懐っこい陽気な心情――から未だに就職も決まっていない。いよいよ数の少なくなってきた最後の仲間を求めるあまり、彼は慌てて就職の話しに話題を転換する。「そうか、君はいよいよ本当に、就職しないんだね、そうだったね……」と彼は半ば哀れむように、半ば求めていた仲間を見つけられなかったことから来る落胆を見せながら、諦め顔でうつむく。
あるいは、僕の心情が過度に写し込まれているせいかも知れない、東京に囲まれて縮む冬の校舎内は薄ら寂しかった。風が乾いていて冷たいせいかも知れない、褐色で沈んで見えるのは。いつも大体誰か知った顔があった喫煙所は、いつの間にか場所を小さくされ、僕の知らない下級生たちの馴染みの場所になっていた。高い校舎に囲まれた長方形のレンガ床で出来た、広場というにはあまりにも狭さを感じるあの広場、そこに建てられたお飾りの大きなオブジェクトの下で腰掛ける一人好きの生徒、まとまりを持たず一斉に話そうとする若い女の子達の愉快な鳴き声が聞こえ、やがて楽しそうに身を寄せ合う彼女達の姿が階段から現れる。それから、あの喫茶店、輝きを失い古びた銀のテーブルが外に並ぶあの喫茶店、そこにいる人々の数そのものが白けたように少ない。笑顔があるにせよ、それがかえって奇妙にその場をつまらないものに、寂しいものに見せている。すべてはここから去ったのだ。何もかもが去った後のわずかな残りを僕は眺め歩いているのだ。ここは、世界と僕の関係を正確に表しているかのようだ。
ニスが光っている木製のがらくたのようなベンチ、広場の縁で僕は腰かけ、時々流れるわずかな生徒のゆらめきを感じながら、本を読んだ。この頃の僕はヘンリー・ミラーに夢中だった。北回帰線を繰り返し繰り返し何度も読んだ。どこから読んでもほとんど変わりのないこの本が僕は好きだった。それは海のある一部分をほかと区別して指摘できないことと似ている。北回帰線はほとんどすべてのページが海であり、一部分であるのだ。何度か読み終わると、僕はページ数に縛られずにその本を読んだ。思いつきでページをめくり、数ページ読むとまた本を閉じた。それはまさしく、海に漂う心地良さだったのだ。そしてまた、この本が文学でないということも、僕がこの時期彼の本を好んで読んだ理由と大きく関わっている。ヘンリー・ミラーの言うように、この本は否定なのだ、破壊なのだ、決して文学ではない。文学を否定した文学なのだ。すでに世界に存在しているものに対する破壊活動が、そのまま創作という行為である場合がある。ツルハシを持って文学を破壊する彼の行動こそが、彼の創りだした文学なのだ。その姿に僕は知らず知らず、後ろから声援を送っていたのかも知れない。
もしかすると……僕は迷っていたのかも知れない。少なからず魅了されていたのかも知れない……。でなかったら……ヘンリー・ミラーを僕が好んで読んだりしただろうか……?僕は、列に加わろうとしていたのだろうか?否定は出来ないだろう……僕は全く、自信がないのだ……いつであっても自信など無い、それに正直に言うなら、僕はむしろ列に魅力さえ感じているのだ、それも、それがいつであろうとも……。ああ、あの列に、あの列に対して、僕はそう、何度悪口を言っただろう?あんなものに交じるのは馬鹿者だと、何度言っただろう。馬鹿者で追従者で無思考なのだと何度言っただろう。しかし、そう言っている間も、正直に言うけれど、僕は参加したくてしかたがなかったのだ……。やはり、迷っていたのかも知れない……。
確か12月のことだ!冬にしては妙に暖かい日で、ごうごうと音を立てる空が、灰色の濃密な汚れた雲を次々と送り込み、波打つ川を空で揺らせていた。つまり風がよく吹いていたということだ!服の隙間に潜り込み、窓ガラスを湿らすあの暖かい吐息を吐き、肌を生臭い舌で舐め、こめかみを重く感じさせるあの、生暖かな風が吹いていたということだ。時々、樹々に備わった堅い葉々が幾千も身をたたき合って音を鳴らし、膨大な点となった音を夜の中に散らばらせる。――僕は家からの道を一人で歩いていた。
片側に昔からある古い住宅が並び、もう片側が砂利で出来た駐車場のある緩やかな上り坂を僕は登っていた。坂の頂上では信号が点滅している。光は点滅するたびに、地面や建物の側面を照らした。信号がもう一度青に変わるのを待つために僕はゆっくり歩いた。
信号を渡った先のファミレスの光の前には、すでに圭一が来ていて、僕に気がつくと体内から湧き上がるような笑みを見せた。――意味はないのだけれど、どうしても顔が形を変えるのを止めることのできない、懐かしみが引き出すあの笑みだ。わずかに会話を交わした僕らは店内に入った。
すぐにやってきた店員に案内されて、僕たちは店の奥へと進む。客はほとんどおらず、ひっそりとした雰囲気が店に満ちている。一番奥の窓際の席に僕らは座った。圭一の背後には、さっき僕の通って来たあの道、点滅する信号のある道があり、その光が時々地面に反射していた。客は僕らのほかに3組いたが、すぐ近くにいたのは1組のカップルだけで、彼らは顔をテーブルの上で近づけ合い、微笑しながらひそひそと囁き合う穏やかな人々だった。
くすぐられるような、愉快な居心地の悪さがあった。圭一と会うのはいつぶりだろう、夏が始まる前に学校で会った以来だから、半年近く会っていなかったらしい。つまり、僕らは半ば他人になっているのだ。目の前にいる圭一は、僕が圭一という人間の継続性を失った半年間の分だけ、他人なのだ。にもかかわらず、僕は親密感を持ったまなざしで圭一を眺めてしまう。彼のあらゆる動作、皮膚の感じ、タバコをテーブルの上に叩くほんの小さな癖などのあらゆる行為から、半年前の圭一を見つけようとする。いや、眼だけではない。僕の耳や鼻や口、皮膚や体全体が、半年前の圭一を見つけようと触覚を震わせている。というのも、僕の持つ器官は僕の頭脳ほどに理性的でないからだ。そこには確実な半年という期間が名付けがたい微妙な差となって彼の身体に染み付いている。いや、染み付いているというのでは現実との間に嘘がある。時の経過は付着などするのではない。むしろ僕たちこそが積極的にその証拠となるのだから。半年間のズレが生じた結果、今圭一がどんな形状をしているのか、それを僕の器官は、感性は、必死に暗闇で探り当てようとしている。理性では判断しきれない微妙な、僕の器官や感性の持つ「感覚」としか呼びようのない奇跡的にミクロな世界で、それらがある程度正確に今の圭一を見つけるまで、理性としての僕はただ時が経過するのを待つほかないのだ。それは圭一にしても同じことだ。僕らは何も見えない真っ暗な暗闇のなかで、手探りで相手の全身を確かめているようなものだ。この想いはまだしばらく続くだろう。
「元気してんの?」
圭一は言ったすぐ後で、丁寧にカットされた――いかにも彼らしい几帳面なやり方と素晴らしくまともな形!――眉の下で長いまつげを下げると、足を組むために腰を一度浮かせながら、やや下唇の太い、しかし小さく綺麗な形をした唇を、にやりと上げた。さっきから彼の指先で上下に震えている白いタバコを、ようやく口にくわえて火を点けた。色の濃い白い最初のひと吹きが生物の繭のような形で遠くに向かいながら崩れ際の波のように空気中で速度を落としながら薄れた。それからもう一度、「元気してんの?」と言ったが、言いながら彼は吹き出した。彼の一見無神経に見える気遣い――というのも、彼が二回同じことを言うのは、確かに本当に気まずさや困惑があったにしろ、その目的はむしろ、僕に対する親密感を示したいがためであったからだ。僕らの間に流れるこの気まずさを積極的に明らかにし、注目を与えて具体化させようと彼はし、あえて二度同じことを言い、二度言う不自然さを自分で笑うことで、さらに注意を置きたいのだ。こうして気まずさをあえて明らかにさせること、いや、気まずさをあえて明らかにしようとしているというその行為を、僕に堂々と見せることが、目的なのだ。なぜなら、その無神経な行為はむしろ僕らの友情の証明となるからだ。それらが僕らの間では許される行為、それどころかお互いの笑いの種や楽しみとなるということを明らかにすることで、僕らの友情を証明しようと彼はしているのだ。こんな風に、彼が僕らに対して振舞う無神経さは、むしろ心地良い甘えや、喜ばしい親密感を感じさせる。いわば問いかけなのだ!「僕らはこんなにも親密だろう?」と彼は問いているのだ。僕が同意しさえすれば、契約は成立する。そう、これは契約のようなものだ。契約という言葉にあまりにも生活感が無いという点を除けば、その言葉はぴったりと当てはまる。
「ゆきおは?」
と僕は聞く。
「ああ、あいつね、元気してるよ、バイトばっかりだけど。そうそう――」と圭一は話す。
「誠司は?」
と僕は聞く。
「あいつさ、もう会社行ってるんだよ。正式には4月からなのに、研修とか言って、もう行かされてるんだよ。だからあいつ――」と圭一は話す。
「そうすけは?」
と僕は聞く。
「あいつ――」と圭一は話す……。
深い馴染みのある僕らの記憶の同じ匂いを確かめ合いたくて、いくつもの質問と答えが繰り返され、あるいは半ば形式的と言わずにいられない、あるいはしかしそれ自体が重要に意味を持つ儀式とも言える愛撫に似たやり取りを繰り返したあと、僕ら二人の頭の中は共通に歪み、濃密な(例えば蜂蜜のような)硬い液体となり、時は遅く粘着質に、そして巨大になり、あまりにも大きい生物がゆっくりと腰をあげるように、ゆっくりと、しかしその実、凄まじい速さで、半ば抜き取られたかのように過ぎていく。何時間かが過ぎて、僕らの間にあった例のあの「時が持つ距離感」は消えて僕らはすっかり馴染みと戻っている。一体何度店員が僕らの灰皿を交換し、店内にいた客が出て行き、新しい客がやってきただろう。窓の外の信号が、何度点滅しただろう?――ああ、とうとう圭一は僕にあの質問をした!それは予期していたことなのだ。今日必ずその質問がされるということは。そして、だから僕は、ここにやってきたくなかったのだ。今日、出会った時から僕が妙に焦ったような、落ち着かなげな、視線を一点に置く時間が著しく短かったのはそのためなのだ。
「お前は、どうするの?」
圭一はそう言った。
無邪気な表情をしている。話す流れに乗っかって、思わず何も考えずにその質問が飛び出たのか?あるいは、何も考えていないかのように、装っているだけなのだろうか?それとも、僕が考えるほど、気を使うべき質問でもないのかも知れない。僕は、思わず、口ごもり、「いや……」とだけ言った。
「なになに……?」
と圭一は純粋な――どうやら何も考えていなかったらしい――好奇心から身を乗り出して笑顔で尋ねた。
「いや……」
と僕は笑いながら、口ごもる。
「なんだよ、なんだよ」
と少し意地悪く、責めるような調子で、笑いながら圭一が聞く。
しばらく沈黙があった後で、「……小説家になろうと思うよ」と僕は言った。
無言で、呼吸が止まったような表情でしばらくうなづいた後、圭一は嬉しそうに顔を崩し、「ああー」と息を吐きながら語尾を伸ばし、一音一音をゆっくりと、「そうなんだ」と感動し、首を縦に振りながら囁いた。
――こんなことは言うつもりなど無かったのだ本当は。というのも、僕はそんな風には思っていなかったからだ。最も驚いたのはむしろ僕なのだ……。なぜそんなことを言ったのだろう?僕の中にそうしたいという想いが少なからずあったのかも知れないが、僕が考えていたのはむしろ人生や生き方に対する疑問であって、何かを選択しようなどという意志などほとんどなかったのだ。それどころか、決断なんて!何かを選ぶほど、僕の頭はこの頃クリーンではなく、大きすぎる違和感、または疑問の岩の前で思い悩んでいただけに過ぎないのだ。それを決断なんて!とんでもないことだ……。
「いいね、いいね」と圭一は続けて言う。「いや、本当に、俺は本当に褒めたいよ。これは本音で言ってるんだよ、本当に」
時々見せる、感動に満ちた熱っぽい表情で、圭一は語り始めた。
「本当にさ、お前みたいに、リスクを背負わなかったら大きな成果は得られない。そうだろう?俺は、本当にそう思うね。俺だとか他の多くの人間のように、安定を求めていたら決して大きなものは手に入らない。これは本当にそう思うよ」
僕は決して大きなものなど望んでいない。大きなものとはそもそもなんだ?いや、しかし、これは例え話のようなものだ……。
「それにだ、現代のこの状況の中で、就職することが果たして安定か、とはっきり誰も言うことなんか出来やしない。歳を取ってから職を失う人間もたくさんいるじゃないか。現に俺の友達の一人の親は……、まあこれはどうでもいい。とにかくだ、今の時代、就職しようがしまいが、人生のリスクはほとんど同じなんじゃないかってことだ。いや、時代が悪いとも確かに言えるだろう。しかし、視点を変えれば、これは冒険するのに素晴らしいチャンスとも言える。なにしろ、なにをしたってリスクは変わらないのだから。つまり、お前はそう言いたいんだろう?お前が自分の頭の中で組み立てた論理はこういうことだろう?いや、わかる、俺にはわかるよ。それは素晴らしいと思うよ、本当に!大体俺達が就職する理由なんて、周りのみんながそうするから、という程度で、それ以上の理由を持っている人間なんて一握りさ。俺だってその多くの人間のうちの一人だ。結局さ、こうして自分で間違っていると思いながら、正しいと思われる道へ、人と違ったことをするのが恐ろしいという理由から踏み出せないでいる、ただの度胸無しが俺なんだよ」
そう言う彼の顔の、なんて生き生きとしていることだろう!なんて嬉しそうな、喜ばしい表情だろう……。
「所詮、俺なんて凡人なんだよ。時々だけどさ、お前の中にあるお前を動かす重大な、人生を方向づける重大な欲求のようなものが、俺の中にもあるんじゃないかと思う時があるんだよ。世間で言う、夢だとかやりたいこと、だとか言うやつがね」
圭一は照れて一度笑った。
「いや、それは確かにあるのかも知れない。しかし、本当にあるとしても、やはり俺は同じことだと思うよ。その欲求の種のようなものが、俺の中に確かに転がっていたとして、薄暗い体内の底で沈んでいたとして、俺はその種を取り上げて、これが俺の最も大事な欲求なのだ、と言い切ることは出来ないと思うよ。ハッキリと指差し、指摘することは無理だと思うよ。というのも、正直に言うけど、怖いんだ。もしも俺がその種を指さして、これこそ俺の最も大事な欲求で、これが俺の人生を方向づけるのだ、と言ってしまったら、その時から、なぜだか、俺の人生が崩れ始めるんじゃないかって気がするんだよ。認めてしまったら、俺は――なぜだかわからんけれど――脱落者になってしまうように思うんだ。なぜだか、そういう恐怖があるんだよ、いつでも。その瞬間からすでに俺は、みすぼらしい脱落者への道を歩み始めるんじゃないかって、恐ろしいんだ。もしかしたら俺はあまりにも臆病なのかも知れない。俺の中にある欲求に従って生きるには俺は臆病すぎるのかも知れない。いつでも道から外れる恐怖心が、俺に決断させないでおくんだ。しかし、時々思うんだけど、この欲求の種というやつは、芽生えた瞬間からいつも、ずっと体内で転がっているんじゃないかと思うんだ。たまに自覚することがあるんだよ、もしかしたらこれがそうなのかも知れないと。その時に俺はすぐさま取り上げて、指摘してしまえばいいんだ。ところが、今度は俺の想像が邪魔をするのさ。俺の想像、これは妄想と言ってもいいが、それによると、俺の種はいつしか勝手に育ち、体内で根を張り、ぐんぐん成長し、圧倒し、征服し、認めざるを得ないように俺を脅迫するはずなんだ。有無を言わさない暴力を持って、俺を納得させるはずなんだ。これは願望だ、そうなったら俺はただうなずきさえすれば良い、そうなるに決まってる。ところが、種は芽を出さない、ただ転がっているだけなのさ……。俺は来るはずのない日を待ちわびて夢見ている。種が成長し、俺を脅迫するその日まで待とう……、そう考えて俺はまたも決断を先送りにする。決断しない限り種は種のままなのにな。
「種がある限り、決断はいつでも出来るんだ。そういう余裕が俺の中に恐らくある。しかし、むしろ逆なんだよ。決断はいつしても良かったのさ。俺はチャンスを待っているように見えて、チャンスを逃し続けているんだ。1000回のチャンスに足がすくんで飛び出せなかった男が、急に次のチャンスに勇ましく飛び出せると思うか?ところが、俺の持っていたチャンスは1000回どころじゃないんだよ。時の分割が可能なだけ、それらがチャンスだったと言えるんだから。途方も無い回数で、俺は決定的な決断の機会を逃し続けてきたということだ。俺は決断する代わりに、いつも願っていることがあるんだよ。いや、お前はもしかしたら、そんなのは馬鹿げているとか、矛盾しているとか、真実ではないとか、そんな風に思うかも知れない。しかし、俺は本当に願っているんだ。というのも、俺は『俺にとって恐らく非常に重要な――あるいは俺の人生を左右するほどの重要な――欲望を、俺の見ていない間に誰かにこっそりと放棄しておいてもらいたい』ということさ。俺は選ぶ代わりに、放棄を願うんだ!それも、俺の見ていない間に。卑怯者だとお前は思うかも知れない、弱い奴だと笑うかも知れない、しかし、俺は自分が放棄したという責任さえ持ちたくないんだ。誰かが捨ててくれるとしても、それを見ているのさえ嫌なのさ!でなければ今度は、放棄するのを見逃したという責任が生まれるからな。責任、責任、と何を恐れているんだ、とお前は思うかも知れない。しかし、真実、俺は恐ろしいね……。痴呆症の老人の服に付いた食べかすをつまみ取るみたいに、俺に気づかずに、こっそりと捨て去ってしまって欲しいんだよ。矛盾に感じるか、あるいは病的に感じるか、とにかくこの他人に任せたいという願望、これがすべて俺一人の心の中の話なんだ、間違いなく。そのせいで、俺の人生が俺の思い通りに行かないとしても、俺は我慢出来るんだよ。そこに責任がない、そのことがかえって俺の救いになるんだ……。責任は恐ろしいよ、俺は本当に。あるいは、感情的過ぎる考えかも知れないが、そのためにこそ時があるんじゃないかとさえ俺は思うね。時はいつでも、誰にとっても、他人なんだ。決してそれ以上近寄ること無く、遠ざかることもない。公平な、他人さ。俺の願い通りに、こっそりと、音も立てず俺に気づかれることなく、実にこっそりと、俺の中から夢や望みを掠め取り、放棄しておいてくれるんだから。きちんと、俺に責任が及ばないようね……。ははは、いや、こんなものなのさ、俺なんて。確かに凡人だとお前は思うだろう。いや、そうなんだ、俺は凡人なんだよ、底の底まで。いや、お前は素晴らしいよ、俺達のようには時に決定権を与えなかった数少ない、勇気ある人間だよ、俺は褒めたいね」
そう言って、圭一は興奮した肩を降ろして笑みを浮かべまま小刻みに頷きながら、タバコに手を伸ばした――。




