第四話
それからしばらくして――その頃の僕は大学4年生だった――夏休みを終えた僕らは、就職活動の最も盛んな時期を迎えた。ある種の人々はすでに就職先を見つけていたが、それらの少数の人々を除けば、ほとんどの大学生がようやく焦り始める時期である。
夏が過ぎ、暑さがようやく落ち着き始め、夏のような暖かい日がやってきたかと思うと、冬を思わせる寒い日が続いた。湿った空気は去り始め、乾いた眠気を誘う風が吹き始めた。道に射す日差しは陰影をくっきりとさせるが、苦しさを伴わない柔らかなものへと変わった。
学校内は焦った雰囲気が微かに満ちている。喫煙所や校内、教室には時々スーツを着た生徒が混ざり、歩く人々も急いでいるかのようなところが見える。生徒が集まって話すことと言えば、4年生のこの時期となると、まずは就職か将来のことについてである。怠惰な生徒達が集まって、タバコを吸いながら、進展の無さを相手から引き出して、少しでも安心しようという腹づもりなのである。それから不況を盾に取り、いや、厳しい時代だよ、と急に10歳も歳取ったかのような大人ぶった態度で、周りにいる下の学年の生徒や、あるいは就職と無関係の生徒に向かって、むしろ特別に恩恵にあずかっている、特権的な地位にいる人間のフリをするのである。
僕はと言えば、相変わらず本ばかり読んでいた。就職する気はほとんど全くなかったから、周りの焦った状況は他人の不幸と同じで、面白そうだという関心を誘うほか、なんらの関わりもなかった。そんな僕でも、時々道を歩きながら就職する自分について想像してみることはあった。スーツを来て、説明会へと行き、面接を受ける僕を。ところが、僕の想像はいつも同じところへ行き着くのだ。そもそも僕が生きる目的とは何か、人生の深い意義はどこにあるのか、そうして僕はいつも自分の遠い過去に想像を巡らせて、半ば夢のような思索の中へと落ちていくのだった。
本質的すぎるのかも知れない、あるいは、僕の考えというものは。目の前の困難から眼を背けるための、巨大なベールなのかも知れない。窓の外の風景を眺め、あの山の向こうに何があるのだろうと想像するのと変わらないのかも知れない。そもそも答えなど求めておらず、誰にも解決出来ない大きな問題を掲げることによって、自分を崇高に見せ、相手を圧倒させることで、コソコソその場から逃げ出したいだけなのかも知れない。僕の眼に映る彼らは、時々ひどく虚ろに、無気力に見えた。なぜ彼らは就職するのだろう、という疑問が僕にはよく浮かんだ。なぜこうも当たり前の顔をして、彼らは同じ方向に向かうのだろう。僕には彼らが就職する目的というものがわからなかった。母親か、あるいは古い記憶の中の学校で、食べるために働くのだと聞いたことがある。僕らの父親の世代はそれで良かったのかも知れないが、僕らの世代が同じ理由で就職できるだろうか?働かずに、就職せずに食べていける人間を山ほど見ている僕らに?むしろ、食うために働くのだ、と言えた時代の人々は幸せだ。僕らの世代には働く目的さえ無く、しかし義務がある。そこに憧れや喜びを見出すようには育てられなかった。人生に目的や意義を求める人間は別の生き方を模索し、群れから外れ疎外される……。これらも彼らの言うように僕の甘さから湧き出るのか?あるいはそうなのかも知れない……。
僕は一度だけ――というのも、そんな馬鹿なことは二度とすまいとこの時に決めたから――一度だけ彼らに対して、「なぜ?」と問いかけたことがある。僕は、それ以来、二度とこんな馬鹿なことをしようとは思わない。僕の想像していた反応は、一つには議論だった。「では、お前こそどうなんだ」と怒りの混ざった反論を予想していた。あるいは、自分たちが苦労している時に、のんきな観覧者がやってくると腹を立てて追い払うように、彼らも僕を叱って、追い払うかも知れないと考えていた。が、彼らがした反応はそのどちらでもなかった。
かつては銀色に輝いていたであろう、小さな、鳥肌のような白にまぶされ具体性をぼかされたテーブルがいくつか並び、その周りを同じ色をしたイスが散らばっていた。暗く、薄紫色をしている、すでに夜は。影の濃さを利用してそこに正体を残そうとする校舎が、目を凝らすとわずかに見えて、その隙間から重なり合う、白と紫の雲が見える。横にあるカフェからオレンジ色をした光が溢れて、彼らやそれらを同じ側面から照らしている。膨大に揺れ動く微細な点にすべてが変化したような、すべてが陰影そのものへと変わり始めるときであった。
4、5人いただろうか。みんな立って、片手に缶コーヒーかタバコを持ち、あるいは両方を持ち、静かに、落ち着いた雰囲気の中で会話をしていた。
そこに校舎の向こうから、暗い影の方からやってきたのは、スーツを着た一人の男だった。彼は忙しそうな素振りで僕らの前にやってくると、テーブルの上に四角いバッグを降ろし、「面接?」という僕ら仲間の問いに、「説明会」と素っ気なく答える。――大人びた態度で、義務を果たしているという自分に対する満足感と、怠惰な人間に対する無言の圧力を含んだ、あの態度である。
中からタバコを取り出すと、彼は誰かに聞かせるように、大きな声で「疲れた」と言った。それからテーブルに腰を乗せて、肩をだらりと垂らし、口をしばらく開いたままでいた。喉の奥から小さなため息を数回吐くと、タバコを取り出して火を付けた。一口吸うと、彼はまた同じ姿勢――やや前のめりになり肩を垂らす――になり、点を数えているような表情で
地面を見つめた。
「いやあ、もうやりたくないよ」と彼は愚痴を言う。半分は本心から、もう半分はある種の自慢から。
「お疲れ」と仲間が声をかける。
後から来た彼の疲労感が全体を圧迫しているような、泥っぽいのんきが辺りに漂っていた。何かを考えているのか、あるいは、何も考えていないのか、ぼうっとした顔がいくつかある。スーツの男の隣に、彼が何か言い出すのを期待している男が一人。
ふいに、唐突に、その場の全員の集中力の切れたぼうっとしたような、好奇心の及ぶ距離が身体から極めて近くなり、ありもしない空気中のカーテンの衣擦れの音に耳を澄まし始めるあの雰囲気に当てられて、僕の耳はそれぞれの音が持つ固有性を見分けることができなくなり、誰かが間を埋めようとすすった鼻の音や、足を引っ込める音、カフェの中で話している人々の声と、校舎の奥のさらにビルの奥、駅のそばを走る電車や車の音、球状の地球の表面を流れる透明なガラスの板が入れ替わる音、大気がやかましく、密かに響かせている喉の隙間音、それらが一つの同じ、混濁した虹色の分厚い音へときらめきながら溶け絡まっていくかのように僕は錯誤し始め、眼は自然が作った空の模様から既視感を探りだそうとするか、あるいは空と僕との間にある名付けられない場所が空白であるのをいいことに、想像を滑りこませようとし始めていた。ところが、突然の笑い声、喉の奥から埃を掻きだすような裂けた笑い声に、世界は僕の前に立ち戻ってきた。隣に立った細長い頬のこけた泥っぽい土を三つ編みにしたような外見の男と、スーツの男が顔を合わせて笑っている。
スーツの男ととなりの泥みたいな男から発生した穏やかな牧歌的な笑いは、そこに居た人々の身体から圧迫を取下げ、安心とともに笑いを内臓から引きずり出される想いがした。急に表情を微笑へと崩した彼らは、無意識からか姿勢を楽に、ある者は静かにゆっくりと、まるで自然に倒れようとする高い偶像のようにテーブルに腰掛け、ある者はトイレへ行った。揺れて弾み、彼らの髪は、上がり下がりする彼らの肩は。指揮者が指を鳴らしたみたいに一斉に笑い、勢い良く溢れでた追従者らしい陳腐な笑い声は、徐々に収まりやがて小さく丸まって消え行く。
どうして僕がその言葉を言おうと思ったのか?彼らの話題が、いまだにスーツの男の就職に関するものであったにしろ、全く彼らの生態を理解していないこんな馬鹿げた質問をしたのか?すでに、なぜなのか、僕の記憶にはない。あるいは、蓄積させられた(させられたのだ、これはまさに)反発心からか、あるいはのんきに当てられて心地良い薄ら幸福心に満たされていたか、それとも好奇心と戦っているうちに、飛び降りてしまえという気分にさせられたか?ああ、とにかく僕は言ったのだ!――「なぜ?」と。「一体なぜ就職するのか?」と。なぜこれほど馬鹿馬鹿しい質問をしたのだろう?
僕の期待していたような反応は誰一人取らなかった。奇妙なものだ、僕の言葉はまるでこの世界ではない別のどこかで鳴り響いているみたいに、誰の反応も引き出さなかったのだから。僕の言葉はまっすぐに彼らの横を通り抜けて、彼らにも気づかない速度で通過してしまったのだろうか、あるいは僕が声を出したと思っただけで、僕は何も発声などしなかったのだろうか?みんな下を向くか、ほんのわずかにも身体を動かさないようにしているかのようで――呼吸さえ止めているかのような!彼らのした反応といえば、僕が言葉を発してから大分経って、ようやくスーツを着た男が僕と目を合わせずに、姿勢をゆっくりと起こしながら言った、「まあ、ね……」という相槌とも否定とも取れる曖昧な、終わりを知らせるためだけに打たれた短い言葉だった。周りに居た彼らの表情には、意識的な放置と、この話題に関わりたくないという拒絶感が浮かび、彼らの大好きな、僕らを突き刺すのに最も有効な一撃の一つだと彼らが考えているあの卑劣な仕草、明らかな批判を含んでいるくせに、自分たちは批判しているのだという宣言さえ持とうとしない、いわば匿名に似た安全性を持った、あの仕草――白い目で僕を見た。そしていつものように――潮風の吹く中に立つびくびくした生肌の痩せた盗人ども!――すぐに目を逸らした。
「そんなつもりは無いよ」とでも言うつもりなのだ!あるいは、「わかったよ、僕が悪かったよ」と言ってすぐに大人らしい分別を持った対応で議論の場から逃げ去り、そのくせ勝利の冠だけはぬけぬけと頂いて行くつもりのだ、奴らは。僕がしつこく議論に持ちかけようとしたところで、見せかけの、嘘っぱちの勝利を僕に与えて、さっさと手を振り振り去って行くのだ、奴らは。敵もいない広場で、僕は誰に敗れてここで悲しい想いをしているのだろう?しばらく経った後、彼らはまたも談笑に戻り、暖かな平穏へ戻っていく。
あたかも固形物みたいなキャラメル色をしたコーヒーはプラスチックのように光りをつるつると反射させ、僕がコップを持つと、じゃれるみたいにして水面を揺らせ水底をコップの底に沿って回らせた……。




