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第1話 不本意な婚約式

最期に見たのは、驚いた顔の小さな子どもの顔だった。

考えるよりも先に身体が動いていた。


「危ない!」


ボールを追いかけて突然車道に飛び出た子どもに駆け寄った。子どもの後ろから慌てて追いかける母親よりも先に、自動車と子どもの間に飛び込み、呆然とする小さな子どもの身体を母親の元へと突き飛ばした。

その瞬間――大きな衝撃が自分の身体に衝突。身体が弧を描くように宙に舞い、跳ね飛ばされたことに気が付いた。まるでスローモーションでその様子を見ているようだった。身体から魂が抜ける瞬間というのは、そういうものなのかもしれない。


――……あの子は、助かったのだろうか。怪我はしなかっただろうか。


ヴェールを捲られた瞬間、あのときの子どもの瞳が鮮烈に蘇った。


(これは……――一体、何? どういうこと?)


呆然とするイザベルの眼前には、不機嫌そうな美丈夫の瑠璃色の瞳と、自分の周りを飛ぶ羽の生えた5センチほどの小さな子どもの笑顔があった。


「イザベル・フォートレル」


《いざべる、あいたかったよ~。うれしい。きてくれたんだ!》


聖堂に響いたその威厳ある声も、副音声のように聞こえる子どもの声も、知らない人のものだった。しかし、何故かその名が自分のものだということは分かった。頭の中は混乱しているのに、何故か口は当たり前のように「はい」と答えていた。自分の耳に届いたイザベルの声は、思った以上に高く透き通った声だった。


(これが……私の、声? こんな声だったっけ?)


「ルーファス・レープ」

「はい」


声色も不本意そうだったがイケメンは声までかっこいいらしい。チラッと横目に声の主を確認すると、薄茶色の髪が陽光に反射してキラキラしている。折角の美しい瑠璃色の瞳は、アシンメトリーに伸ばされた長めの前髪のせいで少し隠れている。


(こんな綺麗な男性存在するの? □□人とは思えない色。まるで漫画かゲームの中みたい……)


ぼんやりする頭の中でルーファスを見つめながら、そんなことが過った。が、自然と頭に浮かんだはずの言葉の意味がよく分からなかった。


(□□人って何? 肝心なところがぼやっとするし……漫画? ゲーム? それって、何だっけ?)


「女神セルフィナの御許に、二人の婚約を正式に承認する」


(女神……セル、フィナ? それって……――あれ? ルーファスって、ほら、攻略対象の……。攻略? 攻略対象?)


《いざべる、おぼえてないの? おもいだせない? ぼくのことも?》


威厳のあるその声を合図に、イザベルの腕に着用されていたグローブをそっと使用人が脱がし、ルーファスは機械的にイザベルの左手を取った。そして、使用人に差し出された指輪を手に取るとイザベルの薬指に指輪をはめた。

婚約指輪をはめられたというのに、何の感慨もない。イザベルの指には、目の前の無表情の男の瞳と同じ色の石が輝いていた。次いで使用人はイザベルに緑色の石がはまった指輪を差し出した。


(これを……今度はこの人に、私がはめるってことよね?)


そう思って指輪を取ろうとした瞬間、ルーファスの手がイザベルよりも先に伸びた。


(え? 何?)


ルーファスがその指輪を手にすると、機械的に自分の左手薬指にその指輪をはめた。その瞬間、ざわっと会場から声が上がった。


「ご自分で指輪を……」

「やはり帝国の女なんて……」

「ルーファス様は納得されていないんだ」


囁くような声に、ずいぶん多くの人がこの場にいたことを初めて意識した。「失礼」と、ルーファスは固い声でそう言った。


《いざべる、ぼく、るーふぁすこわいよ。おこってる》


先ほどからずっとイザベルの周りを飛ぶ小さな子どもが、甘えるようにイザベルにくっ付いた。イザベルを見る瑠璃色の瞳からも、ルーファスがイザベルに良い感情を抱いていないことは、この小さな子どもに指摘されなくても分かる。そして会場の反応からも、ルーファスが自分の手で自分の婚約指輪をはめたことが、いかに異例のことかも――。


(でも……怒っていると言われても――)


イザベルは戸惑いの視線を、ルーファスに投げた。正面から見たルーファスは、気後れするほどの美しさだった。


(こんな人に見られていると思うと……――)


イザベルは敵意の目を向けられているにも関わらず、ルーファスの姿に落ち着かない気持ちになり、視線を彷徨わせた。そんな様子のイザベルに、ルーファスは口元だけ笑みを浮かべた。ルーファスはゆっくりとイザベルに近付くと、そっと耳打ちをした。


「これは政略ですから、あなたが私にお気を遣うことはありません」


(政略……? 政略結婚ってこと?)


いまだ記憶が混濁するイザベルにルーファスは愛想笑いを浮かべた。しかし、私の耳に響いた彼の声は、ひどく冷たいものだった。その儀礼的な笑顔を見た瞬間、記憶の扉が大きく開いた。


(あれ……これってもしかして――。この冷たい笑顔、私、知っている。……確か、“私”がやっていた乙女ゲームの……)


小さな子どもにはイザベルの頭の中が分かるのか。イザベルの記憶が戻り始めると嬉しそうにパタパタと飛び交っていた。

一気に記憶の波がイザベルの頭に蘇るような感覚があった。突如押し寄せる記憶の波は不吉にもイザベルが処刑される姿が繰り返された。


(これって……『ハート学園で恋して』のルーファスってこと!?)


《だーいせーかーいっ!》


その瞬間、聖堂いっぱいに祝福の拍手が響いた。誰もがこの《政略》婚約を祝福していた。――私と、目の前の相手以外は。


(ちょっと待って……。私はイザベル。ルーファスと婚約して……こんな風に嫌な顔をされているってことは――。私、悪役令嬢イザベル・フォートレルに転生しているってこと!?)


イザベルは前世の記憶が突如戻った瞬間、目の前が真っ暗になった。


(まずい……。まずい、まずすぎる……! 私……この人に捨てられて、処刑されちゃう!!)


イザベルを見るルーファスの美しい容貌に、恐ろしい陰りが宿った。


『イザベル、まさか君がスパイだったとはな……! 君との婚約は破棄させてもらう!』


何度もそう宣言するルーファスが甦る。


(そして……――婚約破棄のあとは……スパイの罪で処刑……。処刑エンドまっしぐらじゃないの、これ。いや待って、冷静になれ、私。まずは深呼吸。……って、できる状況じゃないわ)


イザベルは整い過ぎたルーファスの顔を見て、ぞっとした。


「……どうか……しましたか?」


急に青ざめたイザベルに、ルーファスは義務的に声をかけた。その声には心配している様子は滲んでいない。いかにも面倒そうな――。


《だいじょーぶ? だいじょーぶ? ぐあい、わるい?》


このパタパタ心配そうに飛び交う子どもとは、大きな違いだ。イザベルは急激に押し寄せるとんでもない記憶に吐き気を催していた。


(無理無理無理! これは……――何が、なんでも……この人と婚約を解消して……逃げ出さなきゃ……。聖女にも、攻略対象にも関わらず……どこかで静かに、平和に……――)


そう決意した瞬間、立っていられないほどの眩暈で足下がグラついた。


「!」


その瞬間、視界の端に驚いた顔のルーファスと、一瞬自分に伸びた手を見た気がした。が、すぐにその手は引っ込められ、イザベルはルーファスの足下に蹲るしかできなかった。


(ああ……倒れていても……助けもしないなんて……――。もう絶対、絶対、絶対すぐに婚約解消する!)


「……医師を!」


その声だけは、先ほどまでよりは、少しだけ切迫していた。ルーファスのその声を最後に、ぷつりとイザベルの意識が途絶えた。

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