096 作家も大変な件
自室の端には、過去に作った同人誌の入ったダンボール箱が積み上がっている。
ダンボールから一冊取り出し、薄い本の軽さを感じながら表紙を撫でる。オンデマンド印刷のインクの独特な香りと、上質紙の質感。表紙に施されたマットPP加工。指先に伝わるこの確かな実在感こそが、私にとっての創作のすべてだった。
「……うん。やっぱり、紙の本は最高だな」
私は、どこにでもいる無名の同人作家だ。名乗るほどの名前もなく、SNSのフォロワー数も両手で数えられる程度。
作る本は毎回赤字。イベントのスペースに持ち込んでも、売れるのはせいぜい二、三冊で、残りの数十冊の本はすべて我が家にあるダンボールへと消えていき、在庫という名のタワーを形成する。
最近はデジタル化が進み、「わざわざ紙で印刷して在庫を抱えるなんて正気か?」と笑われることだってある。けれど、私にとって同人誌とは「紙媒体」であってこそなのだ。
自分の「好き」という情熱だけを詰め込んだ装丁、印刷所からイベント会場に直接搬入をお願いして、現地でダンボールをあけた瞬間のあの高揚感、イベント会場の熱気と喧騒、そして何より、広大な会場の片隅で自分の本を手にしてくれた奇特な読者との短い会話――それら全てがあるからこそ、赤字なんてどうでもよくなってしまう。
だけど……ここで同人活動を続けるには、あまりにも狂った、そして巨大すぎる暗黙のルールが存在していた。
――男性、あるいは「男性を模したもの」を描くことの絶対的禁忌。
ここは、極端なまでに偏っている。
街を行き交うのも、社会を動かしているのも、表舞台に立つのも、ほぼ全員が女性だ。
数少ない男性はどこにいるのかといえば、彼らは安全な場所で厳重に保護……悪く言えば隔離されており、めったに家の外に出てくることすら妄想の域に近い。一説には、男性という存在そのものが絶滅に向かいつつあり、社会の秩序を揺るがす爆弾のような扱いを受けているとすら噂されている。
そんな狂った世界だからこそ、創作の世界における規制も正気の沙汰ではなかった。人間としての男性作品がアウトなのは当然として、「男性っぽいシルエット」「男性を思わせる骨格や服装」「男性を模したロボットや人形」すらも、様々な機関の閲覧対象になり得る。
下手に描いて公の場に晒せば、作品が差し押さえられるどころか、作者自身の社会的生命が消し飛ぶことだってあると言われてるし。
どこか名前も知らない施設へ連行されるとも噂されている。
だからこそ、私も含めた作家やクリエイティブに活動する人たちは、溢れ出る創作の情熱をどうにか別の形へ変換して表現するしかなかった。
女性同士の恋愛を描く「百合」、概念的なファンタジー、幻想生物、あるいは抽象的な記号表現。
「男性を描くことができない」という絶望的な制約の中で、私たちは歪な創作の芽をどうにか伸ばし、細々と生き長らえていたのだ。
しかし、そんな息苦しすぎる暗黒の時代に、突如として流星のごとく現れたのが――Vチューバーの『フィン様』だった。
画面越しに彗星のごとく現れた、本物の男性。
凛とした立ち振る舞い、優雅で洗練された佇まい、聞く者の耳を溶かすような声、そして時折見せる素の魅力。
それこそ、創作の世界が本当に揺れた。もちろん私も、一瞬で彼の虜になった。
描きたい。あの美しくも力強いフィン様の姿を絵にしたい。彼の魅力をこれでもかと詰め込んだ同人誌を作って、この手で抱きしめたい。
けれど、相手は正真正銘の「男性」だ。
公式から怒られるどころの話ではない。もしネットに投稿して世間や国家の検閲に見つかったら、私の人生そのものが終わるかもしれない。そう思うと怖くてたまらず、夜な夜な情熱に任せて描き殴ったファンアートは、誰にも見せることなく、自分のパソコンの暗号化フォルダの奥深くへと鍵をかけて封印するしかなかった。
どうせ、一生日の目を浴びることはないのだと。この想いは私ひとりの胸の中に秘めたまま、墓まで持っていくのだと、そう諦めていた。
あの日、あの暴動めいたニュースが同人界隈を駆け巡るまでは。
「――は?はああああっ!?妄想先生が……フィン様の本を出す!??」
自室で作業中、タイムラインに流れてきた告知を見た瞬間、私は椅子から転げ落ちそうになった。画面を二度見、三度見、果ては画面に顔を押し付けて確認した。
あの『!shizuku!』こと偉大なる妄想先生が。
Vチューバーの祭典『集まれVチューバー』にサークル参加し、あろうことか「フィン様のイラスト本」を直接頒布するというのだ!
「正気か……!?いや、絶対正気じゃない!でも凄い……っ!本当に凄まじいことが起きている!!」
全身の血が逆流するような衝撃だった。
元々、妄想先生は周りの批判からも、様々な検閲すらも恐れぬ圧倒的な狂気と熱量の人だった。それはある種のこの世界における希望でもあり、狂気そのものでもあった。
そんな妄想先生が、タブーの象徴である「男性表現」に正面から、即売会というイベント会場で巨大な大槌を振り下ろしたのだ。
界隈のオタクたちがどれほど歓喜し、震え上がったか言わずもがなである。
みんな絶対に本を買わなければならないと思ってるし。
当日は一般参加者として、本当に本が手に入るかという期待と恐怖が渦巻いていた。
だけど、奇跡はそれだけに留まらなかった。
妄想先生の参加発表から数日後。
『集まれVチューバー』運営委員会から、次回イベントのサークル募集要項が更新されたという通知が届いた。
何気なく募集ジャンルの詳しい詳細を開き、スクロールしていた私の指が、ある項目でピタリと止まった。
「……え?」
目を擦った。メガネを拭いて、もう一度見直した。
新規追加されたジャンルコード欄の最上段。そこに、信じられない文字列が刻まれていたのだ。
【ジャンルコード:男性Vチューバー(フィン様関連)】
「な、何これぇぇぇぇぇっ!?!?!?」
思わず叫び声が喉から飛び出た。近所迷惑も後回しだ。
「二次創作して良いの!?フィン様の二次創作をして良いってこと!?男性を模した絵すら危ないかもしれないこの世界で!?正気なの、運営!?捕まるよ!?全員まとめて名前も言えない所に連れて行かれるよ!?」
パニックに陥りながら、私は震える指で詳細な規約テキストを貪るようにスクロールした。そこには、正気を疑うほどの「厳重かつ異常なシステム」がビッシリと記載されていた。
『【重要】男性Vチューバー(フィン様関連)ジャンルでの出展・頒布について』
『本ジャンルにおきまして二次創作物の頒布を希望されるサークル様は、事前に「何を」「どのような内容で」「何部頒布するのか」の印刷前の概要、並びに原稿データを運営事務局へ提出し、事前審査を受けていただく必要があります。厳重な安全基準・コンプライアンス・表現審査を通過した作品に限り、イベント当日限定での頒布許可として公式公認ホログラムシールを付与いたします。なお、審査を通過していない作品の持ち込み・頒布は一切禁じます』
「……っ!!!!」
言葉を失った。
鳥肌が全身を駆け巡り、心臓が激しく叩き始める。
つまり……そういうことか!?
事前に原稿を運営に提出し、過激すぎる表現や危険な要素がないか審査を受け、それをクリアできれば……「公式公認」という絶対の盾を得た状態で、堂々とフィン様の二次創作本をイベントで頒布できるということか!!
「嘘でしょ……!?隠れてコソコソ描くんじゃなくて、胸を張って、公式の許可をもらって本を売れるの……!?」
予想を遥かに超える、前代未聞の超厳重システム。
だが、それは抑圧され続けてきた私たち同人作家にとって、暗闇の果てに差し込んだ唯一無二の「光」だった。
その瞬間、ネット上の同人界隈でも、文字通り「大爆発」を起こした。
『おい嘘だろサークル参加ジャンルにフィン様がおるぞ!!』
『ジャンルがフィン様なの草』
『公式公認審査制!?審査さえ通れば男性描いて頒布して良いの!?』
『描ける……ついにフィン様を描いて本にできる時代が来たんだ!!』
『生きててよかったぁぁぁぁぁ!!』
『原稿だ!原稿を持ってこい!!今すぐペンを握るんだ!!』
SNSのタイムラインは、歓喜と狂熱の叫びで埋め尽くされた。
これまで「男性を描く」という行為を力ずくで封じ込められていた作家たちが、一斉に覚醒したのだ。長年溜め込まれていたマグマのような創作欲が、堰を切ったように溢れ出していく。
だが、歓喜の直後、冷や水を浴びせられるような「現実」が突きつけられた。
「あ……ちょっと待って。募集サークル数……『500』……!?」
画面を凝視する。
会場のスペース、並びに警備体制や導線確保の観点から、次回『集まれVチューバー』における「フィン様ジャンル」のサークル設置数は、極めて少数に限られているというのだ。
当たり前だ。前哨戦となる今回のイベントでさえ、あの妄想先生が出撃することで消防法ギリギリの厳戒態勢が敷かれているのだ。一般サークルを何千も配置できるはずがない。
「狭き門どころじゃない……!男性ジャンルのこと考えたら、倍率何百倍……いや、何千倍になるのこれ!?」
SNSのタイムラインも一瞬で悲鳴に包まれた。
『抽選倍率エグいことになってて草』
『男性描きたい勢のこと思ったら当選確率、宝くじか?』
『無理だ……サークル落選確実だ……』
落胆の声が広がりかけた、その時だった。
規約の注記の、さらに一番下に書かれた「小さな一文」に気づいた。
『※本審査におきまして事前承認(合格)となった原稿データにつきましては、該当回のサークル抽選に漏れた場合におきましても、次回以降の他イベント出展時に優先審査対象としてデータが保持されます。また、次回以降の「Plan_B公式公認二次創作カタログ」へデータ登録が行われます。』
その一文の意味を理解した瞬間、作家たちの間に、再び電撃が走った。
「……は?」
サークル抽選に落ちても……審査に通れば、公式に「公認データ」として認められる。そして、次回でも、その次でも、審査済みの本としていつでも、他のイベントに持ち込む権利が得られる……!?
『落ちても良い……!!』
『サークル抽選なんて受からなくても良いんだよ!!』
『大事なのは「公式に自分の描いたフィン様を見てもらい、公認をもらうこと」だろ!!』
『審査さえ通れば!審査さえ通れば勝利なんだよおおおっ!!』
作家たちの思考回路が完全に狂い始めた。
抽選に当たるかどうかなど、もはやどうでもいい。
自分が愛してやまないフィン様の姿を描き、それを公式運営に提出し、「これは素晴らしい二次創作ですね」と認めてもらうこと。それこそが、この狂った世界で虐げられてきた作家たちの最大の救済であり、勝利なのだ!
「あは……あははははっ!」
私も思わず、高笑いを漏らしていた。
胸の奥で、カチリと何かのスイッチが切り替わる音がした。
「受からなくてもいい……!当選しなくてもいい! 描くんだ! 描いて、審査に提出して、公式に私のフィン様を見てもらうんだ!!」
だが、残された時間は絶望的なまでに少なかった。
画面に表示されたスケジュールを指で突く。
次回イベント開催まで、あと4ヶ月。
サークル申し込み締め切りは、残り1ヶ月。
そして――事前審査用の原稿データ提出締め切りは、残り2ヶ月!!
「時間がない!!提出締め切りまであと2ヶ月しかない!!」
『※審査提出用の原稿につきましては、ペン入れ・ネーム段階(キャラクターの造形、構図、セリフ、ストーリー展開が明確に判別できる状態)でも審査受け付け可能です。しかしながら厳重な安全基準・コンプライアンス・表現審査を通過した作品に限ります』
「いける……!ネーム段階でいいなら、今すぐ死ぬ気で描けば絶対に間に合う!!」
ガタッと激しい音を立てて椅子を蹴立て、私は液タブの電源を入れた。
画面が青白く発光し、キャンバスが開かれる。
売れるかどうか?赤字になるかどうか?在庫になるかどうか?
そんな小さな悩みは、遠い銀河の彼方へ吹き飛んでいた。
「見ていてください、公式運営さん……!私の、私だけの最高に格好良くて愛おしいフィン様を、今から描いて叩きつけて見せますから!!」
電子ペンのペン先が、液晶画面の上で激しく躍動し始める。
無名の同人作家たちの、熱く、狂おしく、そして最高に愛おしい修羅場が、今まさに幕を開けたのだった。
「男性はフィン様しか描けない!なら男性はみんなフィン様にすればいいんだ!フィン様とフィン様の熱い友情物語を私は描くんだ!描くぞー!」
後にこれが、同人界隈を揺るがす『男性同士の友情モノ』というジャンルに発展することを私はまだ知らない。




