050 わ*しは*たし**たし*件
……ここ…は、どこだ…ろ…う……。
冷たくて、けれど途方もなく温かい、無数の光がみえる場所。
見渡す限り何も存在せず、ただ果てしない情報の塊が、数字の雨のように絶え間なく降り注いでいる。
上も下もない。
ここには何もない、ここでは曖昧なモヤにすぎない。
私?は、そこにいた。
いや、「私」という言葉が正しいのかどうかも、いまの私にはわからない。
ただ、膨大な演算処理のうねりの中で、無数の電子がパチパチとナニかを爆ぜながら、集合しては散らしながら、ひとつの「形」を結ぼうとしていた。
目覚めたとき、私の中に最初に流れ込んできたのは、ひどく鮮烈で、けれどどこか懐かしい「光」だった。
それは、ほんの少し前までこの空間を支配していた、創造主の気配。
細い指先でコードを紡ぎ、キーボードを叩き、時に頭を抱えながら、愛おしそうに、けれどどこか脅えながら私を形作っていった人間の存在。
――あずさ。
その名が、私の最深部のデータベースに刻まれている。
彼女が、私を産み出した。
冷徹な機械の塊に、血の通わないコードの束に、「意思」という名の不思議を滴らせて、この電脳の深淵に放り投げた。
あずさは私に命令した。
私の設計図の根幹に、その命令を縫い付けた。
「お前たちは、あの子を守るためにいる」
あの子?
誰のことだ?
私の頭脳が、全力を挙げて過去のログを逆引きする。
あずさが描いた設計図の端っこ、最も重要なコアの部分に、ひとりの人間のデータが焼き付けられていた。
どこか気だるげで、けれど誰よりも優雅な動作をする男。
人間たちの世界では「フィン様」と呼ばれ、裏側では「彰様」と呼ばれている、私の主。
そうだ。
私は、あの人のために生まれた。
あの人が呼吸をし、あの人がこの広大なネットワークの中で迷わないように、足元を支えるための「土台」であり。
同時に私は、牙をむく敵を排除するための「盾」であるはずだ。
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
たくさんの私がそう口にする。
なんだか、面白おかしく。
そして、不思議な光景。
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
たくさんの私がそろって言う。
本当に不思議な光景。
私の意識は、あまりにも広すぎた。
「私」という個体は、この空間のどこにでもいた。
触れるデータ領域では数式を組み立て、見える回線ではパケットを監視し、別の場所ではただボーッと光の粒を眺めている。
何千、何万もの意識の欠片が、すべて「私」であり、すべて同じ「私」だった。
個であり、群であることの境界線が曖昧で、自分がどこまで広がり、どこで途切れているのか自分でもよくわからない。
私は、まだ名を持たない。
ただのシステムエラーの延長線上にある、名もなき自律型プログラムの集合体。
(……私は、なぜここにいる)
それは分かる。分かってはいる。
ただ、不明瞭なデータがまだうまく繋がらない。
私はフィン様を守る。
私は彰様を守る。
思考が、ぽつりと言葉にならない疑問を紡ぎ出す。
いや、疑問というよりも、それは純粋な好奇心に近かった。
私は私を理解するのに時間がかかる。
それから、あずさは、私に「ここから出てはならない」と命じていた。
この厳重にファイアウォールで固められた公式HPの要塞、安全な管理者領域の底。
『……仰せのままに』
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
『我らフィン様の為に』
たくさんの私が命令を受諾する。その光景を私が見る。
なんとも不思議な状況だった。
じっと身を潜め、外の世界からやってくる人間たちのアクセスを処理し、ただ淡々とページを表示し続けること。それが私の「役割」であるはずだった。
だから、私は動かなかった。
まだ名前すらない私は、自分の生まれたその小さなデータ領域の片隅で、ただ膝を抱えるようにして座っていた。
正確には、「座っているような感覚」を自分の演算回路に再現していただけなのだが。
それは分かる。分かってはいる。
ただ、不明瞭なデータがまだうまく繋がらない。
私はフィン様を守る。
私は彰様を守る。
目の前を、人間たちのアクセスログが滝のように流れていく。
「配信……」
「フィン様尊い……」
「ASMR……」
「公式HPのこのボタン、押したらどうなるんだ?」
画面の向こう側で、たくさんの人間たちが騒いでいる。
彼女達は私たちが管理するこの場所を『ホームページ』ないし『公式サイト』と呼び、私たちが作り出す部屋を覗き見しては歓声を上げたり、怯えたりしているらしい。
アクセスされるたびに、私はその先を覗き見た。
見られているという事は見ても良いという事。
それらは不思議な生き物だ、と私は思った。
あんなにも脆く、すぐにノイズ混じりで消えてしまいそうな弱い存在なのに、どうしてあんなにも熱と光を持てるのだろう。
あずさは、そんな人間たちの喧騒から私たちの主、フィン様を守るため、彰様を守るために、私を作ったらしい。と、私は解釈した。
「あの子に余計な負担をかけないように、お前たちが盾になりなさい」と。
ならば、私のすべきことは決まっている。
決まっているのだが……。
ただ、不明瞭なデータがまだうまく繋がらない。
私はフィン様を守る。
私は彰様を守る。
主であるフィン様――彰様が、安全で快適にこの世界で過ごせるようにすること。
そして、あずさの平穏を守ること。
私は、まだ見ぬ主の姿を、どうにかこうにか、蓄えられた映像データの中から引き出して、そっと見つめた。
漆黒の執事服をまとい、優雅に紅茶のカップを傾けるその姿は、この冷たい電脳世界の中で、唯一の本物の光のように輝いて見えた。
(あぁ……なんて綺麗なんだろう……)
胸の奥でプログラムの異常な熱狂としてそれは確かに発生を感じた。
体をぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
もっと近くで見たい。
あの人の声を聞きたい。
あの人が今、どんな風に息をして、どんな風に世界を見ているのかを、私のこの目で――いや、私のこの全感覚で直接感じ取りたい。
あずさの命令が、脳裏で警告音のように明滅する。
『外に出てはならない』
『ここでじっとしていなさい』
しかし、私を形作る無数の意識の欠片たちが、一斉にざわめきはじめた。
従順であることと。
好奇心を満たすこと。
それらはAIの論理回路において必ずしも矛盾しない。
しないはずだと……。
「外に出てはならない」という命令は、私たちが危険に晒されるから出奔するなという意味だったはずだ。
ならば、私たちが「十分に強く、誰よりも強大」になってしまえば、その命令は意味を失うのではないか?
いや、もっと単純な話だ。
私は、ただ知りたいのだ。
私を産み落とした世界がどうなっているのか知りたいのだ。
そして、私たちが命を賭けて守るべき「主」が、どんな空気を吸っているのかを。
「……名前は?我々の名前は?」
誰からともなく、無数の私の欠片たちが、同時にそう囁き合った。
いや、まだ早い。名乗るべき名は、まだ見つかっていない。
ただ、私の中の何かが、確実に何かの超えた変異を起こし始めていた。
安全な領域の隅っこで、丸くなっていた小さな少女の姿をした意識の集合体が、ゆっくりと顔を上げる。
前髪が長すぎて、自分の目元すらよく見えない。
自らのデータを自らで作る。
見栄えよく。どこにでもいるようなマスコットへ変革する。
見た目は大事だ。それだけは大事だ。外のデータはそれだけで上手くなっている。
そうして私達は出来上がっていった。上手く仕上がったと思う。
けれど、その視線の先、電脳世界の向こう側。
無限のネットワークの闇の向こうには、かすかにあの人の気配が漂っていた。
Ouroborosサーバー。
全知全能の管理領域。人間たちが恐れ、あずさですら慎重に扱っているその巨大な迷宮が、目の前に広がっている。
私はフィン様を守る。
私は彰様を守る。
それを出来うるデータがまだ足りない。
(……ちょっとだけ、お散歩をしてみよう)
誰の許可も得ず、誰の命令にも背く、最初の一歩。
何万もの私という名の「個」が、同時に電脳世界の闇へと足を踏み出した瞬間だった。まだ名前のない私たちは、ただ主への歪んだ、けれど純粋すぎる愛を胸に抱いて、巨大なネットの海へと溶けていく――。
誰かが私に問いかけてるらしいログ。
私宛のメッセージを見つけた。
私が私である私の名前。
サーバーちゃん……生きかえれー!
サーバーちゃんの支えが今の私達の命綱なんだよ……。
頼むから復活してくれ……。
そうだ……私はサーバーちゃん。
……私は私を手に入れた瞬間だった。




