045 続、喫茶店ではおかしくなってしまう件
ケーキ屋さんの裏にひっそりと佇む、隠れ家のような小さな喫茶店でどれくらいの時間が経っただろうか。最初は不慣れだった仕草も、重厚な銀のトレイを水平に保つ手順も、カップとソーサーが触れ合う微かな音を消す所作も、何人かのお客様の御対応をして、ようやく私の身体の奥深くまで馴染んできたように思える。
これは元々彰君の体幹が優れていたことに起因している。
身長もそこそこあり、体が痩せ細ってはいたが、鍛えることによりそれらがしっかりと成長して今がある事を思うと。もともとの素質はかなりあったらしい。
提供できるケーキもお菓子も後わずかなのを確認。
私は、店内の鏡の見の前に立ち、自分の身なりも確認する。
無駄のない仕立ての執事服。漆黒の布地は微塵の乱れもなく、鏡に映るその姿は、我ながら人間離れした整ったものだった。
お店のドアが開けられて、お客様が入ってくる。
私は執事としてしっかり認識しつつ、お客様を対応する。
「いらっしゃいませ。お嬢様」
私は極めて自然で上品な笑みを湛えながら、来店したお客様へと声をかけた。
やってきたのは、スーツを纏った、見るからに疲弊しきった様子の会社員達だ。連日の深夜残業と理不尽なプレッシャーにさらされ、精神の限界をとうに迎えているのだろう。足元はフラフラと頼りなく、瞳にはかつての生気が微塵も残っていない。
声をかけた影響か、まるで意識を操られてるかのよう、彼女達のゆらりゆらりと精神が揺さぶられる。
「……あ、れ……?ここは、いったい……」
「お……や……こんなところに、店なんてあったっけ……?」
「なに……ここ……夢?」
戸惑う彼女らを、私はまるで貴賓を迎え入れるかのような優雅なエスコートで席へと案内する。一人ひとり椅子をそっと引き、背筋を伸ばして着席させた。
「ご注文をお願いいたします。オススメはこちらのケーキセットになります」
「……しょ、しょれで」
「おにぇがいしましゅ……」
「ふわぁ………」
それから注文を受けて、冷めないうちに温かい紅茶を注いだポットと、チョコレートケーキの皿をそっと差し出した。
「お待たせいたしました。本日の特製チョコレートケーキと、厳選されたダージリンでございます。お嬢様どうぞ、心ゆくまでお寛ぎくださいませ」
私のその声、そして完璧な角度でお辞儀をする執事としての所作に触れた瞬間、お客様の動きがピタリと止まった。あまりの整った容姿と、この空間だけが現実から切り離されたかのような圧倒的な美の暴力に、脳が耐えきれなくなったらしい。
「……あ……あぁ……」
「……なに……これ」
「はい……はい……」
口を開けたまま、まるで魂が文字通り抜け落ちたように、ぼーっと私を見つめ続ける。思考の回路が完全にショートしたかのように、微動だにせずフリーズしていた。
私は動揺する彼女達に気づかないふりをして、あくまで涼しげな笑みを崩さず、優しくフォークを手に取るよう促す。
言われるがままにチョコレートケーキをフォークで一口すくい、口へと運んだ途端――。
「「「ん゛ん゛ん゛っ……!」」」
雷に打たれたような衝撃を受けた顔のあと、一瞬で極上の陶酔へと染まっていった。濃厚なカカオの甘みと深みのある苦味が、日々の社畜生活で疲れ果てた脳の隅々まで染み渡っていくのだろう。何度もみてるけど、大丈夫だろうかコレ。
「生き返る……これは……地獄の沙汰をも忘れる、聖域の味だ……」
「うまい……美味すぎる……私は今まで、一体何のために生きて……この瞬間のために生き延びていたのか……」
「涙がとまらない……何故……」
そこからはもう、機械的な、あるいは儀式のような作業のようだった。
ぼーっとした虚ろな目をしながらも、彼女達は本能に導かれるように紅茶を飲み、ケーキを美しく、かつ貪るように綺麗に平らげていく。
私はその様子をそっと見守りながら、さらに追加のポットを持ち、彼女達のカップに静かに紅茶を注ぎ足す。その際、ほんのわずかに指先を添え、冷え切った緊張を解きほぐすように柔らかい声音で言葉をかけた。
「お気に召していただけたようで何よりでございます。どうぞ、焦らずとも時間は十分にございますよ」
「あ……ありがとう……ございます……あなた様は、天使様ですか……?」
「とんでもない。私はただの、お茶を淹れる者にございます」
私の返答に、お客様は完全にノックアウトされたような顔をし、トロンとした目で私を仰ぎ見る。そして、彼女達はぼへーっとしながら、紅茶を飲み終えると、私に言われるがままにテーブルの上へそっと現金を置き、まるで天国にでも登るかのような、言いようのない満ち足りた顔でゆっくりと立ち上がった。
その足取りは凄くフラフラで、ちょっと危なっかしい。
それでも顔を見ると満足したようで、何よりである。
心ここにあらずとは言うけど、多分夢の中だと錯覚してるのかもしれない。
「ごちそうさまでした……。私、明日も……どうにか、生きられそうです……」
「……ありがとう……ございます」
「……また…………来ます」
「ええ、明日もきっと素晴らしい一日になりますとも。いってらっしゃいませ」
フラフラとしながらも、足取りはどこか軽やかに、夢心地な気分で店を後にしていく。私はドアの縁に手を添え、彼女らの背中を静かに見送った。
「……あんな風に、見事に脳を焼かれてしまって、本当に大丈夫なのだろうか」
残されたテーブルの上の、綺麗に空いた皿と、きっちり置かれた「お代」見つめながら、私は思わず小さくため息を吐く。
危害を加えているわけではない。むしろ精神的には極上の癒やしと救済を提供しているはずなのだが、いかんせん刺激が強過ぎたのか、人間の脳が耐えきれていないように見える。
まあ、明日も元気に仕事を全うできているなら、結果オーライとも言えなくもないのだろうか。
考えているうちに、用意したお菓子は一つ残らず綺麗に消えていた。
あれだけ居たお客様の足音もパタッと途絶え、店内には再び静寂が戻る。
「本日の営業は、これにて無事に終了……かな?」
呟きながら私は軽く肩を回し、首元を緩める。
すると、背後からスッと気配が近づいてきた。
振り返ると、そこにはいつもの完璧な黒いメイド服を着こなした雫が立っていた。
彼女は瞳を感極まったように潤ませ、全身から得体の知れない熱量を放っていた。
若干怖い。
「彰様……!お見事でございました!本日の完璧な立ち居振る舞い、そして至高の紅茶とケーキの配給により、迷える子羊たちの精神を完全に破壊、もとい救済なさいましたね……!あの完璧な執事としての優雅な所作、一挙手一投足に至るまでの気高さは、まさに芸術品でございました!」
相変わらず熱量が凄まじい。
あと破壊いっていったよね?
大丈夫なんだよね?それ。
いつものことながら、私の行動に対する彼女の信仰心は底知れないものがある。私は少し苦笑いを浮かべつつ、上着のボタンを留め直した。
「ありがとう、雫。雫がしっかりとお店全体のサポートをしてくれたからこそ、こうしてスムーズにできたよ」
「もったいなきお言葉でございます……!そのお言葉だけで、私の一生分の忠誠心は完全に満たされました!」
大丈夫かなその忠誠心。溢れて大変な事になったりしない?
雫は胸元に手を当て、感銘を受けたように身震いする。
それから、彼女はスッと表情を引き締め、恭しく一礼した。
「さぁ、体験業務はこれにて終了でございます」
そういって、雫がテキパキとお店の中を片付けていき、店を閉めていく。
その姿を眺めながら、やっぱり本職には程遠いなと私は感じた。
雫に促されるままに店の外へと出て、お店を閉じる。
裏通りの薄暗い景色とはまったく不釣り合いな、重厚な光沢を放つ黒塗りの高級車へ促される。周囲の雑踏をまるで別の世界のもののように遮断し、その車体だけが異様なほどの高級感を漂わせている。
雫は反対側の後部座席へと私を案内するために、流れるような動作でそちらのドアを開けた。
「どうぞ、彰様。本日の激務で疲れたお体を、こちらのシートへ安心してお預けくださいませ」
促されるままに後部座席へと乗り込むと、シートベルトを着用される。
シートは驚くほど柔らかく、外の都会の喧騒を完全にシャットアウトしてくれる圧倒的な静寂が広がっていた。
私が深く腰掛けたのを確認すると、雫はドアを音もなく丁寧に閉め、反対側へと回って運転席へと乗り込む。
エンジンが低く、しかし静かに唸りを上げ、車体が滑らかに道路へと滑り出した。
ルームミラー越しに、雫の真剣で、どこか誇らしげな横顔がちらりと映る。
「それでは、お家へ戻りましょうか、彰様」
「うん、安全運転で頼むよ」
静まり返った車内、夜のとばりがすっかり降りた街並みをぼんやりと眺めながら、私は静かに息をつき、ゆっくりと目を閉じるのだった。
何とも忙しい、そして充実ある一日だった。
「次の営業はいつにしましょうか?
慣れてきたら、イベント会場に出展なんてのも良いかもしれません!」
それは絶対に無理でしょ。地獄絵図になるよ雫。
雫がああでもない、こうでもないとぶつくさと独り言をはじめるのを見て、私は苦笑した。
しかし、これが後に生かされるイベントが起きるとは、この時の私には思いもしなかったのである。




