043 隣のケーキ屋さんは悩んでいる件
おかしなものだねぇ。
この辺り一帯がビルや真新しい建物に囲まれて、いわゆる「都市開発」とかいう綺麗な言葉で塗り替えられてから、もう何十年経つものか……。
私の名前は『只中タエ』。ケーキ屋さんをしているお婆ちゃんさ。
昔はね、この裏通りだって、近くの商店街から買い出し帰りの主婦が子どもを連れて歩いていたり、学校帰りの学生が買い食いしていったりで、そりゃあもう賑やかなもんだったんだよ。うちの店――「パティスリー・タダナカ」のガラス戸だって、朝から晩まで開けっ放しで、焼き菓子の甘い匂いに誘われてひっきりなしにお客さんが来てくれたもんだ。
だけど、どういうわけかね。何十年も経てば……。
街が綺麗になればなるほど、人通りはかえって減ってしまったのさ。
大きくて綺麗な商業施設ができたり、駅前には小綺麗なカフェや洋菓子店が何軒も建ったりしたもんだから、私たちみたいな昔ながらの個人商店なんて、すっかり時代の隙間に取り残されちまったのさ。
目の前の通りを通るのは、電話を片手に早足で通り過ぎる人か、どこかへ急ぐお勤めの人たちばかり。うちの店の前で足を止めてくれる人なんて、もう何年も見かけやしない。
だからね、もう店を畳もうか、いい加減に引退しようかって、ここ最近はずっと考えているんだ。
体力だってもう若い頃のようにはいかない。何より、せっかく生地をこねてオーブンに入れても、並べる端から売れ残っちまうのを見るのが、なんだか胸にこたえてねぇ。
材料の仕入れ値だって、昔に比べりゃあちっとも安くならないどころか、少しずつ上がっているもんだから、どうしても一つあたりの値段を高めにしなきゃやっていけない。こんな小さな店で、高いケーキなんて、今の若い人たちが買ってくれるわけがない。
だから、作るケーキの数も、自然と減ってきた。
朝早くから起きて、粉をふるって、クリームを泡立てても、せいぜい数十個。
ガラスケースの中がスカスカじゃあお店の格好もつかないから、ギリギリケースを埋める分は作っている。それでも売れなければ限界は近い。
そんな私の寂しい店を、気にかけてくれている人がいたんだ。
お隣の、喫茶店をやってる渡さん――渡 未知さんだ。
私より若いかもしれないけど、あの人もねぇ、自分で喫茶店を開いてはいるものの、元来が少しばかり気まぐれというか、なんというか。
「タエさん、ちょっと世界を見てくるわ!」なんて言っては、前触れもなくフラッと海外旅行に出かけちまうような人なんだよ。
いつだって連絡がつかなくなるし、帰ってきたと思ったらまたすぐにどこかへ出かけようとする。だけど、あの人なりに私のことを心配してくれているんだろうね。お店にいるときは、「タエさんの作るケーキは、この辺りで一番美味しいんだから!」って言ってくれてね。
自分の喫茶店で出すために、うちのケーキをまとめて買って仕入れてくれるんだ。
『渡さん』には、本当に感謝してもしきれないよ。
あんな風に気前よく買ってくれる人がいるからこそ、私も「もう少しだけ、続けてみようかねぇ」って、どうにかこうにかここまでお店のシャッターを開け続けてこられたんだから。
ただねぇ……。
その渡さんも、今はまたどこか遠くへ出かけていて留守にしている。
だから、ここ数日はうちのケーキを卸す先もない。店を開けたところで、誰一人としてお客さんが来やしない日だってざらにあってね。
今日も朝から仕込んだ切り分けられたチョコレートケーキを数十個、それに焼き菓子と、タルトが少し。ケースの中に並べたものの、外を眺めては「あぁ、やっぱり今日もダメかねぇ」と、何度ため息をついたことか。腰や膝もズキズキと痛むし、そろそろ本当に、お店の看板を下ろす潮時かもしれないねぇ……。
そんな風に、うつむき加減でカウンターの隅に座り込んでいたとき。
――カランコロン、と、心地よいドアベルの音が店内に響いたんだ。
「あら?」
まさかこんな時間に本当のお客さんかね、と思って慌てて顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れた黒いメイド服をきっちりと着こなした、知っている子だった。
「こんにちは、只中さん。お元気そうでなによりです」
ニコニコと穏やかな笑みを浮かべてそう声をかけてきたのは、少し前までお隣の渡さんの喫茶店でお手伝いをしてくれていた、あの雫ちゃんだっけねぇ。
この子はいつも背筋がピンと伸びていて、どことなく只者ではない雰囲気を纏っているんだけど、こうして挨拶に来てくれると、なんだか孫娘みたいに愛らしくてホッとするんだ。
「あらあら、雫ちゃんじゃない。こんにちは。今日はどうしたんだい、こんなところまで」
私が少し腰を浮かせながら声をかけると、雫ちゃんはトコトコとショーケースの前に歩み寄り、中に並べられたチョコレートケーキや焼き菓子を、まるで宝石でも見るような熱っぽい目でじっと見つめた。それから、スッと顔を上げて、まっすぐに私を見据えたんだ。
「只中さん。不躾なお願いで申し訳ないのですが……急ぎ今、ここにあるケーキ、すべて買い取らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……えっ?」
思わず、私は自分の耳を疑っちまったねぇ。
すべて買い取る、だって?
うちのケースに入っているのは、今日焼いた分のチョコレートケーキとタルトが合わせてそこそこ。決して多くはないけれど、今のこの寂れた店にとっては、今日の全財産みたいなものだ。
「ぜ、全部かい? 私が作ったやつを……?」
「はい。もし可能でしたら、今すぐ、ここに並んでいる分をすべて私に譲ってくださいませ」
雫ちゃんは真剣な顔でそう言って、綺麗に揃えた両手を前で組んだ。
私は驚きと嬉しさで胸が熱くなりかけたんだけど、ふと現実に戻って、なんだか申し訳ないような心配な気持ちになってねぇ。慌てて首を横に振ったよ。
「いやいや、ありがたい話だけどさ……。うちのケーキはね、材料にこだわってるぶん、どうしても一つ一つの値段が高くなっちまってるんだよ。全部まとめたら、結構な額になっちまうよ?雫ちゃん、大丈夫かい?」
一人で買いに来るには、少しばかり値が張るはずだ。無理をしてもらうのは忍びないし。
すると、雫ちゃんはふっと優雅に微笑んで、少しも動じる様子もなくこう言ったさ。
「ふふ、ご心配には及びません。我が主様のご厚意と、私個人の……いえ、忠誠心を賭けまして、お支払いには一切の不足もございません。ですので、どうか安心してお譲りください」
「我が主様?」
なんだか物騒だか忠義だか、よく分からないカッコいいことを言っているけれど、要するにお金はちゃんと払えるから心配するなってことみたいだね。
雫ちゃんはちょっとアレな子だけど、良い子だから心配はしないけどねぇ。
「そうかい……。それにしても、こんなに沢山買ってくれるなんてねぇ。助かるっていうか、驚いちゃった」
私がホッと胸を撫で下ろしながらケーキを箱に詰め始めると、雫ちゃんは優しく微笑みながら、カウンターの向こうの私を覗き込むように言ったんだ。
「助かるのは私どもの方でございますよ。それにしても……只中さんの作るお菓子は、いつ見ても本当に素晴らしい佇まいでございますね。見ているだけで、心が満たされるような美しさです」
「まぁまぁ。お世辞でもそんな風に言ってくれると嬉しいもんだねぇ。だけどねぇ……」
私は自然とまた暗い溜息がこぼれてしまったんだ。
「昔はねぇ、こんな風にまとめて買ってくれる人なんて珍しくも、なんともなかったんだよ。でも、今はこうして作っても、なかなか売れなくてねぇ……。こうやって雫ちゃんが買ってくれなかったら、今日はもう、一つも売れそうにないところだったよ。本当に助かるわぁ」
私の言葉を聞いて、雫ちゃんは少しだけ眉を下げ、慈悲深いような、それでいてどこか熱の籠もった目で私を見てくれた。
「……最近は、やはり客足が戻りませんか」
「そうだねぇ。この辺りが再開発されて、綺麗なお店が増えたのはいいことなんだろうけど。私たちみたいな昔ながらの個人店は、すっかり忘れられちまったみたいだよ。値段だって、どうしても大手のお店みたいには安くできないしね……。これじゃあ、商売を続けるほうが無理ってもんさねえ」
ぽつり、と本音がこぼれちゃった。
自分でも、もうすっかり諦めモードに入っているのが分かってたけどねぇ。
すると、雫ちゃんは少しだけ考え込むような仕草をしたあと、私にこんな提案をしてきてくれて。
「あの、只中さん。もしよろしければ……なのですが」
「ん?なんだい?」
「その、今の時代、多くの方に知っていただくための手段といたしまして、『インターネット』や『SNS』というものがございます。もし宜しければ、私がそのネットの海に向けて只中さんのケーキの素晴らしさを徹底的に拡散し、宣伝のお手伝いをさせていただくのはいかがでしょうか?」
「ネット……?SNSかい?」
おばあちゃんの私には、チンプンカンプンな言葉。
だけど、雫ちゃんはなんだかものすごく頼もしい顔をして、胸を張っている。
「はい。私でよければ、微力ながら宣伝の代理人として、あるいは熱狂的な布教活動の一環として、全力でお手伝いさせていただきます!只中さんの美味しいケーキを、日本中……いいえ、身近な人々に知らしめる絶好の機会かと存じます!」
そのあまりの勢いと熱意に、私は思わず面食らってしまったけれど、同時に、胸の奥がポッと温かくなるのを感じたよ。
誰も見向きもしなくなった私の店を、こんな子が、自分のことのように一生懸命考えてくれている。それだけで、もう十分すぎるほど嬉しかったんだ。
「まあ……それは、とっても嬉しい話だねぇ」
私はシワの寄った目で、少しだけ恥ずかしそうに笑ってみせた。
「美味しいケーキなんだもの。できれば、たくさんのお客さんに食べてもらいたいっていう気持ちは、昔から変わりやしないさね。本当はもっと色んなお菓子を作って、みんなに『美味しいね』って言ってもらいたかったんだよ」
ただ、年齢のこともあるし、準備できる数もすっかり減っちまったけれどねぇ、と苦笑い。
「あんまりたくさんの数は、もう用意できなくなっちゃったけどねえ。それでも、もし誰かが食べてくれるっていうなら、こんなに嬉しいことはないさねぇ」
「お任せくださいませ、只中さん!」
雫ちゃんは力強く頷くと、買い取ってくれたケーキの入った箱を大切そうに両手で抱え込んだ。その横顔は、なんだか不思議なオーラに包まれていて、この寂れた裏通りの小さなケーキ屋さんに、ほんの少しだけ新しい風が吹いたような気がしたさ。
――あの子が持って帰ったケーキ、いったい誰が食べるんだろうねぇ。
お隣の喫茶店に戻ってお茶受けに使うのか、それとも別の誰かのところに行くのかは急いでたみたいだから聞けなかったけど……。美味しく食べてもらえるならそれが本望。
今日のところは、この老婆の細腕で作ったケーキが、誰かの胃袋と心をちょっとだけでも温めてくれたなら、それだけで、今日一日を頑張った甲斐があったってもんだよねぇ。たまには良いこともあるもんだねぇ。
それから少しして……私はちょっと大変やら、嬉しいやら。
雫ちゃんのおかげで、たくさんのお客さんがまた、戻ってくるようになってねぇ……。あんまり沢山はケーキを作ることはできないけれど。
お菓子作りのおかげで、若返ったような気分を貰えたよ。
なんだか昔に戻れた気がして、また嬉しい日々がやってきてねぇ。
渡さん。早く戻って来ないと、裏の喫茶店を求めてる人が大勢いるみたいだよ。
でもねぇ。買いに来る人がよく話す。執事さんって人は私も知らないけどねぇ。




