039 世のメイドさんって大変な件
――ガチャリ。
控えめに開いた更衣室のドアの向こうから、私は一歩、慎重に足を踏み出した。
鏡に映る自分の姿を見て、思わず二度見した。そこには、先ほど雫から見せられた特注の執事服を完璧に着こなす私の姿があった。
うん、確かにフィンのコスプレをした姿っていうか。
フィンそのものだった。
着た瞬間から妙に背筋がピンと伸びて、すごく落ち着く。
着心地自体は悪くない、というかむしろ最高級の仕立てなのだが、問題は、目の前で起立しているメイドの様子だった。
「…………はっ……はぁ……っ……!」
雫は両手で自分の口元をぎゅっと押さえ、床に崩れ落ちそうなほどの勢いで膝をガクガクと震わせていた。その瞳は限界突破を通り越し、尊さのあまり完全に白目を剥きかけている。ぶるぶると小動物のように震えていた。
どうみても不審者です。本当にありがとうございました。
「し、雫?大丈夫?」
「ぐぅっ……!は、はい……!我慢を……限界を超えた聖域の美貌を目の当たりにし、私の全細胞が歓喜のあまり蒸発しかけておりますが……っ!メイドとしてのプロ意識を総動員して、かろうじて理性の糸一本で繋がっております……っ!」
全然大丈夫そうに見えないんだけど。息をするのも苦しそうな顔で、雫は必死に自分の頬を両手でパシパシと叩き、無理やり正気を取り戻そうとしている。そこにはプロとしての顔があった。叩かれた頬が若干はれているけど……。
私は苦笑いを浮かべながら、首をかしげた。
「で、結局のところ、僕はこれからどうすれば?」
「はっ、はい……!」
雫はふらふらとしながらも、すっと背筋を伸ばし、しかし潤んだ熱っぽい目で私を見据えた。
「本日は、その最高級の執事服をお召しいただいた記念といたしまして……。
彰様には、真の執事としての『イロハ』を、この私が手取り足取り徹底的にご指導させていただきます!」
「執事のイロハ、ねぇ……」
予想の斜め上を行くスパルタ指導が始まりそうな予感がしたが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、こういう本格的な所作を学ぶのは、Vチューバーとしての演技の幅を広げるのにも役立つかもしれない。面白そうだし、せっかくなら真面目にやってみることにした。
「なるほどね?よく分からないけど、なんだか面白そうだし、やってみようか」
私が気軽にそう頷いた瞬間、雫の目からハートマークが飛び散った気がした。
やばい、また限界化のゲージが跳ね上がっている。
「彰様のその、おおらかなお心遣い……!ありがたき幸せ……!では、早速、基本の『立ち姿』からまいります!」
雫はパンと両手を叩き、私の目の前にスッと立った。
「まずは、両足を揃え、背筋をまっすぐに。あ、彰様、少し右の肩が下がっておりますね。こうです、少しだけ私が直させていただきます……っ!」
おずおずと差し出された雫の手が、私の肩や背中にそっと触れる。
服の上からでも伝わってくる彼女の指先は、なぜかものすごく緊張で震えていた。
「こ、こうかな?」
「はっ……!す、素晴らしいです!なんという圧倒的な美の直立不動……!地球の重力が彰様のために特別に優しくなっているとしか思えません……!」
「いや、ただ立ってるだけだけどね?」
「いえ、完璧でございます!では、そのままの姿勢を維持して次は『歩き方』です!」
雫の指導は熱を帯びていく。
部屋の中を一緒に歩きながら、足の運び方や腕の振りの少なさを教わる。
そのたびに顔がころころ変わる雫が若干面白い。
「歩くときは、靴音が無駄に鳴らないよう、足の裏全体で優しく着地するように……。彰様のその上品な歩き方、まるで月の光の上を歩く精霊のようでございます……っ!ああ、危ない、ここで一線を越えてしまいそうに……はっ、いけません私はいまメイド、私はただの忠実な使用人……!」
若干頭が馬鹿になってるのと、普通に口にだしてるのがもう末期のそれである。
それでも、雫はがんばってくれた。
ぶつぶつと危険な独り言を呟きながら、雫は必死に自分の頭を両手で押さえ、理性と狂気の境界線ギリギリで踏みとどまっている。
私はそんな彼女を見ながら、思わずぽつりと感想をもらした。
「世のメイドさんって、こういうのも全部完璧にこなさなきゃいけないんだよね?なんだか、すごく大変だねえ」
その、労わるような何気ない一言が、限界寸前だった雫のハートにダイレクトアタックを決めてしまったらしい。
「――ぐふっ!」
雫はパッと両手で自分の口を塞ぎ、顔を真っ赤に染め上げてその場にしゃがみこんでしまった。かろうじて漏れ出た声は、完全に蕩けきった甘ったるいものだった。
「と、尊過ぎるっ!我が主様が、この私を労ってくださった……!あんな優しいお声で『大変だねえ』などと……!ああ、もうダメです、私の理性のダムが決壊寸前です、今すぐ彰様の足元にひれ伏したい衝動に駆られておりますが、メイドとして、ここで一線を越えては……っ、越えてはならない……っ!頑張れ雫、命をもやせえええ !」
ものすごい熱量でプルプルと震えながら、雫は必死に己の欲望だだ漏れと戦っている。一線をギリギリのところで踏みとどまるその姿は、ある種のプロ根性とも言えなくもなかった。私はハハハと乾いた笑いを浮かべるしかなかった。声にでちゃってるしね。
「し、雫? ちゃんと生きている?」
「はっ、はい……!ご心配なく、主様……!私はまだ、この世の尊さに窒息させられながらも、かろうじて酸素を吸い続けております……!」
「そ、そう?吸ったらちゃんとはいてね」
すごい執念だ。
深呼吸を数回繰り返し、どうにかこうにか顔を上げた雫は、まるで何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。
「失礼いたしました……!気を取り直して、気品あふれる『お辞儀』にまいります!」
そこからの雫は、先ほどの混乱が嘘のように、再び完璧なプロのメイド講師へと戻った。上半身を絶妙な角度で傾け、右手は胸元に添え、左手は後ろに回す。
この動作なんか逆もあるらしいんだよね。こっちの世界ではこっちがデフォルトなのかな?
「お辞儀の際は、相手の目を一度見据えてから、ゆっくりと視線を下ろします。角度は十五度、最敬礼であれば四十五度。どうぞ、彰様も私に合わせて……」
「こう……かな……?」
「そうです!あ、今のは完璧にスムーズでございます!こちらのほうがより優雅に見えます!」
雫は私の動きを褒めつつ、ほんのわずかに私の背中に寄り添うようにして、角度を微調整してくれる。その真剣な横顔は美しく、教え方も非常に理にかなっていた。少し息が荒い気もするが。
ひと通り「立ち姿」「歩き方」「お辞儀」の基本動作を繰り返すうちに、私の身体にも自然と綺麗な所作が馴染んでいく。
慣れてくると、この独特の格式高い動きも悪くないと思えてきた。
「……なるほどね。こうやって実際に体を動かしてみると、色々と分かって面白いな」
私が満足げに頷くと、雫は誇らしげに胸を張った。
「当然でございます! 執事としての所作を身につけた男性は、世界で一番……いいえ、全宇宙で一番輝くのでございますから!」
「そうなんだ?じゃあ、せっかく一通りの基礎を覚えたんだし、次は『給仕』のイロハも教えてもらえるかな?」
「給仕、でございますか……!?ティーポットの持ち方からカップの傾け方、そして主様にお茶を差し出す際の至福の呼吸法まで、喜んでご指導させていただきます!」
目を輝かせる雫の指導のもと、私は部屋の隅に用意されたお盆とティーセットを手に取り、実際に給仕の練習をはじめた。
カップに紅茶を注ぎ、こぼさないように優雅な足取りで歩き、雫の前にそっと差し出す。一連の流れを完璧にこなすと、雫は感極まったように両手を合わせ、感動の涙をちょっぴり浮かべた。
「完璧でございます……!今すぐこの紅茶を一生の宝物として保存瓶に詰めたいほどの美しさでございます」
「いや、普通に飲んでよ、紅茶なんだからさ」
一通り一連の動作を体験し終えた私は、ふうっと小さく息をついて椅子に腰掛けた。確かに疲れたけれど、普段とは違う体の使い方や、きちんとした所作を学ぶのは新鮮で楽しかった。
「なるほどねぇ。色々分かってよかったよ。こういう細かな立ち居振る舞いや、人に何かを差し出すときのスマートな動きっていうのは……」
私はふと、普段の自分の活動に思いを馳せる。
「――うん、これは配信で『フィン』を演じるときにも使えると良いなぁ」
画面の向こうで優雅にふるまうキャラクターを表現するとき、ただの絵や動きのパターンだけでなく、こうして体感として染み込んだ執事の所作があれば、よりリアリティが増すに違いない。
私のその言葉を聞いた瞬間、雫はパッと顔を輝かせた。
「彰様!ご自身の配信のクオリティを高めるために、ここまで熱心に執事の所作を吸収してくださるなんて……!私の教育の賜物というより、もう彰様の天才性と美徳が爆発しております……!」
また始まったぞ、と思いつつも、私は悪くない気分で自分の制服の袖口を眺めた。
この執事服も案外、これからの配信の心強い相棒になってくれるかもしれない――このときの私は、まだそんな気楽なことを考えていたのだった。
「それでは彰様、次は実演です!」
……何をいってるんだこいつ?




