033 あずさは混乱している件
私は平賀あずさ。しがないクリエイター。
私は今、目の前に積み上げられた分厚い書類の山を見つめながら、遠い目をしていた。
「……な→ん↓だ↑こ→れ→」
思わず口から零れ出たのは、呆れと困惑の入り混じった呟きだった。
信じられないことに、私がやったことといえば、スマホの画面を開いて、例のメイド、雫から送られてきたPDFや電子署名用のデータを、ただひたすら「確認して転送、確認してサイン」しただけである。
その結果が多分コレである。
必要な書類の控えみたいなものなのかもしれない。
あれやこれやの申請。
あれやこれやの各種届出。
果てには資本金のあれやこれやの微調整。
普通にやれば数ヶ月はかかり、行政書士や弁護士が頭を抱えて泣きを見るような複雑怪奇な法人設立の手続きが、まるでベルトコンベアに乗せた荷物のように、驚異的なスピードで次々と完了していった。
結果山積みの書類がうちに来たわけで。
ちなみに会社の名称は、『Plan_B』。
ふざけてんのかこれ。
なんだ『Plan_B』って。
「『Plan_B』ってなんだ?」
「あぁんっ!?ねぇよ!んなもん!」
で有名な殺戮シーンがよぎる。
分かる人には分かる。
分からない人には分からないネタだけど。
その話はおいとくとして。
我らがフィン様の圧倒的な存在感と、ネットに漏れ出しそうになる「何か」を合法的に隠蔽し、莫大な経済活動の摩擦を受け止めるための防波堤。
そのための会社がいま、私の意思とは無関係に、効率良く形を成していっている。
「……あれ? もしかして、会社作るのって、こんなに簡単?」
私は手元に届いたばかりの、完了通知の書類の山とメールデータを見ながら、のんきに首を傾げた。
世の中の起業家たちは、やれ資金繰りだの、やれ手続きだの、やれ出資だので毎日のように胃に穴を空けているというのに。
私はただ椅子に深く腰掛け、送られてきた書類を確認するだけ。
実務のほとんど、いや、99パーセント以上は、あの不気味なほど優秀なメイドが裏で完璧に処理してくれている。
あいつ、一体裏でどういうコネを使ってるのか……。
いや、考えるのはよそう。
知ったところで、私の正気がマッハで削り取られる気がする。
既にもう削れているが。
「会社設立なんてチョロいじゃん。
これなら私、ちょっとお茶飲んでる間に終わっちゃう。
はははのはー」
危機感の欠片もない呑気なセリフを一人ごちて、私はコーヒーを口に運んだ。
そうだ、これなら楽勝だ。
この調子で書類の管理だけ適当にやっていれば、平穏無事に……。
――ん?
そこで飲んでいるカップが、途中でピタリと止まった。
何かがおかしい。何かが。
脳裏の片隅で、数日前に交わした契約の条件が、スローモーションのように蘇ってくる。その時の私はちょっと頭がパーになってたわけで……。
『――というわけでプランBの場合。あずさが会社の『社長』に就任していただきます。もちろん、外向けのお飾りではなく、全責任を負う正式な生け贄として』
あのとき、頭のおかしいメイドが冷徹な声で突きつけられた条件は、確かそんなだったような……。
――「代表取締役」?
――会社を作るってことは……『私が』……会社の「社長」になるってこと……?
言われた時は寝ぼけてたし、別世界に旅立ってたから良くわからなかったけど。
冷静に頭が回りだしていく。
そうだ。会社の社長になるってことは……。
――いまの会社って、どうなるの……?
背筋を、凍てつくような冷たいものがサーッと駆け抜けた。
そうだ。私はもともと、ゲーム会社で死ぬほどゲーム制作の泥沼に浸かっていたプログラマーだ。
毎日徹夜で仕事をして、バグと格闘し、自分の手で面白い世界を構築することだけに人生を捧げてきた。
そんな私の、世間一般の企業に勤め続ける「会社員」としての身分はどうなる?
いや、そもそも、会社の社長に就任するとなれば、今の所属先企業で厳しく禁じられている『副業なんちゃら兼業の規定』に真っ向から抵触するのでは?
それ以前に、こんな超絶ブラックホール並みに重力のある怪しい組織のトップに立ってしまったら、以前の職場に発覚した瞬間……凄い目で見られるのでは?
「……待て待て待て待て待て待って!!!」
私はガタッと勢いよく椅子から立ち上がり、自分の頭を両手でガシガシと掻きむしった。
顔面から血の気がサーッと引いていくのがわかる。
冷や汗が背中を滝のように伝う。
「やばーーーい! 会社作りの手続きをのほほーんと眺めてる場合じゃない!
私、今の会社、辞めなきゃいけないじゃん!!」
そうだ。『Plan_B』という名の魔王城の城主に私が座るということは、私は必然的に、これまでの平穏な(徹夜は多かったけど精神的には自由だった)クリエイターとしての日常を完全に捨て去り、社会的な崖っぷちからダイブしなければならないのでは?
なんてことだ。
書類が勝手に進むものだから、自分の身に降りかかる致命的な存在を完全に忘れていた。
なんという悪手!
なんというナメプ。
私は一体何をのんきに「チョロいじゃん」などとコーヒーをすすっていたのか。
バカなの? 脳みそまでASMRに溶けたの?
頭の中で、最悪の未来図が走馬灯のように駆け巡る。
突然の退職届。会社の冷ややかな視線。
「お前、何考えてるんだ」という一部お偉いさんの怒声。
そして、得体の知れない『Plan_B』の代表として、あの狂気のメイドと、世界を滅ぼしかねない主様の間に挟まれ、矢面に立たされる自分の姿。
想像するだけで生きた心地がしねぇ……。
――終わった。
こーれは私の人生、完全に詰んでるきがする。
心臓がバクバクと暴れだし、呼吸が浅くなる。
目の前が真っ暗になりかけたその時、私の脳裏に一筋の光明が差し込んだ。
「いや……待て、待てよ?」
私はハッと息を呑み、自分の机の引き出しの最下層に手を突っ込んだ。
ガタゴトと音を立てて引き出しを引っ張り出し、その中から引っ張り出したのは、分厚いクリアファイル。
中には、私が密かに、本当にいざというときの「万が一の保険」として作り上げていた、極秘のバックアップ文書の数々が綴じられている。
淑女たるもの、目の前のリスクヘッジを怠るはずがない。
私はこう見えて、危機管理能力だけはデスマーチを生き抜く過程で鍛え上げられているのだ。
「ふふ……ふふふ……」
ファイルを開き、中身を確認した私の口元に、思わず怪気炎のような笑みが浮かんだ。そうだ、私はあらかじめ、万が一、今の職場をクビになったりしたときのことを想定し、色々つくっておいたのだ。
今の職場への穏便な退職工作のマニュアル。
一時的なフリーランスとしての独立資金の確保方法。
何かやらかした場合に備えての海外のサーバーへのバックアップ。
そのすべてが、このファイルの中に完璧に網羅されている。
パラパラと書類をめくりながら、私は大きく息を吐き出した。
「……よし。大丈夫。私には、ちゃーんと退職しても生きていけるだけの備えがある。今の会社なんて、明日にも辞表を叩きつけて、きれいさっぱり綺麗にバイバイしても平気」
急激に安心感が押し寄せてくる。
そうだ、私には退路がある。
会社を辞めること自体は、怖くない。
あの狂気のメイドに脅されて社長に仕立て上げられたとはいえ、自分の身を守るための盾はちゃんと用意してあったのだ。
私は自分の頭の良さを心の中で盛大に褒め称え、再びふうっと椅子に深く腰掛けた。なーんだ、焦る必要なんて全くなかったじゃん。
私は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、再びマグカップに手を伸ばそうとした。
――だが。
その瞬間、私の手は再び、ピタリと宙で凍りついた。
……あれ?
それっておかしくない?
ちょっと待って。
会社を辞める。
今の職場から綺麗さっぱり脱出して、『Plan_B』の代表取締役として生きる。
それ自体は、私の用意したバックアッププランで完全にカバーされている。
けどさ。
なんで、そんなものが用意されているんだろう。
何かが抜けている気がする。
まるで誰かに指示されているような怖さがある。
私は頭をふって洗脳じみた考えをやめた。
もっと他の事を考えるんだ。
そうだ、それが良い。
じゃあ次だ。
会社を辞めたあと、私は一体、毎日何をすればいい……?
私の脳裏に、あの『Plan_B』の本来の目的。
それはフィン様の保護。
ネットの裏で暴走する信者たちの隠蔽工作。
莫大な資金のマネジメント、そして何より――あの狂気のメイド、雫から次々に送りつけられてくる、常軌を逸した無理難題。
それだけじゃない。
私はもともと、何をしていた人間だ?
そう、プログラマーだ。
毎日パソコンに向かい、ゲームを作り、キャラクターを動かし、面白いデジタル世界をゼロから生み出すことに情熱を燃やしていた、ただの「ゲーム制作オタク」だ。
私が今のゲーム会社を辞めたとして……。
そのあとに待っているのは、「穏やかなクリエイターとしての引きこもり生活」か?
――違う。絶対に違う。
会社を辞めた瞬間に、私は『フリーなクリエイター』になれるわけではない。
私は『Plan_B』の代表取締役――。
すなわち、あのバケモノのような存在を抱える全責任を背負った最高責任者として、完全にその組織に、文字通り「一生涯の奴隷」として組み込まれてしまうのだ。
しかも、それだけじゃない。
私の目の前には、いまも未完成のまま放置されている『私自身のライフワークであるゲーム制作のプロジェクト』が、冷たく画面の向こうで私を睨みつけている。
つまり、こういうことだ。
今の会社を辞める → 自由になれるどころか、『Plan_B』の代表として地獄のブラック労働に直行する。
ゲーム制作をする暇など一秒たりともなくなる。
いや、それどころか、睡眠時間すら削って、書類仕事と技術サポートに一生を捧げる羽目になる。
あれ……?
私、このままだと最終的に待っているのは「自分の好きなゲーム制作が一生できなくなる」という、プログラマーにとって死よりも残酷な絶望の未来だけじゃない???
「……ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
私は思わず、目の前の机を両手で激しく叩きつけた。
ガシャリとマグカップが揺れ、コーヒーの雫が飛び散る。
静寂を切り裂くような私の絶叫は、誰にも届くことなく、ただ冷たいコンクリートの壁に虚しく吸い込まれていった。
書類は勝手に進む。
会社は綺麗に出来上がる。
私の退職の準備も、完璧に整っている。
――なのに、私の自由は、最初から一ミリも存在しなかった。
「このままだと駄目。絶対に私が面白くない」
私は自分のデスクの椅子に突っ伏した。
かんがえろあずさ。
何か、何かないか?
何か……あっ!
「……でもまって、まって欲しい。
社長権限で色々できない?」
そうだ。よくよく考えれば社長のなのだ。
いろいろな権限だってあるはずだ。
「フィン様が声あてたゲーム……。めちゃくちゃ作りたい。
いいや、絶対に作る……。作って見せる!
のってきた! 気分がのってきたぞー!」
時間がない?そんなもの作れば良い。
寝る時間がない?上等だ。かかってこいよ。
何がなんでも好きな事はしたい。
なんせ私はクリエイターであり、社長でもあり、お嬢様なのだから!
……気分が落ちこんだり、ハイテンションになったり、感情の起伏がおかしい私は、このとき完全に記憶も精神もバグっていて。
それがフィン様のASMRが原因で発狂してるとは、思いもしなかったのだった。




