112 歌枠はNGな件
送信完了の画面を見届け、私は椅子の背もたれにゆったりと身体を預けた。
あずささんや雫、そしてファンの皆が寄せてくれる情熱。画面の向こうで私のボイスや配信をここまで愛し、素晴らしい形に昇華してくれているクリエイターたちの熱量に触れて、胸の奥がまたじんわりと熱くなっていた。
「……うん。僕もただ感心しているだけじゃダメだな」
演者として、ファンに全力で応えたい。
先ほどのコミカライズ作品で描かれていたフィンの声のニュアンス、指先の仕草ひとつにまで込められた空気感を思い出していると、無性に声を出したくなってきた。もっと表現の幅を広げたい。声の響きや息の混ぜ方を、基礎から鍛え直してみたいという衝動が湧き上がってきたのだ。
「よし、ちょっと発声練習でもしてみようかな」
幸い、この配信部屋は周囲の音に邪魔されることもない穏やかな空間だ。外からの雑音に気を取られることも無ければ、こちらの声が誰かの迷惑になることもない。
私は立ち上がり、軽く肩を回して緊張をほぐした。姿勢を正し、腹式呼吸を意識しながら息を吸い込む。
「あー……あー……。アー、イー、ウー、エー、オー……」
ネットの動画等で見た発声の基礎を思い出しながら、少しずつ声を張っていく。喉の奥を開き、胸の響きを意識して響かせる。低く落ち着いたフィンの声質を崩さず、どこまで遠くへ、滑らかに声を届けられるか。
「んっ……あー、アー……。お嬢様、本日のご気分はいかがですか――」
少しノリが乗ってきて、フィンの声で台詞を滑らせていた、まさにその時だった。
コンコン、とノックの音が部屋に響いた。
「彰様。失礼いたします」
静かにドアが開き、部屋に入ってきたのは雫だった。
相変わらず隙のない美しいお辞儀を見せる彼女だったが、どこかいつもと様子が違う。いつもなら完璧に澄み渡っている表情に、ほんのわずかだが、困惑というか……切実な焦りのようなものが混ざっている気がした。
「あれ、雫?どうしたの?」
私が声をかけると、雫はすっと背筋を伸ばし、真意を探らせないように整えられた声で言った。
「彰様。大変申し上げにくいのですが……発声練習等はお控えいただけますと幸いにございます」
「えっ? 発声練習を……?」
私は思わず目を丸くした。
「何か問題でもあったかな?音が外に響きすぎちゃってた? でもここ、周りに家もないし……」
「いえ、音漏れ等の近隣問題ではございません。ただ……その、少々問題がございまして」
「問題?」
首を傾げる私に対し、雫は視線をわずかに泳がせた。
普段の冷徹なまでに完璧な彼女にしては珍しく、何か言葉を選びあぐねているような、返答を濁すような素振りを見せている。
(え、なんだろう……?僕の発声音量が大きすぎて、家の中にいる雫の耳を痛めつけちゃったとか……?)
雫は一瞬だけ思案するように間を置くと、意を決したように深々と頭を下げた。
「……彰様のお声は、すでに洗練の極みに達しております。これ以上の練習などお積みにならずとも、すでに人々を魅了するに十分すぎるほどの響きをお持ちです。ですので……どうか、これ以上はお手を煩わせないでくださいませ」
「え、えぇ……? そんなに褒めてくれるのは嬉しいけど……」
あまりにも切実な口調で止められたので、私は苦笑いするしかなかった。まさか練習すら不要だと絶賛されて止められるとは思わなかった。
「うーん、そっかぁ。じゃあさ、発声練習がダメなら……歌とか歌うのは平気かな?」
「歌、でございますか?」
雫がぴくりと眉を動かした。
「例えば……どのような楽曲でしょうか?」
「うーん、昔よく聴いていた歌なんだけどね。冬になるといつも聞いていた曲があってさ」
「冬の、曲……ですか」
雫の警戒するような視線を感じつつも、私は懐かしい記憶を手繰り寄せていた。
前世の街角で、寒風が吹き抜ける季節になるとどこからともなく流れていたあの名曲。誰が歌っていたのか、細かいアーティスト名や正確な題名までは思い出せないけれど、切ないメロディと美しい歌詞だけは今でも鮮明に胸に残っている。
私は少し照れくささを感じながら、喉を整えて静かに口ずさんだ。
「――降り止まぬ凍てつく光が 頬を撫でて消えていく
あなたの影をなぞるだけの指先は 静かに凍えて
言葉にできなかった恋心は 遠い夜空の彼方へ
伸ばした手は届かなくても あの日もらったぬくもりを
私はずっと胸に抱きしめて歩いていく――」
ほんの一節。
静かな部屋の中に、私の歌声が優しく響いた。切ない恋心と、寒さの中で輝く思い出を歌った悲恋のメロディ。
歌い終わり、ふぅと息を吐いて雫の方を振り返ると――
「……雫?」
そこにいた雫は、完全に固まっていた。
普段の冷静沈着な面影はどこへやら、その瞳はわずかに泳ぎ、整った眉が引きつるように揺れている。まるで過剰な情報量を脳に直接叩き込まれて、必死に理性の糸を繋ぎ止めているかのような、必死すぎる表情だ。
「あ、彰様……っ」
雫は震える声を振り絞るようにして、静かに、しかし絶大な圧を込めて言った。
「そのお歌は……非常に、刺激が強すぎます。おそらく……私以外の者が耳にすれば、正気を保つことすら困難かと存じます……っ」
「えぇっ!? た、確かに悲しい恋の歌だけど、そこまで!?刺激強いかな!?」
「……強く、ございます。絶大でございます」
必死に目をきょどらせながらも、なんとか理性を保って抑え込もうとしている雫の姿に、私は圧倒されてしまった。
「そ、そっかー……。じゃあ、配信で歌枠とかをやったりするのは……やっぱりダメかなぁ?」
「絶対に、ダメでございます」
間髪いれずに即答された。いつになく強い語気に、思わず「はい」と背筋が伸びてしまう。
「ただ……」
雫は深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えるように胸に手を当てると、真剣な眼差しで私を見つめた。
「もし……どうしてもお歌いになりたい楽曲がおありでしたら、一度、個人で録音を行っていただき、そのデータをあずさ様へお渡しくださいませ。私どもも……できる限り耐えられるよう、全力を尽くして準備いたしますので」
「あ、あはは……分かったよ。あずささんに確認してもらうね。……でも、歌ってやっぱり良いものだよね。よし、今度覚えてる曲をいくつか収録してみようかな!」
私が暢気に笑うと、雫はどこかホッとしたような、それでいて未来の試練を覚悟したような複雑な表情で吐息を漏らした。
「……彰様。差し支えなければお伺いしたいのですが、その楽曲は……一体どちらで知られたものなのですか?」
「ん? ああ、これ?」
私は天井を仰ぎ見ながら、遠い目をした。
「昔……好きだった曲なんだよ。誰が歌っていたかとかは……んー、ちょっと思い出せないんだけどね。すごく大好きな曲だったんだけど」
懐かしい前世の記憶。華やかな街の明かり、白い吐息、スピーカーから流れていた美しい旋律。
「他にもいっぱい良い曲を知ってるんだけど……たぶん、みんなは知らないんじゃないかな」
ポロリとこぼれ出た言葉とともに、私の顔に少しだけ寂しげな笑みが浮かんでしまったかもしれない。前世の文化や思い出を、自分しか覚えていないという一抹の孤独感。
それを見た雫は、ハッと息を呑むと、静かに胸元へ手を当てて深々と一礼した。
「……では、私がそのお歌に耐えられるようになりましたら、ぜひ、一番にお聞かせくださいませ。楽しみにしておりますので」
「うん、ありがとう雫。なるべく小声で練習しておくね」
雫が静かに部屋を退出していき、再び静寂が戻ってきた部屋で、私は少し晴れやかな気持ちでパソコンに向かい直すのだった。
……………
……………
……………
……………
私がちょうど、いつも通りの業務を雫様と交代しようとしていた、まさにその時だった。
配信部屋の方から、静かに、しかしあまりにも深みのあるお声が響いてきた。
「あー……あー……。アー、イー、ウー、エー、オー……」
ただの発声練習のはずだった。
だが、その一声が廊下に伝わってきた瞬間、私の隣にいた本物の雫様の顔からスーッと血の気が引き、銀縁メガネの奥の瞳が限界まで見開かれた。
「ひっ……!あ、彰様が……本気の発声を……っ!?」
雫様は悲鳴のような掠れ声を残すと、脱兎のごとく全速力で外へと退避していった。あまりの目にも留まらぬ撤退劇に、私は一瞬呆然と立ち尽くしてしまった。
(……本気で逃げましたね、あのメイド様は。交代直前だというのに……)
心の中で深く溜息をつく。だが、私まで逃げ出すわけにはいかない。
このまま彰様のお声を野放しにすれば、退避した雫様どころか、何が起きてもおかしくはない。
私だって裏の世界で変装と潜入を生業とするプロだ。
どれほど過酷な現場であろうと、引き受けた仕事を途中で投げ出す趣味はない。
私は小さく深呼吸をひとつ挟み、雫様の姿としての完璧な仮面を貼り直して、配信部屋のドアを叩いた。
「彰様。失礼いたします」
部屋に入り、いつも通り完璧なお辞儀を捧げる。
しかし、目の前で「お嬢様、本日のご気分はいかがですか――」などとフィン様のお声で台詞を滑らせる彰様を前に、私の胸の奥でも激しく警鐘が鳴り響いていた。
(なるほど、確かにこれは危険。このお声の響きは、理性をいとも簡単に粉砕する……)
なんとかお声を抑えていただくため、そして何よりこの恐ろしい発声練習そのものを止めていただくため、私は必死に思考を巡らせた。練習など不要なほどすでに完璧です、と切実に訴えかけることで、どうにかこの場を納めようと試みる。
だが、発声練習を回避できたと安堵したのも束の間、主様から「歌とか歌うのは平気かな?」という想定外すぎる提案が飛び出した。
――歌、だと……?
思考が一瞬で停止しかけた。
ただのセリフの朗読や、日常の雑談でさえ、周囲の人間を文字通り「全滅の危機」に追い込むあの圧倒的なお声だ。それをもし、感情が込められた『音楽』という乗数に乗せて放たれたなら……一体、どれほどの破壊力となって周囲を抉ることになるのか。
冷静な裏のプロとして、そんな想像すらしたくない最悪の事態が頭をよぎる。
(冷静に考えてみて、彰様のお声をまともに音楽として浴びて、果たして私は無事でいられるのか?……いや、間違いなく危険ではあるはず。それでも私としては自分がどこまで耐えられるのか聞いてみたい葛藤もある)
脳内で全力の警報が鳴り響く中、私はどうにか顔の筋肉を引きつらせないよう、必死に微笑の仮面を縫い留めた。
「うーん、昔よく聴いていた歌なんだけどね。冬になるといつも聞いていた曲があってさ」
「冬の、曲……ですか」
言い知らぬ悪寒が、全身の神経を逆撫でしていく。
だが、私が制止の言葉を挟む間もなく、彰様は喉を整え、静かにその歌を口ずさまれたのだった。
「――降り止まぬ凍てつく光が 頬を撫でて消えていく
あなたの影をなぞるだけの指先は 静かに凍えて
言葉にできなかった恋心は 遠い夜空の彼方へ
伸ばした手は届かなくても あの日もらったぬくもりを
私はずっと胸に抱きしめて歩いていく――」
――ッ!?
その瞬間、私の視界が、そして脳髄を支配していた現実のすべてが強烈に歪んだ。
目の前にあるはずの防音壁も、整えられた配信部屋のデスクさえも、一瞬にして音を立てて吹き飛んでいく。代わりに広がったのは、私の知るどんな先進的な都市の構造とも違う、あまりにも重厚で、あまりにも静けさに満ちた――見知らぬ『冬』の景色だった。
しんしんと、どこまでも果てしなく降り止まぬ冷たい光のような雪。頬を刺す凍てつく空気の冷たさまでが、肌を伝ってくる。
その白銀の世界の中、一人の男性がただぽつんと立ち尽くしていた。
視線の先で、大切な女性の背中がゆっくりと、遠ざかっていく。
一歩踏み出し、手を伸ばせば、彼女の袖を掴めるかもしれない。
ほんのわずかな勇気さえあれば、引き止められたかもしれないその距離なのに。
男性は足元に根が生えたかのように動けず、ただただ立ち尽くしたまま、遠ざかる後ろ姿を見送ることしかできない。
そこにあるのは、取り返しのつかない後悔と、凍りついた時間。
言葉にできなかった想いの残骸が、冷たい雪のなかに静かに埋もれていく――。
(な……なん、ですか……これは……ッ!?)
圧倒的な情景の濁流。歌声に乗せられた恐ろしい密度の感情と映像が、私の意識を強烈に引きずり込んでいく。男性の踏み出せない悔しさ、届かぬ恋心、けれど出会えたことへの感謝――その熱量が、ダイレクトに私の精神を揺さぶってくる。
自分に何が起きているのかも、何をされたのかも分からなかった。
ただただ、圧倒された。
(くっ……意識を、持っていかれた……!?)
ハッと気がつくと、私は元の配信部屋に立っていた。
時間にしてほんの数秒。だが、長年の鍛錬によってどんな極限状態でも冷静さを保つよう訓練されてきたこの私が、ただの口ずさみ一節で完全に正気を失いかけたのだ。もし私が普通のメイドであれば、今頃は泡を吹いて倒れていただろう。
(一体、何があった!?……。ただ歌を聴いただけだというのに……!)
背中に嫌な汗が伝い落ちる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、瞳が泳ぎそうになるのを、私は全神経を集中させて力ずくで抑え込んだ。
「あ、彰様……っ。そのお歌は……非常に、刺激が強すぎます。おそらく……私以外の者が耳にすれば、正気を保つことすら困難かと存じます……っ」
声が震えそうになるのを必死で圧へと変換し、言い渡す。
配信での歌枠など、口が裂けても許可できるはずがない。もしこんな「意識を別の景色へと強制転送させるような歌声」をネットに流してみろ、聴衆が残らず気絶して大惨事になる。
「絶対に、ダメでございます」
感情を殺し、間髪入れずに即答した。
だが、どうしても歌いたいとおっしゃる彰様に、録音データをあずさ様へ渡すという代替案を提示した時、彰様はどこか天井を仰ぎ、遠い目をされた。
「昔……好きだった曲なんだよ。誰が歌っていたかとかは……んー、ちょっと思い出せないんだけどね」
その顔に浮かんだのは、私が見たこともないほど寂しげな笑みだった。
「みんなは誰も知らないんじゃないかな」とポロリとこぼされたその一言。
(……誰も、知らない……?)
彰様がどちらでこの歌をお知りになったのか、私には分からない。だが、あの鮮明すぎる雪国の情景、そして彰様が抱える誰とも共有できない孤独の深さに触れ、私の胸の奥に淡い感情が芽生える。
「……では、私がそのお歌に耐えられるようになりましたら、ぜひ、一番にお聞かせくださいませ。楽しみにしておりますので」
「うん、ありがとう雫。なるべく小声で練習しておくね」
深々と一礼を捧げ、部屋を退室する。
静かに扉を閉め、配信部屋を後にした私は、壁にそっと背を預けて深く息を吐き出した。
(……やれやれ。彰様というお方は、本当にどこまでも底が知れませんね)
手元の微かな震えを抑えながら、心の中で配信部屋へと向き直る。
あの恐ろしい破壊力を秘めたお歌を、あんなにも寂しそうに、愛おしそうに歌われるのだから始末に負えない。逃げ出したあのメイド様の気持ちも、今日ばかりは少しだけ理解できてしまった。
(平然と仕事をこなすのがプロですが……次までに、私も相当な訓練を積んでおかなければなりませんね。……それにしても、裏の世界で生きてきた私が、まさかこれほど強烈な感情を揺さぶられる日が来ようとは……)
私は小さく息を整えると、何事もなかったかのようにすっと背筋を伸ばし、完璧なメイドの足取りで廊下を歩き出した。
とりあえず、脱兎の如く逃げていった雫様の確保に向かわなければならない。
ただでさえ精神力を削られたというのに、私はこれ以上、残業はしたくない派なのだ。




