2 侵攻
夏も終わり、秋を前にしてわずかに過ごしやすい陽気になった季節にも関わらず、草萌える姿を詠った句が届いて鈴乃は口角をあげた。
引き出しにしまって読み途中の書物を開く。
入室を願う鈴がりんりんと鳴りながら鈴乃のもとに飛んできた。捕まえ「是」と言う。
呪術によって作られた希なる鈴は、その声を受けて扉の鍵を開けた。鈴は再び飛んで所定の位置へ戻っていく。
「姫様」
鈴乃が部屋に連れ込んで情事にふけっている相手とされている男達の一人、晴先が青い顔で入ってきた。
「どうしたの。珍しく焦っているわね」
長い座布団の上で肘置きにしなだれかかるようにして書物を読もうとしていた鈴乃は、はだけていた着物を整えて上体を起こした。
「侵略にございます。北のケルン大帝国がついに我が国に侵攻してきました」
鈴乃も、すっと表情を引き締める。
「被害は?」
「今はまだございません。むしろ国境の村々も帝国に協力し、進軍は早すぎるほど順調のようです」
「お父様はお気づきかしら?」
「おそらくまだ気づいていないかと。我々も仲間から届いた情報でしか感知しておりません。帝国は王都に情報が届かぬよう、先鋒隊で飛脚と鳩屋ばかりをおさえているようです。情報を持ってきてくれた仲間は商人なので難を逃れました。彼が知る最後のケルン軍滞在地は時狭間の里です」
「今日で侵略何日目?」
「三日にございます」
「早いわね……お父様が気づくのは遅ければ遅いほど良いわ。城に届いた情報が見つかったら握りつぶしなさい。道業が主体となって行うように伝えて」
「はっ」
「帝国はまっすぐここを目指しているのかしら?」
「はい。ですので姫様はどうかお逃げください。避難先は仲間を頼れます。なのでどうか」
それが本題か、と鈴乃は理解した。
彼が、いや、彼らが鈴乃を生かしたいと思ってくれていることは鈴乃も分かっている。
たまにその話題が出たとき、鈴乃が色よい返事をしないので悲しい顔をしていた。
情事にかまけているというのは部屋に連れ込む方便で、実際に部屋を訪れる男達としていることは、父王の目を盗んで助けることができる人を助ける相談であった。
鈴乃の自室は、情事を隠すために防音対策がしてあると言われているが、実際は密談を聞かれないために防音対策をしている。
腐敗した国内で、それでも正しくあろうとしている官たちの隠れ蓑となってきた鈴乃への、彼らの忠義は厚い。
悪名の陰で善行を重ねてきた彼女を、悪名ゆえに罰されることから救いたいと思っているのは、彼らの気質を知っていれば想像に難くない。
そう分かっていて、鈴乃は首を横に振った。
「逃げるのは駄目よ。伝えたいこともあるし。民はわたくしを罰したがっているし、わたくしもあの国が乗っ取ってくれるならもう未練もないわ。死ぬので良いわ」
「姫様」
「……ごめんね」
「なぜ。あなたは何も悪くないではないですか……!」
ぎりと歯噛みして、端正な面をゆがませる。
部屋に連れ込む相手と噂されるのを狙っただけあって、晴先たちは見目がよい。
「わたくしはただ、もう疲れただけよ」
「疲れた?」
「このままでは民があわれだったから、女王になったときに善政をしくのを目標にしてはきたわ。でもケルン大帝国は侵略の名手でしょう。侵略とは名ばかりで、あれはもう慈善事業よ。そんな国にお任せできるなら、わたくし必要ないじゃない。わたくしが生き残る意味がないわ。もう気張らなくていいと思ったら、なんだか疲れだけを感じるの」
「王族として必要がないなら、これからは姫様ご自身の幸せのために生きてゆかれればよいではございませんか。あなたはずっと国に尽くしてきた。もう自分のことだけを考えてもよいのです」
「わたくしの幸せって、なにかしら?」
晴先は目を見開いて押し黙ってから、なんとか答えを返す。
「恋をし、結婚し、お子を授かり、心穏やかにお過ごしになられること、ではないでしょうか」
「そういうの、よく分からないわ」
「分からない、ですか」
「みんながそれを望むのは知っているわ。ならそれが脅かされないようにしてあげたいと思ったわ。けれどわたくしがそうやって生きる? 鳥肌が立つわ……気づいたときには憎まれていたの。嫌われて、おべっか使う人しか周りにいなかったの。書物にあるように、あなたたちのように、幸せに酔いしれる感覚は想像しかできないわ」
手に持ったままだった書物を、ぽいと文机の上に投げる。
「あなたのような者たちに出会って、心の綺麗な人がいるのだと知って、それなら助けてあげようと思ったけれど、わたくしの心にはそういう綺麗なものは無いのよ」
「そんなはずはございません。姫様は心が綺麗だから我らを助けてくださったのです」
「そう? では言い方を変えるわ。わたくしのそういう心はとっくに凍りついていて感じられないのよ。あるとしても、感じないの」
「姫様……」
あわれなものを見る目を向けられて、鈴乃は何を思うべきなのだろうかと首を傾げた。
書物によれば、あわれまれたことを不満に思ったりする反応がよくあったが、鈴乃の心は凪いだままだった。
ただ気にかけてくれたという情は分かるので、それはありがたいものだなと思う。そして少しこそばゆい。
「あなたたちに感謝されるのは、なんだかむずむずして変な感じだったけれど、面白かったわ。元気にお過ごしなさい」
晴先は苦い顔をして押し黙る。
「力ずくで連れだそうとしては駄目よ。帝国の支配者に伝えたいことがあるの。その機会を奪うようなことはしないで」
晴先はひざ立ちだった体を落として畳の上であぐらをかいた。両ひざの前に左右の拳をついた格好で頭を下げる。
「それでも、できる限りのことはさせていただきます」
「そう。それはあなたたちの自由だわ。お好きになさい。帝国に伝えた後なら逃げてあげてもよくってよ」
「はっ」
失礼いたします。と言って、彼は座ったような格好のままで数歩後ずさり、また拳を畳について頭を下げる。
立ち上がって草履を履き、退室していく。
「悪役をやめる日が、ずいぶん早くなったわね」
閉じた扉を見ながら鈴乃は、ふと吐息をついて微笑んだ。