完璧な婚約者
春は、婚約を結ぶにはよい季節なのだそうだ。
花は咲くし、鳥は歌うし、冬のあいだ死んだように眠っていた庭も息を吹き返す。
何かを始めるには、いかにも縁起がいい。
だからといってーー、十歳の少女の人生まで、春の陽気に便乗して決めてしまってよいものなのだろうか。
シャルル・メイアーズは、そんなことを考えていた。
「シャルル」
隣に座る母が、小さな声で呼ぶ。
「背筋を伸ばしなさい」
「……はい」
反射的に伸ばす。
すぐ向かい側には、フォルセティ公爵夫妻が座っていた。
王都でもっとも格式高いと謳われる公爵邸の応接間。
天井は高く、壁には代々の当主らしき肖像画が並び、暖炉の上にはシャルルの家の領地なら一つ買えそうなほど立派な時計が置かれている。
窓の外には、白い花をつけた梨の木。
そのさらに向こうには、春の陽光を受けて輝く噴水が見えた。
フォルセティ家は、建国以来幾人もの宰相や将軍を輩出してきた王国筆頭の公爵家である。
北部に広大な領地を持ち、その発言力は王宮でも大きい。
伯爵家の娘であるシャルルからすれば、今回の婚約は破格と言っていい。
そしてーー、シャルルの正面には、一人の少年が座っていた。
ーーファイ・フォルセティ、十歳。
本日をもって、シャルルの婚約者になる少年である。
(……綺麗な人)
初めて見た時、そう思った。
少年に対する感想として正しいかはわからない。
けれど、それ以外に言いようがなかった。
艶のある黒髪。
涼やかな青紫の瞳。
まだ十歳だというのに、鼻筋も輪郭もすでに端整で、黙って座っている姿には妙な落ち着きがある。
母から聞かされていた。
三歳で文字を書き始め、五歳で王国史を暗唱し、七歳で家庭教師を論破。
九歳の時には、領地経営に関する意見書を父親へ提出し、十歳になる頃には、王宮でさえその名を知らぬ者はいない――神童だ、と。
正直なところーーシャルルは少し怖かった。
そんな神童と、将来夫婦になるらしい。
「ではーー」
フォルセティ公爵が言った。
「両家とも異存はない、ということでよろしいでしょう」
シャルルの父が満足そうに頷く。
「もちろんです。このような素晴らしいご縁をいただけたこと、光栄に存じます」
大人たちは笑顔だった。
皆、素晴らしい縁談だと信じているようだ。
シャルルも別に嫌ではなかった。
相手のことを何も知らないので、嫌いようがない。
ファイの方を見ると、目が合った。
すると、ファイが微笑んだ。
(……笑った)
「せっかくですもの。二人で庭を歩いてきてはどう?」
公爵夫人が微笑んだ。
母もすぐに賛成した。
「まあ、それがいいわ」
大人たちが微笑み合う。
当人たちの意思は、特に確認されなかった。
***
公爵邸の庭は広かった。
というよりーー広すぎた。
「……まるで、森みたいですね」
思わず言うと、少し前を歩いていたファイが振り返った。
シャルルをまじまじと見る。
「……思ったより普通だな」
「何がです?」
「……いや、なんでもないよ」
ーー意味がわからない。
二人はしばらく並んで歩いた。
春風が花壇を抜けていく。
薄桃色の花びらが一枚、シャルルの肩へ落ちた。
ファイがこちらを見た。
何か言いたそうにしているけれど、何も言わない。
大人たちの前では非の打ち所のない公爵令息だったのに、二人きりになると妙にそわそわしている。
(……?)
やがて、庭の奥にある東屋へ着いた。
白い石造りの小さな建物。
周囲には淡い紫色の花が咲いている。
ファイが足を止める。
「……ここでいいか」
「何がです?」
「君に話したいことがあるんだ」
「何のお話でしょう?」
ファイは答えなかった。
代わりに周囲を見る。
大人たちから姿が見えないことを確認したらしい。
そしてーー、ひどく真面目な顔でシャルルを見た。
「シャルル・メイアーズ譲」
「はい」
「先に言っておく」
シャルルも思わず背筋を伸ばした。
重大な話なのだろう。
婚約者として守るべき約束かーー、それとも、何かとてつもなく重要な家訓でも伝えられるのだろうか。
ファイは一度、息を吸った。
「俺は君を好きになることはない」
突然、春風が強く吹いて、花びらが舞った。
どこかで鳥が鳴いている。
(……ん?なに?)
シャルルは瞬きをした。
「……」
ファイも黙っている。
「……」
もう一度瞬きをした。
「……はい?」
「だから」
ファイが繰り返した。
「俺は君を好きにならない。君を好きになることはない」
やっぱり、合っていたようだ。
「……そうですか」
「うん」
「わかりました」
「……」
ファイが妙な顔をした。
「それだけ?」
「はい」
「怒らないのか?」
「なぜでしょう」
「いや……」
少年は困惑している。
その反応に、シャルルの方が首を傾げた。
「私たちは今日初めてお会いしたのですから、ファイ様が私を好きではないのは当然では?」
「うん……まあ」
「私も今のところ、ファイ様を好きではありませんもの」
「え……?」
明らかに傷ついた顔をされた。
理不尽である。
「ファイ様が先に仰ったのですが」
「そうだけど……」
「では、何か?」
「いや……そうなんだけど……」
ぶつぶつ言っている。
シャルルは少し考えた。
神童。王国随一の天才。
七歳で教師を論破した少年が、現在ーー十歳の伯爵令嬢相手に困惑している。
シャルルは少しだけ、この婚約に希望が持てる気がした。
「ーーそれで、なぜ突然、そんなことをおっしゃったのですか?」
シャルルは尋ねると、ファイの表情が変わった。
「……そこなんだよな」
「はい?」
ファイは額を押さえた。
「どう説明すればいいんだ……」
「そのまま説明してくださいませ」
「言っても、君は信じないと思うんだ」
「それは、聞いてみないとわかりませんわ」




