エピローグ
市場通りを抜けると、人の波が薄くなった。
連行、といっても、腕はもう離されていた。図書館までの道を、二人は並んで歩いた。夕方の風が、店じまいの匂いを低く運んでいた。
「ねえ」早鐘は、前を向いたまま言った。「さっきの話。ボルダーさんは、平気なの」
「何がっすか」
「タダノフさんの。……自分で壊した、って話」
ボルダーは、すぐには答えなかった。三歩ぶん、靴の音だけがした。
「法律の上では問題ないけど、そういう話じゃないっすよね。……俺にはタダノフさんの気持ちが分かるっす。早鐘には、大切な人を失った気持ちが分からないんすか」
「わかんないわよ。わたし、みんなより先に死んで異世界転生したんだもの。失うほうは、やったことないの。――けれど、ゴーレムにだって、感情はあるでしょ?」
「ゴーレムに感情はないんすよ、早鐘」覚えた文句を読む速さだった。「本当なら、ゴーレムが意見して止めること自体、起こり得ないことなんす。何かの、不具合だったんす。
……けどタダノフさんは、これ以上ゴーレムに止められたくなかったんす。決意が変わらないのなら、最後には結局――立ちはだかるゴーレムを、壊すしかなかったんすよ」
「それって、止められたくなかった、じゃなくて」
早鐘は、足を止めた。
「――止まっちゃうのが、怖かったんじゃないの」
「……どういうことっすか」
「少なくとも、タダノフさんは、止まってしまいそうになったんだ。――消えてしまった人たちの気持ちは、わからないし。唯一生き残ったゴーレムは、人じゃない。……どっちが正解なのか、わかるはずがないことだもの」
ボルダーは、立ち止まったまま、何も言わなかった。
決意が変わらないなら壊すしかなかった、と自分は言った。
順序が、逆だったのだ。壊さなければ、決意のほうが、変わってしまうから。
「……それでも」声は、少し低くなっていた。「感情は、ないんすよ。人の作ったパンに、感情があるわけないんす。そんなのは、当たり前なんす」
「感情がないなんて、誰が決めたのよ」
「――タダノフさんとか俺は、物の鑑定とかよくしますけど、魔力痕を読んだときに見えるのは、それを作った人なんすよ」ボルダーは、早鐘を見た。「パンを通して、作った人の感情が見える。タダノフさんには、見えてたんす。お父さんが。消えた半島の、人たちが。……だから、止められたくなかったんす。だから――」
そこで、ボルダーは一度、言葉を切った。切って、自分で拾い直した。
「――だから、やらなきゃならないんすよ」
「何が」
「デピスを蘇らせるってことは、故郷を蘇らせるってことと、同じなんす。そこに違いはないんすよ」
早鐘は、黙って聞いていた。
「あの人は半島と一緒に、いまの自分を見る目を失くしたんす。半島の人たちが生きてたら、いまのタダノフさんをどう見るか――それを見られる目は、もう、この世にひとつしか残ってないんす。だから蘇らせて、見せるべきっす。あの火がいま、何を守ってるのか。タダノフさんは復讐をやめて、その先に進もうとしてる。その先で見つけたものが、本当に半島の人たちの望んだものなのか、その答え合わせをしないといけない所に、来てるんすよ。――ボノムさんが最後に見たのは、復讐のための黒い火なんす。それきりで終わらせちゃ、だめっす」
早鐘は、しばらく足元を見ていた。
「……そこは、いいと思う」
顔を上げた。
「でもね。見せるのって、ボルダーさんが思ってるより、ずっと辛いことだと思うよ」
「え」
「タダノフさんの仕事って、本当は、きれい事ばかりじゃないと思うよ」
「……」
「蘇ったボノムさんは、それを、ぜんぶ見るんだよ。いいことも。そうじゃないのも」
ボルダーは、答えなかった。
見せるべきだ、という理屈は、まだ胸の中にあった。
ただ、その理屈の重さを、量りかねていた。
二人とも、次の言葉を持たないまま、立っていた。
頭の上で、鉄の音がした。
高架を、電車が渡っていくところだった。灯りの点いた窓が、数珠つなぎに流れていく。誰が乗っているのかは、下からは見えなかった。窓明かりだけが、等間隔に、夕方の空を横切っていった。
「明日、何か予定はありますか」
「ダンジョン」
「もうちょっとお洒落なお店に行きませんか」
「奢ってくれるのなら考える」
音が、遠ざかった。
高架の向こうに、図書館の丸屋根が見えていた。
二人は、また歩き出した。
* * *
家に着くころには、日が暮れていた。
木箱を土間に置き、棚の瓶を、全部下ろした。クローブの箱。ナツメグの包み。シナモンの包み。卓に、順に並べた。
ゴーレムが、台所から出てきた。
「ボノム」
彼女は、止まった。
いつもの、整備の姿勢だった。器を焼き直すたび、何十回と繰り返してきた、直立のままの停止。
タダノフは背の継ぎ目に指をかけ、蓋を開けた。
蓋の裏に、刻印があった。IG32。
核は、奥にあった。小さく、鈍く、光っている。
留め具を、一つずつ外した。
出所した日、彼は海へ行った。
故郷のあった海に、入った。
ファイアボールは、水の中では燃えない。
彼は、深く沈んだ。
三つ目の留め具は、固かった。年数のぶんだけ、錆びていた。工具を替え、油を差し、ゆっくり回した。
底は、暗かった。
その暗がりの中で、何かが、きらりと光った。
核だった。
――タダノフ様。どうか、ご自愛ください。
彼は核を掴み、水を蹴った。
最後の留め具が、外れた。
両手で受けて、核を抜き出した。手のひらに、ちょうど収まる大きさだった。
浜に上がって、火を焚いた。
砂と流木で、不格好な器を焼いた。最初の、パンの器だった。
核を、収めた。
それから、二人で、海を見ていた。
核を、布の上に置いた。
生地を練り、型に敷いた。
核を、据えた。
蜜を、注いだ。瓶を一本ずつ開けて、全部注いだ。十二本と、棚の分の、全部だった。
三つの包みを開け、振り入れた。三つの香りが、一つに混ざった。
生地を、閉じた。
型を窯に入れ、火を入れた。
小さな火だった。
彼は窯の前に座り、動かなかった。
火の音だけが、していた。
夜が、深くなった。
* * *
火が落ちたのは、夜明けだった。
窯が冷めるまで、さらに待った。
型を、開けた。
焼き上がっていた。
彼は器を立たせた。ほとんど人と変わらない、出で立ちだった。焼きたてのパンの、艶があった。
朝の光が、土間に入っていた。
彼女が、目を開けた。
タダノフを、見た。
核に、灯がともった。
彼女が、口を開きかけた。




