市場と業者
休暇のはずだった。
電車が迷宮都市の高架へ入ると、窓の下にモンスター用の防波堤と、その内側を埋める露店の屋根がびっしりと並んでいた。
タダノフは膝の上の鞄を抱え直した。中身は空の瓶が一つ。魔法薬の瓶だ。
家のゴーレムが、このごろ動きが鈍かった。
火にかけた鍋を取り落としかけ、危うく火事になるところだった。
生命素の蜂蜜を切らしているのかもしれない、と思って出てきた。それだけのことだった。
冒険者向けの市場は、薬と肉と魔石の匂いが層になっていた。タダノフは回復薬の棚の前で足を止め、蜂蜜の瓶を一つ手に取った。
タダノフは、魔力視の魔眼を持っていた。
瓶の内側に、魔力痕がうっすらと見える。
蜂蜜の瓶は、万華鏡のように美しかった。透明な層の奥で、無数の小片が寸分の狂いもなく噛み合い、どこから覗いても崩れない秩序を保っている。
あまりに美しかった。──『美しすぎた』。
タダノフはそれを棚に戻し、別の一本を手に取り、これも魔力痕を確認してから買った。
人気のない路地で栓を抜き、指につけて舐めた。
傷の塞がる感触が、舌の裏から確かに立ちのぼった。
効きは本物だった。
彼は瓶を鞄にしまった。蜂蜜を買いに来た鞄に、正体不明の蜂蜜の瓶が一本増えた。
卸元はすぐ知れた。署からボルダーを呼んだ。
ボルダーは走ってきた。二駅分の距離を、息ひとつ切らしていなかった。
道々、タダノフは蜂蜜の瓶をボルダーに渡した。
「読んでみろ」
ボルダーは、ブラックライトを抜いた。
武骨な彼の手に魔導警察のブラックライトは小さすぎて、柄を握らずに、指先でつまむようにして持っていた。
壊れ物を扱う手つきで瓶にかざし、浮かび上がった模様を読んで、口笛を吹いた。
「うわ、本物のネクターっすよこれ。二万……いや、もっとするやつじゃないっすか。うちの課のポーションも、こういうの支給してほしいっす」
「もっと読め」タダノフは言った。「何が見える」
ボルダーはライトの角度をくるくる変え、目を細めてじっくり観察した。
「何がって……上物の、回復系の痕っす。きれいな……」
「蜂が作っているところを想像できるか」
「……は?」
「本物のネクターは、何百という魔法蜂が毎日、代わるがわる生み出し続ける」タダノフは歩きながら言った。「生産する者ごとに癖が出る。夜は巣に戻って休み、朝になってまた継ぎ足していく。そうすると魔力痕は不揃いになって、古くなったものと新しいものの層が積もる。『年輪痕』という」
ボルダーはブラックライトをもう一度かざし、今度は長く見て、それでも見つけられずに首をかしげた。
「……おれには、ただきれいに見えるっす」
「だからそれは、きれいすぎるんだ」タダノフはライトを下げさせた。「層がない。継ぎ目もない。一人の作り手が、休まず、ひと息でこの一瓶を作り上げている。──魔法蜂の仕事じゃない」
ボルダーが顔を上げた。
「人間にも作れない」タダノフは言った。
「じゃあ、なんなんですか、これ」
「分からん、それを確かめに行く」
業者の店は、市場の裏手の、人気の引いた一角にあった。卸専門の、表に品を並べない店だ。
その戸口から、誰かが出てきて、すれ違った。
土の匂いに、油が混じっていた。タダノフの鼻の奥が、昔の癖で勝手に動いた。場違いなほど整った魔力の気配が、すれ違いざまに肩をかすめて、抜けていった。
タダノフは半歩だけ振り返った。裏通りに、もう背中はなかった。
──顔は覚えた。
彼は戸を押した。
「あれは自然の蜂のだよ。冒険者が森で拾ってきたのを、うちが買い取ってるだけでね」業者は手を振った。
「どうせそう言うだろうと思って、冒険者ギルドに問い合わせてみた」タダノフは言った。「ネクターが素材として持ち込まれるのは、月に二十数件。瓶にして、せいぜい三十本だ。あんたは先月その十倍は卸している、ちょっと多すぎるんじゃないか?」
業者の手が止まった。
「あ、あ、いや、冒険者が、持って来たものだから……俺はただ、自然のもんだと聞いて、仕入れただけで──」
その先が、続かなかった。なぜかしどろもどろになっている。
どうやら、警察に嗅ぎつかれるとは思わなかったらしい。
その後の言葉は、ひとつも用意していなかった。
「その冒険者は」タダノフは静かに言った。「この蜂蜜を森で拾ってきたんじゃないな。──蜂に、月に三百本は作れない。そして人間にも、これは作れない……正直、俺もこんな蜂蜜を見たのは初めてだ。どっちかと言うと、その冒険者の方に興味がある」
業者の喉が鳴った。
「『異世界転生者』ってのを聞いたことがあるか」タダノフは続けた。「数百年に一度あらわれる、規格外の魔法使いだ。どの流派にも属さず、こちらの積み上げた理屈なんてすっ飛ばして結果だけ出す。魔導警察の長い歴史上でも、数件の記録しか残っていない。彼らはこの世界に対して無知で、簡単に悪用されるという……お前みたいな小悪党にな」
ボルダーが一歩前に出た。笑顔のまま、声だけ低く落とした。
「逃げないほうがいいっすよ。この人、元ファイアボール道の世界大会出場者なんで。時速二百キロの豪速球。逃げたら、命の保証はしないんで」
一歩ぶん、業者の上に影が落ちた。業者は震え上がった。
業者が吐いた名前は、早鐘アイヤ、といった。
冒険者のあいだで噂のポーションマスター。
街外れの小さな(無許可の)小屋で、一人で大量に作っているという。
「ポーションマスター……かっこいい」ボルダーが小声で繰り返した。なぜか、耳が赤かった。
うわさの小屋に着くと、棚という棚に瓶が並んでいた。
床にも箱が積んである。
あの綺麗すぎる万華鏡の魔力痕が、棚のどの瓶を見ても浮かんでいた。
奥で、エプロンの娘が鍋をかき混ぜていた。
「あ、お客さんですか?」彼女は顔を上げて笑った。
「警察だ」タダノフは言った。「まず確認したい。お前、『製薬免許』は持っているか」
「めんきょ……?」




