5 スマホを持っていないので
雨月がベランダで涼んでいる。風呂上がりだから上半身裸で下はいつものズボン。
肩と背中の筋肉がすごい。着やせするタイプだったのか。母と観たクラシックバレエのダンサーもこんな感じだったな。つけた筋肉じゃなくて、ついた筋肉。
そうだ、雨月にパジャマと外出着を買ってあげよう。毎日同じ服で出勤していたら、マンダリンカフェの人に怪しまれる。
しかし雨月は室内に入るなり「本物の服は不要だ。いざというときに動きの邪魔になる」と言う。
「そうか……。雨月が服装を自由に変えられるなら、毎日変えたほうがいいと思う。それと、僕に関しては、『いざというとき』はそうそう起きないよ。毎日が穏やかな区役所職員だからね。包丁を持った人が来るなんて、十年に一度もないような珍事だよ」
「そうなのだろうが……」
そこで雨月が言葉を止めた。
「なに? 最後まで言ってよ」
「聞いて後悔するなよ」
「ちゃんと聞かないと余計に不安になるからサクッと話して」
そう言ったけど、雨月が教えてくれた内容を聞いて、僕は呆然とした。
雨月が夜のベランダから飛び降りてマンション前の通りに立っていたとき、「我は打刀の付喪神、雨月迅雷丸宗親である。区役所近くの働き口を知っている者は、今すぐ申し出よ」と言っていたらしい。
「あの、まさかと思うけど、働き口を知っている者って人間じゃないなんてこと、ある?」
「もちろん人外の者たちに伝えたのだ」
「こわっ。人外って例えば何?」
すると雨月は小声で「だから聞いて後悔するなと言ったのに」とぼやく。恐ろしいけれど聞き捨てにはできない。雨月に詰め寄り、ことの詳細を聞き出した。
「俺はこれほど多くの人間がひしめく場所は初めてだから、奴らの数を読み間違えた。この周辺には思いの外いろんな奴がいて……」
「だからそれが何かって聞いてるんだってば!」
「小者の妖と成仏できずに留まっている魂が多かった」
「ひぃー」
「少し離れた場所には、まだ若い付喪神もいたな」
雨月が嘘をつく理由はないから、それは真実なんだろう。この辺りにそんな存在が? それもたくさん?
雨月は成仏できずに留まっている魂に、市役所前のマンダリンカフェが慢性的な人手不足だと教えてもらったそうだ。
それを聞いた雨月は店長の自宅もその魂に教えてもらい、彼の夢枕に立ったという。
あの店長、成仏できない魂に自宅を知られているのか! なんというホラー!
雨月は眠っている店長さんの夢枕に立ち、「お前の店に、職を求める男が来る。黒髪を後ろで縛っているこの男だ。この男がお前の店を訪れたら雇え。この男は店に善き結果をもたらすだろう」と吹き込んだそうだ。
何それ、睡眠学習みたい。いや、サブリミナルか?
うちの付喪神がとんだご迷惑を。人の好さそうな店長さんに申し訳なく思う。
「成仏できない魂って、人に悪さをするものじゃないの?」
「ほとんどは問題ない。だが、悪意や恨みに囚われた人間が近づけば、その体に潜り込むことはある。悪意に支配されている人間は、心に隙があるからな」
「心に隙、ねえ。付喪神もいたんだね?」
「いた。だが主がおらず、置かれた場所から動けない付喪神だ。お前は気にしなくていい」
「それは何の付喪神だったの?」
「……おいおい教える。お前は付喪神使いの力を自覚したばかりだ。焦るな」
話の内容が衝撃的過ぎた。助かったのは、人ではない存在がいたとしても僕はその手の存在を感じないし見えない。今はそれが心底ありがたい。そんなのが見えたら、道を歩くのも恐ろしいもの。
「僕を同情するような目で見ているけど、僕は見えなくて幸いなんだよ」
「わかったからもう寝ろ。明日も仕事だろう?」
「うん。寝る。おやすみ、雨月」
「おやすみ、春人」
誰かにおやすみと言ってもらうのは、いつ以来だろう。料理が美味しいと褒められたのも、すごく久しぶりだ。どっちも最後は母さんと暮らしていた頃だな。
そうか……。僕は長いことこういう優しい言葉を貰っていなかったんだ。そう思ったらいっそう雨月が家族のように感じられた。
ん? 待てよ。僕が「毎日が穏やかな区役所職員だ」と言ったら、雨月は「そうなのだろうが」と言ってから小者の妖と成仏できない魂の話をした。あれはどう話がつながるんだ? 二つの話は関係ないのでは?
考えたけどわからないし、雨月は何も言わない。そのうち僕は眠ってしまった。
翌朝は少し寝坊した。だから朝ごはんはおかかおにぎりと沢庵、インスタントのお味噌汁だけ。雨月は「真っ白な米の握り飯というだけで贅沢だ」と言って、大切そうに食べていた。
出勤した職場はまだ昨日の包丁男のことで少しざわざわしていたけれど、来庁者が入ってからはいつもどおりの雰囲気になった。
午前の仕事を終えて休憩時間になった。昼も来庁者は途切れないから、僕たちは交代で昼休憩を取る。
今日こそマンダリンカフェで昼食を食べよう。そう思ってカフェの行列に僕が並んだら、雨月が来てくれた。並んでいた女性たちが雨月を見てザワッとしている。
「満席だ。長く待つぞ」
「そっか。じゃあ僕は職員食堂で食べることにする」
「今日も一緒に帰るぞ。いいな?」
「わかってる。じゃ、仕事を頑張ってね」
店内に戻っていく雨月を、行列している女性たちが目を輝かせて眺めている。カフェの制服を着た雨月はかっこいいもんねえ。
職員食堂で鯖味噌定食を食べていたら、後輩の女性職員の二人組が、僕の向かいの席に座って話しかけてきた。
「統神さん、お聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「答えられることなら」
「昨日、犯人を捕まえた人が統神さんの親戚だと聞いたんですけど、本当ですか」
「本当です」
「わ! そうなんですね。あの方、お名前は? 独身ですか?」
僕はこの手の女性が苦手だ。ギラギラしているし、「私が望む基準をクリアしていたら結婚してやってもいい」という考えが透けて見える。最初から選ぶ側に立っているのが本当に解せない。こういう人と結婚したら「結婚してやったんだから」という論理で、家庭内で支配されそうな。
僕は結婚したくないわけじゃないけど、安住の地であるべき家の中で支配されるのは、全力で避けたい。
「彼の名前は……雨月。独身だけど、誰とも付き合わないと思うよ。そういう人だから」
「ええ? そうなんですか? 本人がそうおっしゃっているんですか?」
「うん」
二人はあからさまにがっかりしていたけど、まだ諦めなかった。雨月は何時まで働いているのかを聞かれたもの。
「十八時までだけど、彼は誘っても無理だと思う」
「そうですか、わかりました。ありがとうございました」
二人は不満そうな顔でそう言うと、席を移動した。あの二人、諦めてないんだろうなあ。
そう予想したとおり、仕事を終えた二人はマンダリンカフェに入って雨月を待っていた。だから僕は店内には入らず、庁舎から少し離れた場所で雨月を待った。僕の思考が読まれることを願って、雨月に心で呼びかけた。
『職場の人がお前と話をしたいみたい。僕は庁舎の脇の道で待ってる』
返事は来ないけど、待とう。僕も雨月の考えを読めたらいいのに。
十八時を数分過ぎたところで雨月が走ってきた。今日の服装は春物のニットで中にフード付きのパーカー、こなれ感のあるジーンズで足元はスポーツシューズ。完璧に僕の好みの服装だ。
走ってきたからか、前髪が少し乱れている。それさえも絵になる。ただ、全力で走ってきたのに息は全く乱れていない。
「待ったか?」
「ううん。雨月こそ大丈夫だった?」
「あの二人なら問題ない。連絡先を聞かれたが、スマホを持っていないと答えたらすぐに引き下がった」
思わず苦笑した。雨月は本当にスマホを持っていないんだけど、ほとんどの人にとってその返事は「お前と連絡を取り合う気はない」という意味だ。それを雨月に教えてあげたらうなずいている。
「便利な言い訳だな。覚えておこう。さあ、帰るぞ。お前が作ってくれる飯が楽しみだ」
「よし、少し買い物をしてから帰ろうか」
僕たちは地下鉄に乗り、自宅近くのスーパーを目指した。歩きながら雨月に注意した。
「そういえばさっき走ってきたけど、人間が走れる速さを超えていたよ」
「そうだったか。次回は気をつけよう」
付喪神と暮らすのは、案外面白い。僕はニヤニヤしながら歩いて、雨月に「締まりのない顔になっているぞ」と注意された。
(3月30~31日)月曜~火曜




