第8戦 その2
ぼくが予想したとおり、エレベーターから降りてきたのは柔道黒帯のけいこさんと砲丸投げのみゆきさんだった。
「亜紀ちゃんのハードパンチでもあの2人を倒すのはちょっと難しいんじゃ……」
「いや、てつ、ボクササイズは相手を倒すのが目的じゃねえから」
「あ、そうか。でも……」
「うん。今の2人では、ぼくら5人を相手にすることはできないよ」
慶次君が自信に満ち溢れた表情でつぶやいた。
「ど、どういうことですか?」
修も南監督も怪訝な顔をしている。多分、けいこさんとみゆきさんの状態を正確に把握できているのは、ぼくと慶次君だけだ。
「とんこつラーメンの匂いがする」
「はあっ?」
「間違いないよ。クイズDBのあと、きよせんさんと3人でラーメンを食べに行ったはずだ」
「しかもあのおでこのてかり具合は、替え玉を3回以上はやっている。さらにほら、あそこ」
ぼくが指差した先にはみゆきさんの顔が、その唇の左端には……
「ネギがついてる。じゃあ……」
「うん。あの2人はついさっきまでラーメンを食べていた。ラーメンを食べ終わったあと、一定時間が経過すると、口の周りについたネギは乾燥してポロっと落ちるはずだ。つまり、みゆきさんがラーメンを食べてからまだ10分くらいしかたっていない。ぼくもさっき経験したけど、替え玉した直後に激しい運動をすると……」
「わかりました。じゃあすぐに亜紀ちゃんを呼んで、作戦を伝えましょう」
「それでは第2ラウンドから再開する。今度は最初からわたしが見ているからな。くれぐれも危険な行為は行わないように」
「はい。わかりました」
亜紀ちゃんはしおらしく頷いた。
「亜紀ちゃん、軽くだよ。思いきり叩いたら、とんでもないことになるからね」
第2ラウンド開始のゴングと同時に、けいこさんはどっしりと腰を落として、完全にガードを固めた。確かにあの構えのけいこさんを倒すのは、小柄な亜紀ちゃんには難しいだろう。でも……
「亜紀ちゃん、ボディーです。ボディーを狙って!」
亜紀ちゃんは両足を思いきり開いて、けいこさんと同じくらい姿勢を低くした。そこからボディーを狙って、細かく早い左ジャブを連打する。
「はい、ワンツー、ワンツー、う、うう」
けいこさんは健気にもリズムをとりながら亜紀ちゃんのパンチを受け続けていたが、お腹に振動が伝わる度に顔はゆがみ、辺りにはとんこつラーメンの匂いが漂ってきた。
「亜紀ちゃん、頑張って、今、スープはのどちんこの辺りまできてるよ」
あれ、女性にものどちんこはあるんだっけ?そんな心配をよそに、亜紀ちゃんは疲れた様子も見せず、楽しそうにミットを叩き続けている。
「ワンツー、ワンツー」
「監督、時間は?」
「あと15秒……5、4、3、2、1」
「も、もう無理っす」
3ラウンド終了のゴングが鳴ると同時に、けいこさんは転がるようにリングから降りると、下手の方によたよたと駆けていった。
「ふうん、最寄りのトイレはあっちか……亜紀ちゃん、お疲れさま。ナイスファイト」
「うん。もうちょっと時間があったら倒せたんだけどな……」
いや、これはそういう対戦じゃないんだって。よし、インストラクターはあと1人だ。
「次はおれの番だな。安心してよ。みいちゃん。おれはみいちゃんを苦しませるようなことは絶対にしないからな」
「修ちゃん。うん、わたし頑張るからね」
「え、みいちゃん?修ちゃん?いつの間に……」
「うん。クイズDBでココアを飲みながら、なんか2人で盛り上がってたよ」
「修ちゃん、最初は体をほぐしていくからね」
「O.K.」
2人は、音楽に合わせて体を動かしながら、楽しそうに会話をしている。鎧がガチャガチャと耳障りな音を立てていたが、最初の1分間は修の言葉どおり、なごやかにボクササイズが進められた。
1分間が経過し、ミット打ちを始めるためにみゆきさんが両手にミットを装着した瞬間、南監督がこっそりとゴーサインを出した。修もこっそりと頷いて
「あれ、みいちゃん、顔にネギがついてるぞ!」
「げっ、ネギ?うそ!どこどこ?」
みゆきさんは慌てて顔を拭おうとしたが、両手にミットを装着しているため、ネギのところにうまく手が届かない。
「ほんとだって、ちょっとじっとしてな。おれが取ってやるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、修ちゃん。これ、全世界に動画配信されてるのよ。修ちゃん、あれやるつもりでしょ!」
「ん、あれって?」
「ほら、恋人同士がよくやってる、顔についたネギを取って、パクッて食べるやつ」
「おお、よくわかったな。おれ、ああいうのいっぺんやってみたかったんだよ。な、いいだろ、みいちゃん」
「わたし、そんなところを動画で配信されたら……無理、恥ずかしくて死んじゃう。ごめんね、修ちゃん」
けいこさんは転がるようにリングを飛び降りて、下手の方に走り去った。もちろん修もグローブをリング上に残して後を追った。
予想通り慶次君は1人ではリングに上がることができなかったから、亜紀ちゃんが下段のロープを持ち上げ、ぼくと南監督が2人がかりで慶次君のお尻を押しあげた。
心なしか、いや間違いなく慶次君が立っている箇所はマットが沈み込んでいる。慶次君が素振りをするたびに四方に張り巡らされたロープがギシギシと音を立てる。
ちなみに慶次君の手が入るグローブがなかったから、特例措置として素手でミット打ちをすることになった。
「拳を痛めたら嫌だから、掌底でもいいかな?」
フットサルでも掌底は重要なテクニックだ。相手の力任せのシュートをコートの外に弾くときによく使う。
「パパが言ってたよ。掌底の方がボールにダイレクトに力が伝わるんだって」
「次はぼくの番だけど、誰が相手をしてくれるの?課長さんミット打ち大丈夫?」
「くっ、無茶を言うな。やむをえん。ボクササイズはこれでクリアーということにしといてやる」
ふう、よかった。今回は亜紀ちゃんと修のファインプレーでぼくら3人が助けられた。これでスポーツショップで買い物ができる。
「ねえ、課長さん1つだけ教えて欲しいんだけど?」
「ああ、なんだ?」
「近くにテントを張って寝れるような場所はないかな?」
「ここから東に50mほどいったら、左側にイベントホールがある。みんな泊まるときはそこを使っているみたいだ」
「そこってコンセントとかもあるの?」
「ああ。床に埋め込み式のコンセントがいくつかある。よく見たらすぐ見つかるよ」
時刻はもうすぐ20時になろうとしている。大半のお店は20時閉店みたいだから、早くスポーツショップに行かないと。
「おお、慶次、すげえぞ。この折り畳みベッド、耐荷重180kgだって」
「あ、ほんとだ。よかった。これだったらぼくが寝ても大丈夫だね」
予想はしていたが、大きなスポーツショップにはアウトドアコーナーが設置されている。たとえ簡易ベッドでも床に直接寝るよりは随分ましなはずだ。
「さっき修二君が10人用のテントをもらいましたけど、わたしたちと同じテントで寝るのがいやだったら、亜紀ちゃん用に小さいテントを1つ買っていきましょうか?」
「うーん、でもわたし、こんな所で1人で寝る方が怖いよ」
そうだった。ちょっと意外だが、亜紀ちゃんは幽霊なんかに対してはちょっと怖がりなところがある。
「寝るのは5人一緒のテントでいいから、着替え用に小さいテントを買って行ってもいいかな?」
「わかりました。それも必要経費ですから、みんなで割り勘ということにしましょう」
ぼくらは着替え用のテントのほかに、それぞれ折り畳みベッド、枕と毛布を買って、スポーツショップを後にした。
「監督、フットサルコーナーは明日の朝ゆっくり見ましょう」
「ええ、もう閉店時間ですから仕方ありませんね」
「監督、わたし汗かいちゃったから、もう一度シャワー浴びてきたいんだけど……」
「おお、さっきは亜紀ちゃん大活躍でしたからね。もちろんです。ええっと、修二君もシャワー浴びてきますか?」
「いや、おれはこの城を完璧に仕上げてからでいいよ。夜襲とか受けないように、トラップもしかけとかねえと」
「そうですか。では哲也君、あなたをボディーガードに任命します。亜紀ちゃんをジムまでエスコートしてあげてください」
「はい、わかりました。監督」
もちろん南監督の指示には従わないといけないんだけど、ぼくなんかで亜紀ちゃんのボディーガードが務まるのかな?ぼくは幽霊とかは信じてないから怖くないけど、対人戦闘能力は亜紀ちゃんの方がはるかに上だ。
「ちょっと、てっちゃん、そこはだめだって!」
「大丈夫だよ、亜紀ちゃん、ほらこうやって……」
「えっ、ま、待って、もう少し、ん、あ、ああっ」