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戦慄



それから二週間後、私はショウの外来の日に合わせてショウを家に招いた。


私はショウのことをもう全部知った気でいた。ショウをリビングに招いて、そっとショウを抱きしめた。


お母さんはパートで家にいなかった。


「私、ショウのことが好きだよ」


生まれて初めての告白で、初恋だった。顔が火照っているのがわかる。


照れくさいし恥ずかしかったけど、伝えなければ後悔すると思った。


第二の人生は自分の意思を大事にしようと決めていた。


「ひどいことされても?」


ショウは言った。


「うん、何されても」


私は本気でそう思っていた。そう思えるほど好きだった。


「暴力を振るわれても?」


ショウはニヤリと笑った。


その笑みに一抹の不安がよぎる。


私の顔から笑顔がサッと引いたのがわかった。


ショウは何を言っているんだろう。


「強姦されても?」


その時私の頭の奥がチカチカと光り始めた。


何かを思い出せそうな、でもそれは決して思い出してはいけない、


思い出しては自分が壊れてしまう、そう感じた。でもそれは止まらなかった。


まるで生き物が命を授かった瞬間、血流が勢いよく心臓に流れ込むように、


脈打つたびに記憶は頭の中を駆け巡った。


思い出したのは、血。真っ赤な血。兄の拳から流れる血。


自分の頬、額、陰部から、流れる、血。


いつかショウがその人の雰囲気の色を見ることができると言った日、


私がショウは赤だと答えた時に見せた、あのゾクッとする顔をしていた。


「しの」


「おい」でも「お前」でもなく、「しの」と呼ばれたその時に、私は記憶を取り戻した。


何をされたのかも、それがお母さんの言う「意地悪」なんて可愛らしい言葉では言い表せないほどに酷いことであることも。


「しの、死ねよ」「しの、殺すぞ」「しの、後ろ向け」「しの」「しの」「しの」


その声の響きが心に染み渡る。


今まで呼ばれたどんな呼び方よりもはるかにしっくり来るその呼び声が、とんでもなく恐怖だった。


「うわああああああああ」


私は耐えきれず、その感情は絶叫に変わった。


ショウを突き飛ばし、私はふらふらと後ずさり、耳を塞いでしゃがみこんだ。


何かに激しく裏切られた気がした。もう思い出す前の時間には戻れない。


もう、二度と、ショウを愛せない。喜翔は愛せない。人生最大の愛だと思った。


もうこれ以上人を好きになることなどないと思っていた。


しかしその相手は私に暴力を振るい、強姦し、私を、私の人生を、めちゃくちゃにした張本人だった。


「東雲ちゃんがこの病院の三階から庭に飛び降りて自殺未遂を図った上に記憶をなくしているのはお兄さんが関係しているのかも知れないね」


という主治医の言葉が頭の中で反芻される。


そうだ、すべての元凶は喜翔にある。ショウにある。


ショウは、喜翔は、すべてを知っていて私に近づいたんだ。


私のことを庭で見つけたあの時、喜翔は何を思って私に近づいたんだろう。


私は肩で息をして喜翔を睨みつけた。喜翔は笑っていた。


「しのの主治医の言う通り、俺のことは思い出さない方が良かったんじゃねえの」


「それでも、私はーー」


何も知らなかった時よりも不思議と心が楽だった。


どうせいずれ知ることになる事実だったから、それが早まっただけのこと。


自分が持つ大きな心の傷を知れたから。何も知らないよりは良い。でも私は傷ついた。


今ならまた病院の三階から飛び降りそうな気持ちだった。


三年前のあの日、私はきっとこんなにも傷ついていたんだ。


「喜翔を、許さない」


「許さないって、どうすんだよ。俺はお前の大好きなショウくんだぞ」


「復讐してやるから。私はもう十二歳の無力な小娘じゃない。きっとなんだってできる」


「もう一回死ぬことになるかも知れないぞ」


「いいわよ別に。だって私もう既に一度死んでるもの。


もう何も怖くない。もう一回死んだっていい。


でももう一回死んだとして私はもうあなたのことを忘れない。


親のことも親友のことも忘れたとて、あなたのことだけは忘れない。


永遠に恨みながら生きていくわ」


数分前まで好きな人だったその人は実は自分の兄で、私に酷いことをした人で、


私に自殺未遂をさせた人だった。受け入れがたいその事実が、強い痛みとなって心を襲う。


「何やってんだ」


唐突に後ろから聞こえたのは低い声。


「親父」


喜翔が振り向いて言う。リビングのドアが開いていて、そこにお父さんが立っていた。


私は「お父さん!」と叫んで縋るように駆け寄った。


「帰ってたんだ」


「ああ、さっき日本に着いたんだ」


「どうしてここに?」


「自分の家に帰るのに理由が必要か?」


「俺たちを捨てたくせに父親面かよ」


喜翔は吐き捨てるように言った。


いつかにお父さんが海外で働いていてなかなか帰って来ないから寂しいという話を喜翔から聞いていた。


「捨てたってどういうこと?」


「他に女作ったんだよ」


「喜翔。口が悪いぞ」


「事実だろ」


喜翔は私に向き合って言った。


「しのは記憶が無いんだから全部俺が教えてあげないと」


「喜翔……?」


どさっと物が落ちる音がして玄関の方に目を向けると、お母さんがスーパーから帰ってきていた。


「喜翔、どうしてあなたがここにいるの。お父さんが呼んだの?」


「しのに呼ばれたんだよ」


「しのが……?どうして?」


「この人がお兄ちゃんだって知らなかったの」


「で、俺は妹をちょっといじめただけでこの家出禁になったのに、


なんで浮気したこのクソ親父は普通にこの家に帰ってるんだよ。おかしいだろ」


「俺はお母さんにちゃんと謝ったし許しも得た。でもお前はだめだ」


「じゃあ俺はしのに許しを得たらこの家に帰ってきても良いのかよ」


「喜翔、私はあなたを絶対に許さない」


「一体、何がどうなっているの……」


お母さんは困惑していた。私も困惑していた。今日は心が疲れた。


心労のあまり寝込んでしまいそうだった。いろんなことを一気に知ってしまった。


「取り敢えず喜翔はお袋のところに帰れ」


お父さんは鬱陶しそうに喜翔に言った。


「はいはい。邪魔者はいなくなりますよ。俺がしのと同じことになっても後悔すんなよ」


喜翔は捨て台詞を吐いて玄関に向かった。ドアが開く音がして、心なしか乱暴に閉まる音がした。


何事もなかったかのようにお母さんは微笑む。


「お父さん、お帰りなさい。今日はすき焼きにしましょう」


「ああ」


お父さんは一言そう答えて私に向き合った。


「しの、目が覚めて本当に良かった。もう飛び降りたりするなよ」


お父さんは私の頭を撫でて三階にある自室へ向かった。


「お母さん、私手伝う」


「ありがとう、しの。あなたとまたこうして一緒にキッチンに立てるのが幸せでたまらないわ」


お母さんは私をぎゅうっと抱きしめてから玄関に置きっぱなしになっている買ったばかりの食材をキッチンに運んだ。


私は喜翔が去っていった玄関の向こうを覗いたけど、もう誰もいなかった。


自分の脅威がいなくなったことで安心したけど、実の親に邪魔者扱いされた一人の人間のことを考えた。


私は家庭に歓迎され、お父さんに頭を撫でてもらったしお母さんに抱きしめてもらえたけど、


喜翔はおばあちゃんの家で暮らすことをお父さんに強いられてお母さんに抱きしめてももらえない。


それが少し可哀想で、でも自業自得だと思う自分もいた。


ざまあみろとも思った。そう思われても仕方ないことを喜翔は私にした。


「しの」


「はーい」


私はお母さんに呼ばれてキッチンに向かった。


家族三人で食べるすき焼きは病院食のオムライスよりもハンバーグよりも美味しかった。


でもなぜだか頭の中から喜翔のことが離れなくて、久しぶりの家族団欒なのに何を話したのか、


どんな会話を両親としたのか覚えていない。なんでもない他愛ない話だと思うけど。






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