兄の存在
私の入院期間は三年と三ヶ月。
退院する頃にはすっかり元気になって車椅子なしでも誰の手も煩わせず普通に歩けるようになっていた。
「東雲ちゃん、今日は退院の日だね」
「先生、お世話になりました」
「うん、うん。元気になって良かった。
想定よりも早めの退院だけど、何か不安なことはないかい」
「大丈夫。まだ外来でお世話になるのよね。通院頑張ります」
先生はにっこり笑って「そうだね、一緒に頑張ろうね」と言った。
荷物をまとめていると、「しの」と声をかけられた。
振り向くとお母さんが立っていて、「迎えに来たわよ」と笑顔で言った。
お母さんのことは少しずつだけど徐々に思い出していた。
お母さんがお見舞いにきてくれる時に、思い出した記憶の話をするとお母さんは泣いていた。
良かった、良かったと繰り返しそう言って私の頭を撫でた。
それまではちょっと態度が冷たかったけど、それは記憶のない私とどう向き合えばいいのか分からなかったからだと思う。
私も記憶のない自分と向き合うのは難しかった。
今でも全ての記憶が戻った訳じゃないけど、主治医の言う通りゆっくり自分と見つめ合えばいいんだと思う。
家に帰って、自分の家をまじまじと見た。
庭にある立派な桜の木、リビングにある四人掛けのダイニングテーブル、
自分の部屋にある学習机とベッド、集めていた色あせたファッション雑誌とそのおまけ、
何もいないウサギ小屋。何か思い出せそうな気がした。
「しの、降りて来なさい」
二階の自分の部屋にいると、お母さんが声をかけてきた。
リビングに降りると、オレンジジュースが注がれていて、近くには何冊ものアルバムが置いてあった。
「これ、しのが生まれてから小学生になるまでのアルバム。何か思い出せるかしら」
私はお母さんと一緒にアルバムを開いた。
そこには生まれたての私、小さいお兄ちゃんらしき人と遊んでいる私、泣いている私、笑ってる私、怒っている私、眠っている私、
幼稚園の入園式と卒園式の写真、小学校の入学式の写真、ニアと写っている写真ーーたくさんの写真がアルバムに貼ってあった。
そこで私は異変に気付く。
「お兄ちゃんの写真が途中からないよ?」
いくつかの家族写真には兄が写っていない。
お母さんはなんとも言えぬ、悲しそうな目をしていた。
「しののお兄ちゃんはね、今は違う家で暮らしてるの」
「違う家?」
「そうよ。おばあちゃんの家よ」
「それはどこなの?」
「ここから電車で一時間くらいかしらね」
「一時間……」
「行くつもりなの?やめておきなさい。しのはお兄ちゃんに会うべきじゃないわ」
「でも私、家族のこと全部思い出したいの」
「お兄ちゃんのことだけは思い出さない方がいいわ。お兄ちゃんは死んだの。そう思ってちょうだい」
その言葉で、お兄ちゃんは生きているんだと確信する。
それ以上話すことはないと言わんばかりにお母さんは席を立ってしまった。
お兄ちゃんは今どこで何をしているんだろう。
どうしてお母さんはお兄ちゃんのことを思い出さないように言うのだろう。
疑問ばかりが頭に浮かんだ。
「おい、どうしたんだよ」
ハッとして顔を上げる。心配そうな顔のショウが目の前にいた。
「ご、ごめん」
顔の近さにドキドキしながらそう言った。場所は病院内のカフェ。
私の外来の日に合わせてショウを呼んで二人でお茶をしていた。
「なんかあったのか」
「うん……ちょっとね」
「話してみろよ」
ガヤガヤとした店内の喧騒にショウの声がよく通る。
「お兄ちゃんのことなんだけど」
私は真面目な顔で話した。
「お母さんがね、お兄ちゃんの存在を隠すの」
それから私はお母さんが言っていた、お兄ちゃんがおばあちゃんの家で暮らしていることとその家が私の家から電車で一時間くらいかかることをショウに言った。
ショウは終始真面目な顔で聞いてくれていた。たまに打つ相槌が話していて心地よかった。
「お前はそのお兄ちゃんに会いたいのか?」
「そりゃ会いたいよ、会ってみたい。だって家族だもん」
「そうか、でもお母さんがそいつのこと隠すのには理由があるんじゃないかって俺は思うんだ。
会うことが悪いとは言わないけど、その隠す理由を知るのが先なんじゃないか」
「なるほど」
ショウは私にはない意見を言ってくれた。確かにお母さんが隠す理由を知りたいと思った。
だから私は家に帰ってお母さんに訊いた。
「どうしてお兄ちゃんはこの家にいないの?」
お母さんはまた悲しげな顔をした。
「あなたを守るためよ」
「守るって、何から?」
「お兄ちゃんの、あなたに対する意地悪から」
お母さんは言った。
「しの。いい?
意地悪する人とも仲良くできるだとか、人はみんな話せば分かり合えるとか、そんなのは絵空事なの。
嫌なことをしてくる人とは離れたほうが良いし、言葉でいくら説明しても分かり合えない人もこの世界にはたくさんいるのよ。
そういう良くないものからは離れるに限るの。例えそれが家族だとしても」
お母さんの言っていることはわかるようでわからなかった。
「お兄ちゃんの名前は?」
「喜翔。堅田喜翔よ」
喜翔。
私は名前を聞いてもどんな意地悪をされたのか、親がわざと私たちを引き裂くようなことをしたその原因を全く思い出せずにいるのに、なぜだか懐かしいような気持ちになった。
私は不意にショウのことを思い出した。私はお母さんに病院で出会ったその素敵な男の子の話をした。
「そんな子がいるのね。しのはその子にお世話になっていて、その子が好きなのね」
「そうなの。とても大事な人なの。金髪がよく似合う男の子で、聞き上手なの」
「そう。今度うちに呼んでらっしゃいな。私も会ってみたいわ」
「わかった」
私は自分の家にショウを招く時のことを想像をしてふふっと笑った。




