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彼女は牡丹 君は椿①  作者: 汪海妹
7/12

神様からもらった使命














神様からもらった使命












このは














サイン会が一週間後に迫ったころ、サイン会の日に先生の後ろに組み立てるパネルが届いた。先生が今までに書いた作品の名場面の文章がさまざまな大きさのフォント、色であちこちに散らばっているパネルで、基調は濃紺。宇宙の中に文字がさまざまな高さや角度で散らばっているイメージ、だそうだ。このデザインや手配は全部出版のほうでされていて、書店は受け取り保管、設置が役割。念のため、組み立て前のパネルをひとつひとつチェックしていて、わたしが見つけた。


「ここの登場人物の名前、漢字が間違ってます」

「え?」


一緒にチェックしていた店長と一之瀬さんが振り向く。


「でも、この本では、そのパネルと同じ漢字だけど」


店長が文庫本ぱらぱらとめくって、ページを指さす。


「あ、でも、その作品」


一之瀬さんは言いかけて、ふと黙る。


「店長、人には全部読めっていっといて、まさか自分が読んでないんじゃないでしょうね」

「え?どういうこと?」


わたしが後を引き継ぐ。


「その作品は同名で漢字が違う2人の女性が出てくるんですよ」

「え?そうなの?」


もう、と言って一之瀬さんとわたしは顔を見合わせて笑う。


「ごめん。みんなには言わないで」

「でも、それは覚えていたけど、このセリフがどっちの女性が言ったかなんて覚えてないわ。野中さんじゃなきゃ気づかなかったわね」


店長はパネルを正面からじっと見る。


「こんなちっちゃな字、誰も気づかないんじゃない?ファンだってパネルじゃなくて先生見にくんだし」

「でも……」


わたしは口を挟む。


「原作者ってたぶん一字一句覚えていますよ」


2人がこっちを見る。


「万が一見つかったら、うちに対する信頼にひびが入りませんか?作品は原作者にとって子供みたいに大切なものだって聞きますし」


店長が頭をかかえる。


「でも、今からの時間でこのパネルやり直しって間に合うかなぁ」

「いや、パネル一枚やり直す必要ないですよ」


わたしは即座に言った。


「この漢字一部分だけ、シールみたいなもの印刷して、郵送してもらえばいいんですよ。速達で」


***


サイン会の前日、夜、火野蒼生は担当の編集者と一緒に仙台に到着した。新幹線の降り口までわたしが迎えに行った。澤田様と書いた紙持って立つ。2人とも大体同年代だったので、一瞬どっちがどっちかわからなかったけど、よく考えたら編集さんは会社員だからスーツ着たほうだとわかる。


「よろしくお願いします」


ぺこりと頭下げる。


「えーと」

「野中です」

「よろしくね、野中さん」


澤田さんは普通の社会人だった。憧れの火野先生は……


「先生、書店の方迎えに来てくれましたよ」


黒いジーンズに、グレイのTシャツ着て、黒のキャップ被って、スニーカー。まるでフリーターみたいに見える。


「どうして……」


黒いかばんを肩にかけたまま、じっとわたしの持った紙を見る。


「お前の名前なんだ」

「そこ?そこ、気にする?」


2人友達みたい。編集さんって作家さんにこんな態度取るの?


「あの……」


わたしは恐る恐る声をかける。


「熱心なファンで待ち伏せするような人がいて」

「はい」

「騒ぎになったらと思って、わざと澤田さんのお名前にしたんです」


澤田さんは先生を見る。


「ちゃんと配慮した結果じゃん。ほんと、これだから会社とかで働いたことない人は」

「ふん」


火野先生の作品とのギャップにもびっくりだけど、この編集さんと先生のやり取りもちょっとびっくり。


「あの……」

「あ、すみません。とりあえず、一旦お店入らしてもらって、それから、ホテルに移動したいんですけど」

「ご案内します」


うちの店は駅に隣接している駅ビルの中にあるので、歩いて移動する。


「先生、あのお荷物お持ちしましょうか?」

「……」

「野中さん、あの、女の子に荷物持たせて歩くのは、ちょっと。僕たち老人とかじゃないし……」


気の使い方間違えたか。


***


「澤田です。火野先生の担当しています。よろしくお願いします。先生、一言挨拶お願いします」

「よろしくお願いします」

「それだけですか?」

「一言っていったじゃない、君」


澤田さんは先生をじっと見る。先生は何も言わない。先生が到着したので、出迎えに集められた一同は黙って2人を見ている。


「それでは、みなさん、よろしくお願いします」


澤田さんが頭を下げる。よろしくお願いしまーす。みなが頭を下げる。


「じゃ、明日の段取りなんですけど」


一部の人間が残って打ち合わせを始める。


「ふわぁ~」


先生があくびをする。澤田さんはそれを見ると、


「あの、すみません。あなた、野中さんでしたっけ?」


わたしを部屋のすみっこに連れてった。


「先に先生と2人でホテルチェックインした後、食事に連れてってあげてもらえませんか?」

「え?」

「打ち合わせは僕がいれば大丈夫なので」

「はぁ……」

「今回はね、嫌がるのを牛タンで釣ったんですよ。でも、僕の東京での仕事がおしちゃって、到着遅れちゃったんで、先生すっごい機嫌が悪いんです。もちろん、うちで出しますから」


とりあえずとお金を渡される。


「あの、わたしなんかと一緒で先生気を悪くされませんか?」


澤田さんはじっとわたしを見た。


「あなたは大丈夫だと思う。火野先生はちょっと難しい人ですけど」


澤田さんはそういうと、先生、野中さんが先に食事に連れて行ってくれるそうですと言ってしまった。


「行きたいお店とか決まっていますか?」


先生が言った店は地元の人気店だった。観光客なら知らない店だろう。


「あいつを……」


車に乗せて走り出すと、急に話し出した。


「連れてこうと思ったから、牛タンだったのにな。僕は何度も食ったから別にいいんだ」


後ろに乗った先生の顔をミラー越しに見た。


「澤田さんですか?」

「そうだ」


ちょっと変わってるけど、やっぱり、優しいんだこの人。作品の印象と重なった。


「お優しいんですね」

「世話になってるから、あいつには」


そう言って窓の外を見る。


「あいつがいなかったら、きっと、僕の本なんて世の中に出ることはなかったよ」


火野蒼生がそばにいて、僕の本なんてって言った。驚いた。


「でも遅かれ早かれ、先生の本は澤田さんでなくとも出版して本にしようとする人がいたと思いますけど」

「いたのかもしれない。でも、きっと僕の望む形で出たかどうかは別だ」

「信頼されてるんですね」

「ふん」


そこは認めないんだ。お店に着いて、駐車場に車を停める。


「わたしなんかがお相手ですみません」


テーブル席に向かい合って座ったときに、謝った。先生は店に入ったらずっとかぶっていたキャップをはずした。服装のせいか年齢より若く見える気がする。


「わたしなんかって言い方」

「はい」

「本当にそう思っている時以外は、使うのよしなさい。癖になるよ」


なんかやっぱり、小説を書くような人って変わってる、そう思った。


「はい。わかりました」


メニューを渡して、何を頼むか聞いて、お店に注文をした。品が出てくるまで、話すことがなくなった。


「君は……」

「はい」

「こう、相手をもてなすためにおしゃべりしようとかはしないの?」


お茶を飲みながらじっと見られる。


「あの、先生……」

「はい」

「わたし、結構人見知りなので、初対面のそれも男性の方とはぺらぺら話せません」


ぷっと先生がふきだした。


「じゃあ、こんな役、他の人に頼めばよかったのに」

「でも、澤田さんに一方的に頼まれてしまって、それに、他の人はみんな打ち合わせに必要で、わたしは一番下っ端なので」

「うん」

「あの場にいなくても平気なんです」

「なるほど」


先生はまたわたしをじっと観察する。人をじろじろ見るのが好きなのかな?


「君、野中さんだっけ?何歳?」

「23歳です」

「若いな。大学出たばかり?」

「二年目です。社会人」


食事が来たので、会話を中断して、もくもくと食べる。


「久しぶりに食べてもおいしいな、やっぱり」


先生がぽつりとつぶやく。


「あまり仙台には帰られないんですか?」

「僕は出身は仙台で、ずっと高校までこっちだけど、今家族は仙台を離れてしまって誰も住んでないんだよ。だから、用事がなくてね。ここに」

「そうなんですか」


わたしは定食のスープをのむ。しおからい。


「君はずっと仙台なの?」

「はい」


お茶を飲んだ。もう、なくなりそう。


「先生、お茶のおかわりもらいますか?」

「ビールが飲みたい」

「瓶ビールですか?」


頷くのを見て、追加オーダーする。グラスが二つきたので、1つ戻そうとしたら止められた。


「1人で飲んでもつまらないから、つきあいなさい」

「先生、でもわたし車……」


とぽとぽとぽ。有無を言わさない。代行を頼むしかない。先生ホテルまで送っていかなきゃいけないし。

乾杯とかしない。1人で飲みだす。しょうがなくわたしも口をつけた。


「何か話しなさいよ」

「何をですか?」

「僕の本の感想とか」


えっと……


「ご本人の前で、わたしごときが感想なんておいそれと口にできません」

「今度はごときを使うのか……」


火野蒼生がわたしをじっと見ている。


「君ってけっこう頑固な人ですね」


がんこ?


「頑固なんて言われたことないですが」

「うん。でも、頑固だと思う」

「どこがですか?」

「さっきから」

「はい」

「何度も何か話せと言ったけど、あーだこーだと断ってくる」


怒らせちゃったかな?でも、そんなに怒ってるようには見えないんだけど。


「お気を悪くされましたか?」

「いや」


とぽとぽとぽ、自分で自分に注いでいる。


「周りに流されないやり方を持っている人のほうが、僕は好きだから」


また、驚いた。小説家って変わってる。出会ったばかりの人間に好きなんて言葉を使う。


***


次の日のサイン会、仙台市近郊からだけじゃなく、わざわざ東京から来てる人とかもいて、驚いた。若い人が多い。


「サイン会、あんまりしないんです。火野先生」

「そうなんですか?」


澤田さんと話す。すみっこの方で、様子を見ながら。


「でも、先生の読者って若い子が多くって、そういう子は会いたいんですよ。本人に」


わくわくしながら列に並んでいる人たちの顔を見る。


「僕のサイン会なんて誰も来ないに決まってるってあんまり言うもんで」

「そうなんですか?」

「うん。あの人は、真剣に書いてそれを世に出してるけど、それを読んだ人たちに与えた影響についてはまだ懐疑的でね」


澤田さんはじっと先生を見つめていた。お互いふざけて会話している時とは別のまじめな顔だった。


「でも、僕はもっと先に行ってほしいんです。彼には」

「先ですか?」

「僕はもう一段上の火野蒼生が見たい。サイン会なんてするのも、自分が書いたことによる結果を実感してもらいたいからなんです。彼の作品は生きた人間のところに届いているってことをね」


そして、澤田さんはにっこり笑った。


「そういえば、昨日他の方に聞きましたけど、このお店では野中さんが先生の一番のファンだって」

「あ、いや、それは……」

「なんかパネルの一部にあった間違い、普通の人だったら気が付かないようなやつ見つけてくださったって」

「たいしたことじゃないです」

「でも、ファンなのに昨日は本人に会ってもそんな嬉しそうに見えなかったですね」


サインもらっている人は、ときどき写真を撮ってもらっている人もいる。感涙している人もいる。なんか、すごい。昨日はジーンズはいていた先生も、今日はスーツ着ていた。もっともそこまでかっちりしたものではなかったけれど、タイもしていなかったし。


「いや、内心はすごい嬉しかったです」


握手して、何か言われて、それに何か返している。1人1人時間はかかっているけど、嫌な顔はしていない。


「先生にちゃんとファンだって伝えました?」

「あ、えーと、それは」

「なんだ、喜ぶのに、言ってないんだ」

「わたしなんかが1人ファンだって知って喜ばれるものですか?」


澤田さんは笑った。


「火野先生はまだ大先生じゃないですからね。読んでくれたってことには素直に喜びますよ」


***


夜、食事会があった。みなさん先に出られて、わたしが1人遅番で残る。8時閉店。表を閉めて中を片づけていると、シャッター越しに外に誰かがいるのが見えた。


「先生、お食事されていたはずじゃ……」

「抜けてきた」

「え?なんで?」


先生は答えずにわたしがもう一度開けたシャッターの隙間から、店に入ってきた。そして今日イベントで使ったパネルの前に立つ。ひとつひとつ確かめて、そして見つけた。


「ここか……」


わたしが見つけた誤字。上に貼り付けられた修正のシール。先生はそこに指で少し触れた。


「あの、どうされました?」


もしかして、すごい怒っているのかな?


「こんなのよく見つけたね」


口調は怒ってはいなかった。たんたんとしていた。


「好きだったんです。あのエピソード」


先生がわたしのほうを見る。


「主人公の女の子の名前の漢字を間違えた人がいて、本人が指摘しようとしている時に、同僚の男の人がこの漢字じゃないよって先に教えちゃう。主人公はそれをきっかけにその人を意識するようになる」

「うん」

「女の人って自分に関心を持たれると弱いですよね」

「それは男女共通でしょ」

「でも、その後のおちも好きで、ほんとうは……」

「本当は元カノと漢字違いの名前だったから覚えていた」

「だから小説中には二つの漢字のえつこさんが出てくるんですよね」


二人で軽く笑った。先生が笑う顔をはじめて見た。


「先生の実際のご体験なんですか?」

「いや、知り合いのね。といってもそれをもっと話をもっておもしろくしましたけど」


駅ビルは、もうフロアの照明は一部を残して落とされていて薄暗い。わたしみたいに後片付けしている数人の他は誰もいなくて静かだ。先生はわたしをつくづくと見た。


「どうして君は僕の本読んでるって言わなかったの?」

「えっと……」

「僕はもともと好むと好まざるとにかかわらず、人を観察する性質で、普通読者というものは、それを書いた作者には関心を持っているものだと思っていたけど……」

「はい」

「君は違うんですね」

「えっと……」

「変な人だ」


あなたには言われたくないな。急にポケットで携帯がなった。


「あ、野中さん、ねえちょっと大変なの。あなたクローズ終わった?」


一之瀬さんだった。


「えっと、もうちょっとですけど」

「火野先生がいなくなっちゃったのよ。電話もつながらないし」

「……」

「とりあえず閉め終わったら、ここらへん探すの手伝ってくれない?」

「あの、その必要はないです」

「え?」


がやがやした向こうの喧騒が聞こえる。


「先生ここにいます。隣に」

「ええ?」


一之瀬さんが電話の向こうで誰かと話していて、どたばたして、


「野中さん?」


澤田さんが出た。


「先生に代わってください」


わたしは電話を渡した。澤田さんの声がなんかいろいろ言ってるのが、離れても聞こえる。それに先生はうんとかああとか答えていた。


「僕はもうそこ戻らないからさ」


ええ?って声が聞こえる。


「ちょっと行きたいとこできた。それと、この人運転手代わりに借りるって店の人に言っといて」


ぷつ、一方的に切った。もう一度着信があったが、先生にほっとけと言われて出られなかった。


***


「なんか思い出の場所なんですか?」


先生が行きたい所は青葉山公園だった。


「ちょっとね」


車を停めておりる。


「ビールとつまみ買ってこう」


ついでにわたしのごはんも買った。先生のせいで食べはぐれてしまった。


「どこまで行くんですか?」

「政宗さんのところまで」


ああ、先生伊達政宗が好きなの?とりあえず、目的のものを見た後に適当な所に場所を見つけて座った。やっとごはんを食べれる。っていっても、おにぎりだけど。


「もしかしてめし食ってなかったの?」

「……」


プシュ、缶ビール開けて、ごくりと飲んだ、後に、


「ごめん。気づかなくて」

「いや、大丈夫です。別に……」


そのまま先生はビール飲んで、わたしはおにぎりを食べる。変な二人だ。


「何年ぶりなんですか?仙台」


先生は指を折りながら数えた。


「親が退職と共に引っ越しちゃってから、帰ってないからな。10年ぶりくらいだな」


風が吹いた。2人の髪を揺らした。昼はまだ暑かったけど、夜はもう涼しくなり始めている。


「だんだん涼しくなって秋が来ますね」


時間が経っていく。


「10年前っていったら、先生がわたしぐらいの年の頃ですか?」

「もうちょっと上かな?」

「その頃好きな人とかいました?つきあっている人とか」

「何を唐突にそんなこときくわけ?」

「教えてくださいよ。人生の先輩として。大好きな人と別れても10年経てば忘れられるものですか?」

「……」

「ああ、それとも、今の奥様がその時つきあった人だったりして」


火野蒼生はデビュー直後に結婚していたはず。


「痛みに耐えられるようにはなれると思うよ。忘れる必要はないと思うけど」

「そうですか」


わたしは前を見た。眼下に仙台の街並みが見える。


「何、失恋したばかりなわけ?君は」

「好きは好きなんですけど、結婚というと何か違う気がして」

「ふうん。具体的に言うと何が違うの?」


よく知らない人、これから会わない人に対してのほうが時に人は素直になれる。


「2人とも社会人になったときに、彼も長年の夢をかなえて教師になったんです。それで大変そうだけど輝いていて、でも、わたしも、わたしなりに働くようになって、がんばってきたし、わたしなりの成長とかやりがいがあるんです。だけど彼は自分はしっかり働いている、そこに意識が集中していて、わたしの仕事の話は全く聞いてくれないし、腰かけみたいに決めつけていて」


先生は静かに聞いていた。


「何かすれ違っちゃいました。思い切り」


ため息が出た。


「でも別れてみるとすごいつらくて、だからよりを戻したい自分もいるんです。どっちが正しいのかわからなくなっちゃって……」

「岐路に立たされたわけだ」

「はい」

「僕はさ、人はみんなそれぞれ神様から与えられた使命をもって生まれてきていると信じているんです」


風がまた吹いて、髪を揺らした。


「歴史的な人物になればそれはとてつもなく大きな物になるんだろうけど、そうじゃなくてもっと普通のレベルの人にだって、こう石ころみたいなものが自分の中にあって」

「石ころですか?」


先生は笑った。


「そう石ころ。宝石の人もいるのかな?人によっては岩みたいな人もいるだろうし。でも、僕のは石ころ。僕の作品は神様が僕にくれた石ころを外に出しているようなものだと思ってる。数に限りがあって、だからそのうち全部出してしまったら、僕は書き終わる。自分の作品の二番煎じはしたくないから、その時は僕は筆をおくつもりです。人によってはそれを才能の枯渇と呼ぶけど、僕は任務終了だと思ってる。君もきっと今、そういう自分の中の石を外に出そうとしてもがいているんじゃないかな?この世には自分の中にある使命に気づくことができる人とできない人がいると思う。使命というとかっこいいけれど、もっとありふれていてさりげないものなんです。生きる意味ともいうのかな?自分と見つめ合って自分の生きている本当の意味を知って生きるのは、ときにすごいつらいものだけど、逃げた人には逃げたなりの幸せが、逃げなかった人には逃げなかった人なりの幸せが訪れるのだと思う」

「わたしなんかにも生きる意味なんてあるんでしょうか?」


先生は笑った。


「きっと地球上の大部分の人は自分で自分のことを〝わたしなんか″と思って生きている」


先生は前を向いてビールを飲んだ。


「僕も20代はもっと迷っていたし、みんなきっとそう。でも自分なりにがんばって踏みとどまれば、踏みとどまろうとする人にはきっと、ちょっと違う30代が来ると思いますよ。人生はそういうところから少しずつ最終的に流れ着く先が違ってくるものなんです」


感銘を受けた。先生が本の中に書き込もうとしているような思想を、直接わたしだけのために語らせて耳で聞いてしまった。


「泣いてるんですか?」


ぎょっとしている。


「先生が本当にあの本を書いた火野先生だって実感しました」


何に対して涙が出るのかわからなかったけど、泣くのは気持ちよかった。


「ええっと……」


わたしは自分のかばんからはんかちを出して涙を拭いた。


「わたしやっぱり本を書く人ってすごいと思います。こんなに人の心を代弁できて、方向性を示すというか道を照らしてくれる」

「そんなたいしたことは言ってないですよ」

「いいえ、やっぱり先生は先生です。すごいです。他の人にはできないことをされてます」


先生はぼんやりとわたしを見た。


「野中さんにもやっぱりきっと……」

「はい」

「あなたにしかできないことが、あなたの生きる意味があると思いますよ」


次の日、午前中のうちに火野先生は澤田さんと東京へ帰っていった。思いがけずに作家先生とたくさん話すことができて、わたしは嬉しかった。少し何かが変わろうとしていて、前を向けた気がする。


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