ハーメルンの笛吹
ハーメルンの笛吹
清一
「中條君、お客さん来てるわよ」
夕方近く、会社でその日の日報をまとめていると、年上の女子社員から声をかけられた。応接間へ行ってみると、
「あ、君は……」
「すみません。突然」
なつが仲良くしているこのはちゃんの彼氏……だった人だ。
「ええと、勝也君?失礼、上の名前を知らないかも」
「内田です。内田勝也」
「どうも。中條です。中條清一」
なんとなくこちらもフルネームを言ってみる。
「どうしたの?今日は」
「すみません。こんなこと頼むのもなんなんですが」
「はい」
「中條さんなら、その、奥さん経由で彼女の様子が聞けるかと思って」
そういって彼は両手で顔をおおって、うなだれた。観葉植物が置かれた小さなスペース。廊下との境は曇りガラスで、夏の夕方はまだ明るくて、でも彼はひどく寒そうに見えた。
「今、いちばんつらい時期…だよね」
「まだ、正直信じられなくって……」
「一か月くらい?」
彼はうなずいた。
「どのぐらいつきあってたの?」
彼はおおってた手をはずした。憔悴している。
「高2から、7~8年くらいです」
僕たちより長い。僕は彼女が大学1年の時からだから。
「本人に連絡とったりはしてないの?」
彼は首をふった。
「しつこい男だって思われたくないから、彼女、待っててものぞみないってはっきり言ってたし」
彼はため息をついた。体中の息が抜けてしまうのではと思うくらい、いっぱい。
「でも、もしかしたら考えが変わってないかと思って」
「うちの奥さんはちょこちょこ話聞いてるみたい。すまないけど、俺は君たちが別れちゃったみたいってことしか聞いてなくて」
「……」
「それとなく聞いてみるよ。彼女の様子」
「すみません」
大丈夫?と聞こうとしてやめた。ばかげた質問だと思う。
「何が原因だったの?」
彼はこっちを見た。
「ええっと、聞かないほうがいいのかな?」
「ちょっと、他の女の子と遊んじゃって」
「それで、ばれちゃったんだ」
「彼女には何もないって言ったんですけど」
「遊びだったの?」
彼はうなずいた。
「ちょっと調子にのってました。社会人になって望んでいた通りの仕事につけて、大変だけど充実していて、仕事も好きな人も手に入れたって思いあがってたんです」
「うん」
「もし許してもらえるなら、もう一回やり直したいんです」
何日間も水をもらっていない植物みたい。こっちまでめいる。ほんとに。
「あのさ」
「はい」
「彼女の様子はきいてあげるけど、一回会ってちゃんと話したら?向こうがOKしたらだけど」
じっと目をつむる。考えている。
「そんなに長くいっしょにいて、納得できないままだと、きっとずっと苦しいよ」
しばらくして彼は言った。
「考えてみます」
このは
高1の三学期、わたしたちは初めて隣同士になった。野球部の内田君。あの頃彼は坊主頭だった。
「英語のノート、貸してくれない?」
わたしが貸すと、中を開いて彼は感嘆した。
「うわー、野中さんって字きれいなんだね」
そしてこっち向いてにっこり笑った。
「俺、字きれいな人って好き」
無邪気な顔をしていた。
高校二年生の一学期、彼はもうわたしの隣には座っていなかったけど、それでもわたしにノートを借りに来た。
「隣の子に借りればいいのに」
というと、
「野中さんのノートが好きになっちゃって」
そう言った。彼が好きになったのは、でも、ノートだけじゃなかった。
「嫌だと思ったらその時点で振ってくれればいいから。友達から試しにつきあってください」
そう言って、深々と頭を下げて、握手を求めるみたいに片手を出した。放課後、屋上で。その手をそっと握ったときに、信じられないって顔でわたしを見た。彼の顔がかわいかった。
つきあい始めたばかりの頃、彼は何時間もあきもせずにわたしの話を聞いてくれた。わたしはよく読んだ本の話をした。彼は自分はそんなに小説を読んだりする性質じゃなかったけど、わたしの話は喜んで聞いた。
「自分で読むよりこのはの話を聞いているほうがおもしろい」
そんなことを言ったりした。
いつからだろう?だんだんわたしが彼の話を聞くことのほうが多くなったのは。
木の葉の色が変わり始めていた。わたしは衣替えをして、去年来ていた薄手のコートを引っ張り出した。気分転換したくてわたしは髪をばっさり切った。前髪を作って色も変えた。よく考えたら、中学生ぐらいからずっと髪の毛長かったな。わたしはずっと変わってなかったんだ。そのくらいの頃から。
***
「野中さん、電話来てる。後ろで出て」
昼レジに立っていたら、店長に言われた。STAFFROOMに行って、受話器を取る。
「あ、野中さん?」
若い男の人の声。誰?知り合いにいない。
「わかんないかな?この前お邪魔した澤田です」
「ああ……」
驚いた。なんで澤田さんがわたしに電話を?
「突然ですみませんが、今晩時間あります?」
「え?」
澤田さんはどこか外からかけてるみたいだった。背後からいろいろな音が聞こえる。
「18時ごろには仙台つけると思うんだけど」
「……」
「なんか予定入っちゃってる?」
「いえ、なにもないです」
向こうでよかったという声が聞こえる。
「連絡取れないと困るんで、携帯教えてください」
お互いに携帯の番号を教え合って、復唱した後に電話が切れた。結局澤田さんがわたしに何の用事があるのかわからなかったけど、なんだか促されるままにOKしてしまった。食べそこなった牛タンが食べたくて、来るのかな?それ以外に理由が思いつかない。
***
「すみません、急に呼び出して」
本当におりてきた。スーツ着た男の人が。ふと思う。そういえばこの人、結婚してるのかな?まさか、地方の女の子に一目ぼれしたとかそんなことではないですよね。わたしはそんなレベルの美少女ではないし。
「なんか雰囲気全然違いますね。何かあったの?」
ちょっと驚かれた。たしかに最近は会う人みんなにこう言われる。
「え、いや、ちょっと気分換えたかっただけです」
澤田さんはじっと見ると、
「前のも似合ってたけど、今のもいいね」
と笑った。この人女の子のことほめなれてそうだな。
「ちょっと、どっか座って話せるとこ行きたいんだけど」
「牛タンとかあるとこですか?」
「え?あ、いや、牛タンはあってもなくても、牛タン食べたいの?」
「いいえ。特にそういうわけでは」
牛タンでもなかった。駅ビルの中、コーヒー飲めるところで向かい合う。出されたお水飲む。飲みながらちらっと澤田さんの両手を見た。指輪してない。
「ごめんね。急に呼び出して。アテンドで東北に来る仕事があったからさ。ちょうどいいと思って帰りに寄ったんだ」
「はあ、あの……」
じっと見る。
「どんなご用件ですか?」
なんで東京の人がわざわざ仙台くんだりまで。
「ええっと、実はね。どこから話そうかな」
澤田さんは上機嫌でにこにこしていた。一日であちこち移動してきた人の活発な感じが伝わってきた。
「うちの書籍販売部ってさ、電子書籍部門もあるのは知ってるよね」
「はい」
「今後のことを考えてあそこの人員を厚くしようとしているんだけど、テクニカル系の人はそろっているんだけど、肝心の書籍の知識がある人がそろわなくて、ほらベテランの人はさ、電子書籍には抵抗がある人が多いみたいでさ」
コーヒーが来た。
「お砂糖入れる?」
澤田さんが角砂糖一つつまみあげる。
「あ、自分でやります」
わたしは砂糖一個とミルクを少し入れてコーヒーをかきまぜた。
「電子書籍で出版したがらない作家さんも多いし、一進一退の状態なんだけど……」
「でも、きっと若い世代を中心に電子書籍は広がっていくと思います」
澤田さんはちょっと黙った。
「それじゃ、紙の本はなくなる?」
「紙に対する気持ちが強い人は必ずいるので、なくならないと思います。でも、減ってくる。お客さんは三つに分かれると思います。紙しか読まない人。両方読む人。電子中心に読む人」
澤田さんが少し驚いている。わたしなんか変なこと言ったかな。
「野中さん自身はどの位置にいるの?」
「わたしは両方です。電子書籍では読みたいものがないことが多いから」
「読めるものが読めれば」
「紙にはこだわりません。紙は場所をとるし」
「そうか」
かちゃりと音をたてて、コーヒーカップを手に取ってゆっくり飲む。
「ただ……」
「ただ?」
「電子書籍ってなんか本と出会うわくわく感がないっていうか……」
「うん」
「わたしは図書館とか本屋さんとか本がいっぱい並んでいる光景を見るのが好きなんで」
新しい紙の香りをかぐと幸福な気分になる。様々な題名が並ぶ本棚をじっと眺めるのが好きだ。
「電子書籍って自分が探しているものだけ検索して手に入れているイメージが強いかな」
「たしかにちょっと勝手が違うよね」
で、なんでわたしたちはこんなに熱く電子書籍について話してたんだっけ?
「電子書籍扱う仕事してみませんか?」
「はい?」
「野中さんみたいに若くて新しいことに抵抗ない人で、でも、しっかり本を好きな人をメンバーに入れたいんです……って、この前、聞きました関係者に」
「……」
喫茶店の時計が19時になって、からくり人形が出てきて音楽をならす。鳩が出る。
「それって……」
「東京へ来て、働いてみませんか?」
「東京?」
驚いた。この人、牛タンでもなく、一目ぼれでもなく……、ハーメルンの笛吹みたいに人さらいに来たんだわ。とりあえずコーヒーを飲む。
「でも、わたしはただの書店員です」
「はい」
「書籍に対する知識も全然足りません」
「はい」
「大体、電子書籍って……」
「テクニカルの方は足りてるんです。本自体を知っている人が足りてない。売り物の魅力を知っている人がいないと、お店づくりがうまくいかない」
「お店ですか?」
「勝手はかなり違うけれど、電子書籍を売るホームページは、やっぱり書店なんですよ」
澤田さんはにこにこしていた。
「澤田さん、ご出身どちらですか?」
「え?あ、神奈川だけど、なんで急に?」
「きっと関東圏の人にはわからないと思いますけど、東北で育っているわたしには東京はとても遠いところなんです」
「つまりそれは……」
「ここを離れるなんて……」
そこでなぜかわたしは急に火野先生のことばを思い出した。唐突に。『自分の中にある使命に気づくことができる人とできない人がいる』この澤田さんがしてきている話が使命だと思ったわけじゃない。わたしがその時思ったのは、
「ちょっと考えさせてもらえませんか?」
もし、ここでこの話を断って仙台に残るのなら、それは、かっちゃんの所へ戻りたいってことなんだと思う。でも、迷いながら何もしない。本当にそれでいいの?
「どのくらい?」
「どのくらい待てる話ですか?」
「他にやりたいって人がいて、その人が気に入られちゃったらなくなる話。枠は1人です。僕はもし野中さんが興味あるなら、推薦します」
何もしないでこのままここで年を取ることがわたしの幸せなんだろうか?
「僕も今日返事が聞けると思ってここに来たわけではないんで。ただ、考えてみてくれませんか?また、こちらから連絡します」
***
「ねぇ、なっちゃん」
最近なにかに迷ったり悩んだりした時、わたしはなっちゃんと千夏ちゃんのところにいる。
「なに?」
「結婚っていいもの?」
「……」
いいよー、って返すところじゃないの?ここはフツー。
「かっちゃんとやり直したいって思ってる?」
彼と離れて二カ月くらい経ってる。
「わからない……」
千夏ちゃんがはいはいするのを見る。
「実は、東京へ来て働かないかって話があって」
「え?」
なっちゃんは目を丸くした。わたしはこの前澤田さんにされた話をした。
「どうするの?行くの?東京」
わたしはぽつりと言った。
「迷ってる」
「かっちゃんのこと、もういいの?」
ぼんやりと彼の面影を思い浮かべた。
「ほんというとさ、まだ、一人に慣れないの」
時間があまりすぎた。何をしていいのかわからなくて、自然と本を読む時間が増えた。1人ってそうか、こんな感じだった。あまりにも長い間、いつも自分ではない他人の動向を気にして、自分のスケジュールを決めてた。不自由だった。今は自由。自由で、十二分に孤独だ。
「でもね、唯一無二だとは思えない。彼が」
うーうーうー、千夏ちゃんがはいはいする。
「まだ、わたしいろいろ見たいものがあるよ」
この空の下は、彼の隣は、
「だから、迷ってるけど、たぶん」
ごめんなさい。かっちゃん。この空の下は、あなたの隣は、わたしには狭すぎる。わたしはもっといろいろな物が見たい。
「たぶん 東京へ行くと思う」
そして、きっとあなたではない誰かと出会って、また恋をすると思う。
なっちゃんはショックを受けていた。
「8年間もいっしょにいた人と、ほんとに別れられるの?あとから後悔しない?」
わたしはぼんやりと彼女を見た。
「かっちゃんと結婚して、うんと年を取ったときに、あの時別の道を選んでたらって後悔するのより、いいかな」
彼女はまたいつぞやのように眉間に皺を寄せた。ねぇ、なっちゃん。あなた幸せなのよ。あなたは唯一無二の人を見つけて、恋と愛に生きてる。あなたはあなたの生きる意味を知っていて、迷ってなくて、輝いている。わたしも輝きたいの。
「わたしはさ、恋や愛にじゃなくて、仕事に生きるよ」
「ええ?まだ若いのにそんなこと言っちゃって」
はははははと笑った。
「男の人はちょっと、しばらくいいかな」
夏美
「このはちゃん、東京行っちゃうかも」
「え?なに?なんで?」
せいちゃんが妙に反応する。
「なんか、会社の別部門で働かないかって誘われているんだって。東京にある部門だって」
「決めちゃったの?もう」
グラスをテーブルにおいて、ビール注いであげる。
「心はほとんど決まってたな。あれは」
今日はなんだかしんみりと落ち込んでしまった。よそさまのことでだけど。
「キムチとか食べる?つまみに」
「塩辛がいい」
「そういえば、函館旅行した友達が言っていたけど、函館の人ってじゃがいもに塩辛かけて食べるらしいよ」
「え?」
「ちょっとやってみない?」
じゃがいもむいて、適当に切ってゆでる。
「なんか、よそさまのことでも、このはちゃんのことは、ショックだなぁ」
「俺は……」
「なに?」
「こんなに長くつきあって、別れるのなんて絶対にいやだ」
「……わたしたちの話じゃないのよ、せいちゃん」
「でも、見てて思った。あんなに長く一緒にいて、でも、別れる時なんて一瞬じゃない。なんか女の人のほうがあっさりしてない?」
「うーん、そうねぇ」
竹串さしてゆで具合を見る。もういいみたい。
「男はたまんないよ」
そう言ってため息をつく。感じ入っている彼をほっておいて、ゆであがったじゃがいもをあげて、お湯を切りしおからをかけた。
「本当にこれ料理って言えるの?」
せいちゃんが目を丸くして、2人で大笑いした。
「いや、なんかやっぱり違和感あるね、これは」
ところが、とりあえず箸をつけてみたら、
「意外とおいしい」
彼が初めておいしいと言った。
「本当?おいしい?」
わざとそう聞いた。
「うん。おいしいよ。食べてみなよ」
もう一回言った。なんでもない言葉だった。ありふれたたった四つの文字のつながり。それがずっと聞きたかった。でも、それにしても、こんなときに言わなくたっていいじゃない。と思いながら、わたしもそのB級グルメを口にした。
「なんか、意外とおいしいね」
旦那のビールをちょっともらった。
「お前、飲むなよ」
「あ、またやっちゃった。大丈夫一口だったから」
そういってビールの代わりにお茶を入れる。
「もし、あれが失恋っていうものだったら」
突然せいちゃんが言う。
「俺は一生失恋はしたくない」
「それは独り言?」
「いや、君に言ってるの」
「……」
なんて答えさせたいのか、この人は。
「あのね、わたしたちもう結婚してるんだし、子供だっているんだからさ、そんな心配するのよしな」
女々しいのがいつまでもかわいいと思ったら大間違いよ。
「なんか一ミリもかわいくないな。そこは、そんな思いさせないわよ、とか言うところじゃないの?」
ああ、そういうふうなのがよかったのか。しょうがない人ね、全く。
「わたしがそんな思いさせないわよ」
「全然感情こもってないじゃん」
ばからしい。
「ぐだぐだ言ってないで、早くお風呂入ってきちゃいなよ。明日も仕事だよ」
あら、すごい不満そうな顔じゃない。
「よっぽどのことがないかぎり、離婚なんてしないから安心しなよ」
「よっぽどのことって何?」
わたしはちょっと考える。
「あなたが犯罪者になるとか」
ぶっせいちゃんがふきだした。
「なつの想像の中では、俺は何やるの?」
「結婚詐欺」
間髪入れず答えた。
「もっとかっこいいのにしてよ。それに、詐欺はなかなか警察につかまらないよ」
「そうなの?」
「俺が本気で結婚詐欺やったら、絶対つかまらない。あれは立件が難しいんだ」
妙に信憑性あるわね。
「やっぱり、結婚詐欺で決まりだ」
「銀行強盗とかのほうがいいなぁ」
「あなた、俺たちに明日はないみたいなの頭に浮かんでいるでしょ?」
せいちゃんは学生時代一時古いアメリカ映画に凝っていたことがある。
「うん。そうかも」
「やめて。わたしを巻き込まないで。やるなら一人でやって」
「……」
他愛もない会話をしながら夜が更けていく。




