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世界を

「鴻宵」

 兵士が捕虜の解放に走っている間、城壁から昏軍を見下ろしていた私に、蒼凌が声をかける。


「……大丈夫なのか」

「大丈夫だよ」

 私は無理にでも笑って見せた。


「どのみち、玄武と戦うわけにはいかない。無駄な人死にを出すことになる」

 要求を撥ね付ければ、玄武は本当に碧軍を壊滅させるだろう。

 それを防ぐ術は、残念ながら私には無い。人は神には勝てないのだ。それは、狐狼も同じこと。


「絡嬰と束憐を釈放するのは痛手だけれど……」

「俺が心配しているのはお前のことだ」

 やや不機嫌に、言葉を遮られる。事情が読めないながらも、私に庇われた形になったのが納得いかないのかも知れない。


「大丈夫さ」

 私は繰り返す。

「相手は守護神だ。彼らは私に訊きたいことがあるだけ。危険は無いよ」

 朱雀あたりが短気を起こさなければ、という本音は飲み込んだ。


「それより、後を頼む。この講和自体に作為はなさそうだけど、叡循貴がこのまま何もせず都へ帰るとは思えない」

 私の言葉に、蒼凌も頷いた。

 たまたま絡嬰と束憐が捕らわれていたので昏軍としても収穫のある講和になったが、叡循貴が都を出た時点では、彼らの奪還が目的ではなかった筈だ。五万の兵を動かした理由は、どこか別のところにある。


 絡嬰と束憐が昏軍に返還され、退却が始まった。

 玄武が空中を歩いて、私の前に立つ。昏軍が地平の向こうへ姿を消すと、私に手を差し出した。


「では、行こうか」

 私は頷いて、その手を取る。不意に、後ろから反対側の手を掴まれた。振り向くと、難しげに眉を寄せた蒼凌が目に入る。


「蒼凌」

「……無事に戻れ。必ず」

 ぐっ、と、握られた手に力が籠る。私はその手を握り返して、しっかりと頷いた。

「うん、必ず」


 するり、と手が離れる。玄武に手を牽かれて、私の体がふわりと空中に浮いた。どこからともなく湧き出した霧が、私と玄武を包み込む。


 どのくらい、そうして白い霧の中をふわふわと漂っていただろう。やがて私は、足の裏に地面の感覚が戻ってきたことに気づいた。石造りの城壁とは違う。

 この感触は、土……いや、少し違うような。


「着いたよ」

 玄武の言葉とともに、霧が晴れる。しかし、足元は白いままだ。

「雪……」

「ここは私の山だからね。一年の大半は氷雪に鎖されている」


 その白い景色の中に、更に白い何かがあることに、私は気づいた。私が気づいたのとほぼ同時に、それはのっそりと動き、燐光とともに形を変える。


「……戻ったか、玄武」

「ただいま。彼女を連れてきたよ」

 燐光の名残が空気に溶けてゆく。そこに姿を現したのは、言わずもがな白虎だった。


「……あの二人も、間もなく来る」

 その言葉が、終わるか終わらないかのうちだった。


 甲高い鳥の鳴き声が、空を切り裂く。雲を突き抜けて、何か大きな影が縺れ合いながら落ちてきた。青と、赤。二つの影は地面に激突する刹那、燐光とともに姿を変える。


「これで、揃ったか」

 立ち上がったのは、緋色の髪と瞳をした少年だ。その足元に、青い髪の青年が押さえ込まれていた。


「朱雀に、青龍……」

 四方の土地神が勢揃いというわけだ。さすがに壮観だった。

 私の姿を目にした朱雀の目が、剣呑に光る。


「お前が……っ」

「待ちなさい、朱雀」

 すぐにも怒鳴ろうとした朱雀を、玄武が制する。


「さて、おとなしく私についてきたということは、用件はわかっているのだろうね」

 四人を代表するように、玄武が口を開いた。私は淡く苦笑する。


「私の思っている通りの用件だとしたら、役者がもう一人、足りないんじゃないかな」

 誰よりも、恐らくは朱雀よりもずっと、私を恨んでいる筈の人物が。


「彼には別の用件があってね」

 あっさりと答えた玄武は、それに、と付け加える。

「この尋問は、まず私達によって行われるべきだ。この大陸の守護者である、私達にね」


 それは、一理ある主張だった。玄武が、私に歩み寄る。


「何しろ君が――この世界を」


 四柱の神が、私を取り囲む。私はゆっくりと口を開いた。




 依爾焔の話を聞いた春覇は、険しい顔をして腕を組んだ。隣に座った黒零はというと、いまいち話がぴんとこないのか、茫洋とした表情のままである。


「どうだい、覇姫」

 どこか面白そうに、依爾焔は問いかける。

「それでも君は、鴻宵を信じられるかな」


 春覇は基本的に生真面目な質である。そして、この戦乱の終息を強く求め続けてきたことも、爾焔はよく知っているのだ。


「話は、わかった」

 長い沈黙の後、春覇は徐に言葉を紡いだ。

「だが、私には、その人物と私の知る鴻宵を同一人物と見なして良いものかどうか、確証が持てない。よしんば同一人物だとしても……」

 春覇は強い視線で、爾焔を射抜いた。

「当人の話を聞くまでは、如何なる判断も下さない」


「……なるほど」

 爾焔はゆったりと目を細めた。

「君は謂わば中立というわけだ。そちらの彼はどうかな?璃黒零」


 話を振られた黒零は、相変わらずの無表情で爾焔を見返した。

「吾は」

 一切の気負い無く、彼は言う。

「友人はとことんまで信じてみようと決めておるのだ」


 迷いの無い言葉。爾焔は笑みを深めた。

「信じる者は裏切られるものだよ」

「その時はその時だ」

 すっぱりと言い切る黒零に、爾焔はついに声を上げて笑った。


「思い切りがいいね」

 そう評して、立ち上がる。

「さて、外の二人はどう考えるかな」


 言われて外を覗いてみれば、ちょうど二組の二人連れが到着したところだった。一方は、穏やかな風貌の男と、鴻耀。もう一方は、目付きの鋭い痩せた男に連れられた、沃縁。


 そして、更にもう一人、姿を現す。

 その人物を目にして、春覇はやはり、と低く呻いた。


「やはり、お前が……」

「やあ、覇姫様」

 扉を開けて小屋に入ってくるなり、人を食ったような調子で挨拶してひらひらと手を振る青年。


「そんなに睨まないでよ。俺だって、好きで片割れを憎んでるわけじゃないんだからさ」

 彼はそう言って、その辺りの椅子に腰かける。その口調は軽く、態度もいつも通り飄々として見えるが、目だけは鋭く燃え立っていた。


 笑顔のまま険しい眼差しで中空を睨み据えて、彼は呟く。



「――あいつが、世界を裏切った」





「――そうだ」


 北霊山の冷たい空気に、私の声はよく響いた。



「私が、世界を裏切った」


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