第1章「退屈な世界の、退屈な私」
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キャラ紹介
目覚まし時計が鳴る前に、私は目を覚ます。
いつもそうだ。六時五十八分。設定した時刻より二分早く、体が勝手に起き上がる準備を始める。カーテンの隙間から差し込む光の角度で、今日も晴れるとわかる。福岡の五月は、もう半袖でちょうどいいくらいの陽気になっていた。
私、来栖川アリスの一日は、いつもだいたい同じ形をしている。
六時五十八分に目が覚めて、七時に起きて、七時十五分に朝食を食べて、七時四十分に家を出て、自転車で十二分かけて学校に着く。授業は六時間、部活は週四回、帰りに寄り道することはほとんどない。成績は学年でも上のほう。先生からは「真面目でしっかりしてる」と言われるし、親からは「アリスは手がかからなくて助かる」と言われる。
褒め言葉のはずなのに、最近はその響きが少しだけ、重く聞こえることがある。
布団から出て、洗面所で顔を洗いながら鏡を見る。寝癖のついた黒髪、特に特徴のない顔。可愛いと言われることはあっても、自分ではよくわからない。身だしなみに気を遣う暇があったら、参考書の一ページでも進めたい――そう思って生きてきた結果が、この寝癖なんだと思う。
「アリス、パン焼けたよ」
母がキッチンから声をかけてくる。私は「ありがとう」と答えて席につく。テレビでは朝のニュースが流れていて、キャスターが穏やかな声で今日の天気と、どこかの国際会議のニュースを読み上げている。委員会がどうとか、経済がどうとか。正直、右から左に流れていくだけで、頭にはほとんど残らない。
「アリス、今日も部活?」
「うん、いつも通り」
「無理しないでね。……って、あなたに言っても無駄か」
母が苦笑しながらコーヒーを注ぐ。父はすでに出勤していて、食卓には母と私だけ。父は東京の水没以降、福岡に移った本社の関係で朝が早い。顔を合わせるのは大抵、休日の夕食くらいだ。それが寂しいと思ったことは、正直あまりない。うちの家族は、みんなそれぞれ自分のことに忙しくて、それでうまく回っている。
窓の外を見る。空は青く、雲は白く、地平線は――もちろん、遠くまで見渡せば緩やかに丸みを帯びているはずだ。小学校の理科でそう習った。地球は丸い。私たちはその表面に立っている。当たり前すぎて、疑ったことなんて一度もない。
当たり前すぎることばかりが、この世界には多すぎる気がする。
朝も、学校も、毎日も。
トーストを咀嚼しながら、私は昨日と同じ味だと思う。マーガリンの量も、焼き加減も、たぶん昨日とほとんど変わらない。それが安心だと思う自分と、それが少し息苦しいと思う自分が、いつも半分ずつ胸の中にいる。
***
自転車を漕ぎながら、私はいつもの道を通る。橋を渡り、川沿いを走り、コンビニの角を曲がる。信号は三つ、すべて赤で止まった記憶がある日と、すべて青で通り抜けられた日がある。今日は二つ目までは青、最後の一つで引っかかった。だからどうということもない。
学校に着くと、下駄箱の前で美咲と鉢合わせる。
「おはよ、アリス」
「おはよう」
「今日も一番乗り並みじゃない? 相変わらず早いね」
「そんなことないよ、たまたま」
美咲は笑いながら私の隣を歩く。中学からの付き合いで、気を遣わなくていい数少ない相手だ。教室に入ると、いつもの席、いつもの黒板、いつもの窓からの光。一時間目は数学、二時間目は英語、三時間目は現代文――時間割はもう体に染み付いていて、正直、何も見なくても今日一日の流れが目に浮かぶ。
数学の授業中、私はふと、黒板に書かれた図形の問題を眺めながら考える。円の面積、球の体積、地球の周囲の長さ。数字と公式で世界のあらゆることが説明できるという安心感と、それだけで本当に全部説明できているんだろうかという、漠然とした違和感。
先生に指名されて、私は淀みなく答える。合っている。先生が頷く。教室のあちこちから小さなため息――「さすがアリス」というやつだ。悪い気はしない。でも、達成感というほどのものでもない。
***
「アリスってさ、いつも同じ時間に同じ場所にいるよね」
昼休み、教室の窓際で弁当を広げながら、友人の美咲が笑いながら言った。
「そう?」
「そうだよ。図書室行くの水曜と金曜、購買行くの月曜、それ以外は教室で弁当。もう時刻表みたい」
「別に、悪いことじゃないでしょ」
「悪くはないけど。……アリスってたまに、すごく遠くを見てる顔するよね。今も」
指摘されて、私は自分の視線がいつの間にか窓の外――校庭のさらに向こう、街の輪郭がぼやけて見えなくなるあたりに向いていたことに気づく。
「別に、何も考えてないよ」
そう答えながら、自分でも少し嘘だと思う。何も考えていないわけじゃない。ただ、うまく言葉にできないだけだ。
毎日はちゃんと動いている。学校があって、部活があって、友達がいて、家族がいて。不満なんてどこにもないはずなのに、心のどこかに、薄い膜が張ったような感覚がずっとある。何かが起こる予感もなく、何も変わらないまま続いていく毎日。まるで、同じページを繰り返し読んでいるような。
「不満はないんだけどね」私は箸を止めて言う。「なんていうか……この先も、ずっとこの調子なんだろうなって思うと、たまに変な感じになる」
「変な感じ?」
「うん。今日の続きが明日で、明日の続きが明後日で……全部同じ形のまま、何十年も続いていくのかなって」
「気が早いよ、まだ十六なのに」美咲は笑ったけれど、少しだけ困った顔もした。「でも、わかる気もする。うちの母親も似たようなこと言ってたな。『毎日同じことの繰り返し』って」
「そういうものなのかな、大人になるって」
「さあ。私はまだ、明日の小テストのほうが気になるけど」
私たちは顔を見合わせて笑った。それでいい、と思う。深刻になりすぎるのも、なんだか自分らしくない気がする。
「そういえば、亜沙子ちゃんの配信見た?」美咲がスマホを見せてくる。「『ギャル代表!亜沙子の美容部屋』、また海外から配信してるって。今度はどこの国だっけ」
画面には、金髪サイドテールの見覚えのある女の子が、どこか異国の市場らしき場所で商品を紹介している動画が映っている。山田亜沙子。同い年らしいけれど、会ったことはない。ただ、学校中の女子がフォローしているくらい有名な配信者だ。テンプレのギャルっぽい喋り方だけど、時々挟まれる商品説明が妙に的確で、実は頭がいいんじゃないかという噂もある。
「世界中飛び回っててすごいよね。自由っていうか」
「そうだね」
私はそう答えながら、少しだけ、彼女の背景に映る見知らぬ街並みに目を奪われていた。石造りの建物、聞いたことのない言語の看板、行き交う人々の服装。ここではないどこか。画面の中の景色は、私の日常とはまるで違う速度で流れている気がした。
「アリスも行ってみたい? 海外」
「……どうだろう。行ってみたい気はするけど、具体的にどこ、っていうのはないかな」
「じゃあ何が行ってみたいの」
美咲の何気ない質問に、私は少し詰まった。行ってみたい場所。欲しいもの。やりたいこと。聞かれてみると、案外どれもぼんやりしている。強いて言うなら――
「……端っこ、かな」
「端っこ?」
「うまく言えないんだけど。地図の端とか、世界の端っことか。そういう、まだ誰も見たことのない場所」
「地球は丸いんだから、端なんてないでしょ」美咲が笑う。
「そうなんだけどね」
私も一緒に笑った。自分でも変なことを言っている自覚はある。でも、その「変なこと」を口にした瞬間だけ、胸の奥の薄い膜が、ほんの少しだけ震えたような気がした。
***
放課後、地学部の部室に顔を出すと、顧問の先生が一枚のプリントを配りながらこう言った。
「今度の週末、フィールドワークに行くことになった。市の郊外――山間部にある調査地点で、地質と自然環境のレポート課題。学校からの依頼というより、市の環境調査の一環に協力する形だな」
「レポートって、具体的に何を?」
部員の一人が尋ねると、先生は淡々と答える。
「土壌のサンプル採取、周辺の動植物の記録、ゴミの投棄状況の確認。まあ、いつもの調査だよ。バスで移動して、日帰りだ」
「毎年やってるやつですよね、これ」別の部員が言う。「去年は川沿いだったし」
「今年は少し山寄りのエリアらしい。詳しい調査地点は当日の朝、バスの中で説明する」
特に変わったこともない、いつもの課外活動。そのはずだった。
でも、プリントを受け取った瞬間、私の中で何かがわずかに動いた気がした。理由はわからない。ただ、「いつもと違う場所に行く」というだけのことが、今の私にはやけに新鮮に感じられたのだ。
「アリス、行くよね?」
「うん。行く」
即答した自分に、少し驚いた。
「相変わらず食いつきいいね、アリスは」隣にいた部員が笑う。「地質調査とか、そんなに面白い?」
「面白いっていうか……」私は少し考えてから続けた。「知らない場所に行くってだけで、なんか、いいなって」
「変わってるなあ」
悪気のない言葉だとわかっていても、私はその「変わってる」という響きを、家に帰る道すがら何度か思い出していた。
***
その週は、いつもより少しだけ時間の流れが速く感じられた。
月曜、火曜、水曜――授業を受けて、部活に出て、家に帰って、宿題をして眠る。変わらない毎日の中に、「週末、山に行く」という一点だけがぽつんと浮かんでいる。それだけで、こんなにも一日一日の輪郭がはっきりして見えるのかと、自分でも驚くくらいだった。
木曜の夜、夕食の席で私は何気なくフィールドワークの話をした。
「今度の土曜、部活で山のほうに行くんだ。地質調査の宿題で」
「へえ、気をつけてね」母が言う。「熊とか出ないの、そのへん」
「さすがに市街地から近いところだから大丈夫だと思うけど」
珍しく早く帰ってきていた父が、新聞から顔を上げずに言った。
「地質調査ね。……最近、そういう課外活動、多くないか」
「そう?」
「いや、俺が学生の頃は、そこまで頻繁じゃなかった気がしてな。まあ、時代が変わったんだろう」
父はそれ以上何も言わず、また新聞に視線を戻した。私は特に気にも留めず、味噌汁をすすった。父の勤める会社は、確か環境関連の政府委託事業にも関わっていたはずだ。そういう仕事をしていると、こういう調査活動にも敏感になるのかもしれない――その程度にしか、私は考えなかった。
***
夜、自室のベッドに寝転がりながら、私は天井を見上げる。
スマホには美咲からのメッセージ。「週末楽しみだね」。私は「うん」とだけ返す。
窓の外はもう暗い。街灯の光が規則正しく並んでいるのが見える。この街のどこもかしこも、きっと同じように規則正しく、同じように静かに、同じように続いていくのだろう。
委員会がどうとか、経済がどうとか。世界のどこかで何かが起きていても、私のところまでは届かない。地球は丸くて、私はその上のとても小さな一点にいて、明日もきっと同じ時間に目が覚める。
――それでいいはずなのに。
ふと、南の空に浮かぶ星を数える。数えても、意味なんてない。それでも数えずにはいられない夜が、最近増えている気がした。
勉強はできる。成績も悪くない。将来、それなりの大学に行って、それなりの仕事に就いて、それなりに満足できる人生を送るんだろう。頭のどこかでは、そういう未来がはっきりと見えている。見えすぎているからこそ、それが少し怖い。
全部が予定調和で、全部が想定の範囲内で、驚くようなことなんて、この先ずっと起きないんじゃないか――そんな漠然とした不安が、夜になるといつも胸の奥からじわりと滲み出てくる。
私は、この毎日の続きに、何を期待しているんだろう。
答えの出ないまま、私は目を閉じた。
***
週末は、朝から気持ちのいい快晴だった。
学校の駐車場に集合したのは地学部員十二名と、引率の先生二人。貸し切りバスに揺られること一時間半、都市部の喧騒がすっかり消え、窓の外には深い緑の山々が広がり始めた。
「うわ、山だ山だ」
「携帯の電波、大丈夫かな」
部員たちがはしゃぐ声を聞きながら、私はリュックの中の道具――土壌採取用のシャベル、記録用のノート、ゴミ拾い用の軍手――を確認する。窓に額をつけるようにして外を眺めていると、隣に座った美咲が肘でつついてきた。
「アリス、朝からテンション高いね、珍しく」
「そうかな」
「顔に出てるよ。楽しみにしてたんでしょ」
図星を指されて、私は少しだけ目を逸らした。窓の外を流れていく景色――田んぼ、川、山の稜線――は、いつも見ている街の景色とはまるで違う速度で流れていくように感じられた。
バスが停車したのは、舗装された道の終わる場所だった。そこから先は、車も入れない林道になっている。
「よし、二人一組で調査エリアに散らばる。集合は十六時、この場所な。地図とチェックリストは配った通り。何かあったら無線で連絡すること」
先生の号令で、私は美咲とペアを組み、指定された林道を歩き始める。木漏れ日が地面に細かい模様を描いていて、鳥の声があちこちから聞こえてくる。
バスを降りると、空気がまるで違った。ひんやりとした緑の匂い。都会の乾いた匂いとは全然違う、湿った土と草の匂い。
「気持ちいいね、こういうの」美咲がシャベルで土を掘りながら言う。
「うん」
私はノートに土壌の色や湿り気を書き留めながら、なぜか無性に、この時間が心地よく感じられていた。いつもと違う場所、いつもと違う空気。それだけのことなのに、胸の奥のあの薄い膜が、少しだけ薄くなったような気がする。
調査は淡々と進んだ。指定されたポイントで土を掘り、色と質感を記録し、周辺の植物をスケッチし、落ちているゴミがあれば拾って袋に入れる。単調といえば単調な作業だけれど、不思議と苦にならなかった。
「あ、見て、これ何の足跡だろ」
美咲が地面を指差す。私はしゃがみ込んで観察する。
「タヌキかな、たぶん」
「詳しいね」
「本で見ただけだよ」
そんな他愛のないやり取りを重ねながら、私たちは林道を奥へ奥へと進んでいった。時折、木々の切れ間から遠くの街並みが小さく見える。あんなに広く感じる街も、ここから見ればただの模型みたいに小さい。
休憩がてら、開けた場所で水筒のお茶を飲む。空はどこまでも青く、雲ひとつない。
「こういう景色見てると、地球って本当に大きいんだなって思うね」美咲が空を見上げながら言う。
「そうだね」
「アリスの言ってた『端っこ』も、こういう場所のずっと先にあるのかな」
「……どうだろうね」
私は曖昧に笑った。自分で言い出したことなのに、うまく答えられない。それでも、この山の向こう、さらにその向こうに、まだ見たことのない景色が広がっているんだと思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
作業は順調に進んだ。動植物の記録、ゴミの有無の確認、いくつかのサンプル採取。太陽が少しずつ傾き始めた頃、私たちは集合場所へ向かって林道を戻り始めた。
そのときだった。
「――アリス、あれ」
美咲が空を指差した。
私は反射的に顔を上げる。西の空、まだ明るいはずの夕暮れ前の空に、見たことのない光が瞬いていた。星にしては大きすぎる、飛行機にしては動きが速すぎる、そんな光。
「流れ星……にしては、遅くない?」
美咲の声が微かに震えている。私も同じことを感じていた。その光は、まっすぐこちらに近づいてくるように見える。いや――近づいているというより、まっすぐ「落ちて」くるように見える。
私は目を細めて、その光の軌跡を追った。一瞬、光が二つに分かれたように見えた気がした。何かが千切れたのか、それとも見間違いか、確かめる間もなく――
次の瞬間、耳の奥まで揺さぶるような轟音が空気を裂いた。
「きゃっ……!」
美咲がしゃがみ込む。私は思わず両耳を塞ぎながらも、目だけは空から離せなかった。
光は輪郭を変え始めていた。ただの光の点ではない。何か――形のあるものが、炎と煙の尾を引きながら、山の向こうへと落ちていく。金属的な光沢が、夕暮れの逆光の中でちらりと見えた気がした。
地面が、確かに揺れた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、木々がざわめく。遠くの空に、黒い煙がまっすぐ立ち上るのが見えた。空気が焦げたような、それでいて今まで嗅いだことのない金属的な匂いが、風に乗って微かに漂ってくる。
「……なに、今の」
美咲の声は、もう完全に怯えていた。近くにいた他の部員たちも、林道に出てきて空を見上げている。誰かが「隕石じゃない?」と言い、誰かが「いや、絶対違う、あれ」と震える声で返している。先生たちが慌てた様子で無線機のようなものに向かって何か話している。
「い、今すぐ集合場所に戻るぞ! 全員急いで!」
先生の怒鳴り声が林道に響く。部員たちが一斉に動き出す中、私だけが、その場に立ち尽くしていた。
目は、まだ黒煙の上がる方角――山の稜線の向こうに、釘付けになったままだった。心臓が、恐怖とは少し違う速さで鳴っている。
「アリス、行くよ! 早く!」
美咲に腕を引かれて、ようやく我に返る。走り出しながらも、私はちらちらと肩越しに、あの黒煙のほうを振り返らずにはいられなかった。
いつもと同じはずだった一日が、今、確かに輪郭を変えた。
膜が破れる音を、私は確かに聞いた気がした。
(第2章「墜落現場と、壊れた常識」へ続く)




