第16章 千草色の朝
三月。汐浦の海が、色を取り戻し始めている。
冬の灰色が薄れて、水面に青みが戻ってくる。空は高く澄んで、朝の光が鋭くなっている。潮風はまだ冷たいけれど、その中に春の予感が混じっている。もう少しで季節が変わる。
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朝。教室。窓から差し込む三月の光が、机の上に明るい四角を作っている。
千草は窓際の自分の席で、鞄から教科書を出していた。渚が隣に来て、鞄をどさっと机に置いた。
「千草、昨日のテレビ見た? あの番組、うちのお母さんがドハマリしてて」
「見てない。何の番組?」
「料理バトルのやつ。出場者がめちゃくちゃ個性的で」
渚が身振り手振りで説明する。千草は聞きながら笑った。渚の話し方がおかしくて、自然に笑った。
「渚の説明が一番面白いよ」
「え、番組の方が面白いって!」
「いや、渚のリアクションの方が」
渚が頬を膨らませる。千草が笑う。本当に面白くて笑っている。目尻が下がって、頬が持ち上がって、口元が緩んでいる。組み立てていない。部品を順番に動かしていない。ただおかしくて、顔全体が動いている。
渚はそれを見て、ふと、表情を柔らかくした。
「千草の笑い方、前よりいいね」
「そう?」
「うん。なんていうか……力が抜けてる。前は」
渚は言いかけて、少し迷って、言った。
「前は、ずっと百パーセントだったじゃん。今は六十パーセントくらいの時もあって。でもそっちの方が、なんか、千草っぽい」
千草はまばたきをした。渚がそういう言い方をしたことに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……ありがと、渚」
「何が?」
「そう言ってくれて」
渚は照れくさそうに笑って、「別に普通のこと言っただけじゃん」と肩をすくめた。
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演劇部。放課後。
部員は四人のまま。新入部員は来年度に期待するしかない。でも千草は、以前のように一人で全部を抱え込むことをやめていた。
「渚、この台本のここ、渚の方がいいアイデア出ると思う。考えてみてくれない?」
渚が目を丸くした。
「千草が人に振るの、珍しくない?」
「そう? あたしだけでやるより、渚の意見入った方がいいもん」
「……うちに任せて!」
渚が嬉しそうに台本を受け取った。千草はそれを見て、肩の力が少しだけ抜けた。
渚に「千草がやらないと誰がやるの」と言われたことがある。あの時は、千草もそう思っていた。自分がやらないと回らない。自分が全部やるしかない。
今は違う。「これ、手伝って」と言える。「一緒にやろう」と言える。それが弱さではないことを、千草は知った。
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父親とは、ビデオ通話で話すようになった。
九州に引っ越した父の背景に、見慣れない部屋が映っている。段ボールはまだ片付いていない。でも父はいつも通り寡黙で、いつも通りココアのマグカップを持っていた。画面越しでもココアの湯気が見える。
「そっちの生活どう?」
「まあまあだ。魚がうまい」
「汐浦も魚おいしいよ」
「そうだな」
千草は画面の中の父を見た。遠い。電車で一時間半だった距離が、飛行機の距離になった。月に二回会えていたのが、もう何ヶ月も会えていない。
「お父さん」
「ん」
「あたし、最近ちょっと泣き虫になった」
父は少し驚いた顔をした。それから笑った。
「お前は昔から泣き虫だったぞ」
「……そうだっけ」
「小さい頃、水族館でイルカショーの水しぶきがかかって大泣きしただろ。びしょ濡れになって」
千草は目を瞬いた。覚えている。でも千草の記憶では、三人で笑っていたはずだった。
「泣いてたの? あたし」
「大泣きだ。お母さんが慌ててタオル出して。俺も濡れてたけど、お前を拭くのが先だった」
「……全然覚えてない」
「そうか。まあ、小さかったからな」
千草は画面の中の父に笑いかけた。以前の笑顔とは違う。もっと静かで、もっと素朴な笑顔。
「泣いてもいいんだって、最近わかった」
父は黙った。少し長い沈黙の後、「そうか」とだけ言った。それだけで、十分だった。
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放課後。千草は水族館に向かった。バイトのシフトに復帰している。以前ほどシフトを詰め込むことはやめた。週に三日。それで十分だ。
閉館後。イルカの水槽の前。いつもの場所。
でも今日は、帆波が隣にいる。
二人は並んで座っている。壁にもたれて。タイルの冷たさが太腿の裏に沁みる。もう慣れた冷たさ。硝子の向こうでイルカが泳いでいる。水の揺らめきが二人の顔に青い影を落としている。ポンプの低い振動が、床と壁を通して体に伝わってくる。
「ねえ」
「ん」
「イルカって、口の形のせいでいつも笑ってるように見えるって言ったじゃん」
「うん」
「でもさ、もしかしたら、本当に笑ってる時もあると思うんだよね」
帆波が千草を見た。
「嬉しい時とか、仲間と泳いでる時とか。外からは区別つかないけど、本人にはわかるんじゃないかな。構造としての笑顔と、感情としての笑顔。同じ形でも、中身が違う」
「……かもね」
「あたしも、前は全部作り笑いだった。構造としての笑顔。でも今は、今笑ってるのは、本物」
「声もそう。あたし、やっと自分の声で喋れてる気がする」
千草は笑っていた。水槽の光の中で。小さくて、不格好で、完璧じゃない笑顔。でも本物。
「わかるよ」
帆波が言った。
「え、わかるの?」
「千草の笑顔は、二種類ある。作った笑顔は口から始まる。本物の笑顔は目から始まる」
千草の頬が熱くなった。耳の先まで。
「……あんた、どんだけ見てたのよ」
「ずっと」
千草は帆波の肩を軽く叩いた。帆波は避けなかった。
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帆波は千草の横顔を見ていた。水槽の青い光の中で、千草は笑っている。目から始まる笑顔で。
帆波はこの町に来て半年。転校は慣れていた。どの町でも、誰とも深く関わらず、一人で過ごして、次の町へ行く。そういうものだと思っていた。人との距離を保つことが、帆波の生き方だった。
でも、この水槽の前に、離れたくない人がいる。
千草がこちらを向いた。
「帆波」
「何?」
「……あのさ。前にあたし、イルカに言ってたの。『あたしと一緒だね、いつも笑ってるから』って」
「うん」
「でも、もうイルカとは違う。だって」
千草が帆波の手に、自分の手を重ねた。
床の上で。指先が触れて、それから手のひらが重なる。千草の手は温かかった。帆波が千草の部屋を訪ねた日、千草の手は布団の温もりで温かかった。でも今の温かさは違う。体の内側から、ちゃんと温まっている手。
「あたし、笑いたくない時は笑わない。泣きたい時は泣く。そう決めた。帆波のおかげで」
「私は何もしてないよ」
「したよ。あたしの、笑ってない顔を、好きだって言ってくれた」
帆波の指先が震えた。千草の手の温かさが、掌から腕を通って胸の奥まで届く。
「だからあたしも言う」
千草が帆波を見た。
笑顔ではなかった。
真剣な、まっすぐな目。口角は上がっていない。作っていない。飾っていない。何の仮面もない千草の顔。水族館の青い光が頬を照らしていて、目が少しだけ潤んでいる。
「帆波のことが好き」
帆波の呼吸が止まった。
「笑ってない顔で言う。これが、あたしの本当の気持ち」
帆波の目から涙がこぼれた。前に千草の前で涙を見せた時は、こぼれなかった。目の縁が赤くなっただけだった。でも今度は、一粒、はっきりと。頬を伝って、顎から落ちた。
「……ずるい。泣かせないでよ」
「帆波だってあたしのこと泣かせたじゃん。おあいこ」
帆波が笑った。泣きながら。涙の跡がある頬で、口元が緩んで、目が細くなって。帆波の笑顔を、こんなにはっきりした笑顔を、千草は初めて見た。
千草も笑った。泣きながら。
二人で泣いて、二人で笑って。手を重ねたまま。硝子の向こうでイルカが泳いでいる。ソラが水面に浮上して、プシュ、と呼吸する音がした。水面から顔を出して、息を吸って、また潜っていく。
水槽の青い光が、二人を包んでいる。
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朝。
三月。汐浦の海岸。
朝日が水平線から昇る。低い角度の光が海面に触れて、淡い色が広がっていく。オレンジでも白でもない、青みがかった緑。千草色。あの淡い青緑の光が、海と空の境界に滲んでいく。
千草と帆波が並んで歩いている。通学路。海沿いの道。
潮風。波の音。遠くでカモメが鳴いている。空気はまだ冷たいけれど、潮の匂いが冬の鋭さを失って、どこか甘い。春の光。頬に当たる風が、冬よりも少しだけ柔らかい。
千草は制服の上にマフラーを巻いている。帆波はカーディガンの前を合わせている。二人の影が朝日に照らされて、道の上に長く伸びている。並んだ影。
手を繋いでいた。
いつからそうなったのか、はっきりとは覚えていない。水族館を出た時か、坂を上り始めた時か。気がついたら指が絡んでいた。帆波の手は今朝も少し冷たくて、千草の手は温かかった。繋いだところから、二つの温度が混ざっていく。
「今日、いい天気だね」
「うん」
「帆波」
「何?」
「……笑っていい?」
帆波が千草を見た。少しだけ目を細めて。
「聞かなくていいよ。笑いたい時に笑えば」
千草は笑った。
朝の光の中で。海を背にして。誰のためでもなく、ただ笑いたいから笑った。目から始まる笑顔。口角の角度なんか気にしない、不格好で、自由で、千草だけの笑顔。
帆波がその笑顔を見て、何も言わなかった。ただ、手を少しだけ強く握った。
二人は坂を上っていく。学校に向かって。海沿いの道を、並んで。
歩いているのは、砂浜じゃなく、アスファルトの通学路。足跡は、もう波に消されない。
水面が光っている。朝日を受けて。
千草色に。




