127 「久しぶりの学園へ」
・竜歴二九〇四年八月二十一日
人が近づく気配と共に、陶器が軽く触れ合う音が響いてくる。
膳に乗せられた食器が奏でる音色だ。そしてそれ以上に、良い匂いが漂ってくる。
「いい加減起きてください、先輩」
「……ん〜。何時、甲斐くん?」
先輩と呼ばれると、食器の音がする隣の部屋の真ん中にある布団から頭が出てくる。その耳は上に大きく伸び、彼女が天狗である事を示していた。
「9時前です。昨日も言いましたけど、今日は午後3時に皇立魔導学園に行くまでに、洗濯と買い物を済ませておきたいんですけど」
「相変わらずマメね。料理もそうだけど、国が付けてくれた従兵や使用人を呼んでさせればいいでしょ」
「留守中はね。でも、僕が一人でするの好きなの知ってるでしょ」
「うん。だから、こうしてご飯にありつく為にしけ込んでもいるもの」
「エ〜ッ、ご飯が目当て?」。情けない表情で御膳を置く甲斐に、冗談と分かっていても鞍馬は思わず吹き出す。
「冗談。昨晩も久しぶりで大満足よっ」
「そりゃどうも。取り敢えず、朝ご飯できたので何か着てください」
鞍馬は「はーい」と少女のように返して、生まれたままの姿で布団から起き上がった。
「街中の雰囲気、出発前とは少し違っているわね」
「5ヶ月経ったとはいえ、今までの任務にはなかった変化ですね」
その後、主に甲斐が忙しげに予定をこなしてから、市電に揺られつつ甲斐と鞍馬は変と思われない程度に周囲の様子を観察する。
街の様子は、二人が話す通り以前と違っていた。
まず、円を描く竜を意匠化した国旗と軍旗がそこかしこに掲揚されている。さらに「必勝」や「祝 戦勝」「武運長久」などといった幟が各所にあり、建物には垂れ幕、横断幕がかけられていた。
近代化したアキツが初めて体験する戦争なので、意識の高揚を感じさせた。
「こんなアキツ、初めて見るわ」
「これが戦争をしている国の姿なんでしょうか」
「極西の分裂戦争は戦時一色だったって、従軍した人から聞いた事はあるわ」
「この戦争、今のところかもしれませんが西方での戦争と同じで、軍隊同士の戦争だと思ってました。でも違っていたんでしょうか」
「私には分からないわ。甲斐と同じ景色以外、見たことないもの」
それで会話は途切れ、なんとなくあまり話をしないまま金剛達のいる皇立魔導学園に到着した。
今は夏休み中だが、一般の授業や講義がないだけで学園の雰囲気は多少人が少ないという程度だった。
「さあ? 私は山にいるか、戦地にしか行ったことがない。戦のおりの民の姿となると、今話した極西か戦国の世になるな。戦国の頃は兵が民を襲っていたから、見かけたら兵士を追い払ったものだ」
学園内にある大食堂の一角の喫茶で、大剣豪にして大天狗の金剛がいつもの飄々とした調子で昔を思い返している。
その両脇には二対の竜のツノを隠す頭に大きめの被り物をした三之御子と、天狗で金髪のお人形のような容姿のアナスタシアが座っている。
その対面に鞍馬と甲斐が座る。
以前と違うのは、大食堂の出入り口の外に2名の警官がいる事。御子の護衛は金剛一人でお釣りが有り余るのだが、交戦国の姫君に対する護衛という名の監視だった。
タルタリア大使館も既に閉じているので、アキツ政府が用意した居館以外ではこの学園にしか行く事もできない。
特に、金剛が三之御子について黒竜に行っている間に、締め付けが強まったと『念話』で金剛から聞いていた。
何しろアナスタシアは、実質的に廃嫡とされているとはいえタルタリア帝国の第三皇女、アナスタシア・ソフィア・アレクセーエヴナ大公女だった。
だからだろう、好物と言った栗羊羹を食べているというのに幼い顔は冴えない。
再会した時も、自身も黒竜に赴いていた三之御子が元気に迎えてくれたのに対して、アナスタシアは交戦国の皇女という事を踏まえても顔色は冴えなかった。
「戦国の世が去って天下泰平になると、アキツの民は戦争から遠ざかりましたからね。今回も外での戦争なので、関心が薄いと思っていました」
「タルタリアの軍艦がアキツの港町を砲撃したので、アキツの民は戦争に強い関心を持つようになったと、先生に無理を申し上げて聞きました」
「あの時は大変だったよねー。街中は行進とか演説で大騒ぎは、私もアナも学園に行けなかったのよ」
甲斐の言葉に、アナスタシア、三之御子がそれぞれの視点の言葉を重ねるが、戦地にいた二人は初めて聞く普通の意見なのもあって深く頷かされる。
だから思わず二人同時に、「そうだったのですね」と同じ言葉が出た。
「うん。前線には伝わってないの?」
「伝わっていました。要塞まで新聞は届いていましたから。ですが、こうして生の声を聞くと実感が深まります」
「それに前線にまで新聞が届くのは呑気に思え、本国では戦争の機運が弱いのかとも」
「『久寿里を忘れるな』、だったか。戦で民にも犠牲が出るのは致し方ないだろうに、国も報道も国、種族の間での対立を煽っているように思える。こうして分かり合えるのにな」
三人の大人のうち、金剛はそう言うと隣に座るアナスタシアの頭を軽く撫でる。
「僕が一部の方から受けた印象では、国と軍は幕引きをしたいようです。ですが、アキツの民は少し違っているというのが、国に戻って実感できました」
「それにタルタリアや西方列強の多くでは、アキツ以上に戦争機運が高いようです」
「鞍馬様は、アキツ国外の情報に触れられるのですか?」
アナスタシアの問いに、鞍馬は慎重に頷く。
アナスタシアは辛うじて学園に通えているが、情報からは遮断されていると事前の『念話』で金剛から聞いていたからだ。
「はい。それにアキツは、交通も情報の出入りに制限しておりません。政府、軍に関わらなければ、民だけでなく外国人でも自由です。タルタリア国内の新聞は、電信での速報以外は随分前のものになりますけれど」
「そのタルタリアでは、アキツ人を追い出すか軟禁していると聞きましたが、アキツは違うのですね」
「タルタリアの方が普通の対応です。アキツは他国に気を回し過ぎなのですよ」
甲斐が少し戯けて話すと、アナスタシアは半ば付き合いで小さく笑みを浮かべる。
「お陰で私もこうして学園に通えています」
「学園は自由だもんね。竜宮はピリピリしているから、私もここが唯一の癒しよ」
「学園は中立だし、子供には学ぶ事が必要という事くらいこの国は理解している。白峰山の太郎坊にも念を押させた」
今度は二人をなでながらの金剛だが、白峰山の太郎坊とは白峰太政官なのに、彼より長く生きる金剛にかかれば子供同然となってしまう。
それに半ば引き気味の笑顔を返しつつも、鞍馬は気になる事を口にする事にした。
「ところでアナスタシア様、金剛と三之御子様が黒竜に出征されていたおり、白峰様がお訪ねになられたとお聞きしましたが、他にも訪ねてきた方はおられましたか?」
「白峰太政官様は天狗のよしみだだと言われ、不自由はしていないか、心苦しく思うと、たいそう心配して下さいました。他にも大天狗か天狗の方が何人も」
「その中にタルタリアや西方の方は?」
「幾人か。でもアキツ政府の方が素性は確認しているとの事でしたし、皆良い方々でした」
鞍馬も天狗だから自身を心配してくれるのだろう、という程度のアナスタシアの言葉と態度だが、鞍馬の中では少し懸念が増えた。
「それは安心致しました」と返しつつも、内心では(メグレズも接触してきたのかしら)と思い、確認できるならしようと決意した。
(メグレズが何をしようと勝手だけど、皇族とはいえ子供を巻き込むようなら私にも考えがあるわよ)
そんな事を思って今後の休暇の計画を思い描いた蔵馬だったが、甲斐と共に金剛の前に正座させられていた。
場所は学園内の離れの一つ。貴人も通う学園なので、ちょっとした別荘のような建物が各所にある。
金剛はなるべく三之御子とアナスタシアを一緒に居させるため、放課後になるとおやつの後は自習か昼寝をさせていた。
そして二人を昼寝させて隣の部屋に誘われた二人は、てっきり以前のような手合わせだろうと思っていたので、少しばかり意外だった。
「別に正座しなくてもいい。少し話しがしたいだけだ」
楽な姿勢で座る金剛の言葉に軽く目を見開く鞍馬だったが、それは金剛が話だけをしたいという事が珍しいからだ。
そんな鞍馬を見て、甲斐も珍しい事なのだと感じていた。
とはいえ、相手は大剣豪。取り敢えず、正座の姿勢を維持する。
「子供たちの前で話せないし、私は『念話』はあまり得意ではないからな。それとこの建物は外の警官以外は人は寄りつかないように言ってある。まあ、後で軽く戦場を経験した腕を見させてくれ」
「はい。それで、どのようなお話しでしょうか?」
「やはりアナスタシア様でしょうか?」
二人して真剣な面持ちで聞くも、金剛は首を何度か横に振り緩やかに笑みを返す。
「私が戦地での話を聞きたいだけだ。血生臭い話は、子供たちには聞かせられないから。それと、アナスタシアに関しては、私が出来る限り子供らしく過ごせるように力を尽くす。国に仕える二人が気にしてはいけないよ」
「はい、それでは。そうですね、せっかく3段の免許を頂いたのに、刀よりも銃を使う事の方が多かったように思います」
「私も術ばかりでした」
「銃は予想していたが術も?」
「相手は只人。魔法は呪具便りの素人ばかりで、夜中心ですが術は重宝しました」
「そうか。私も術を学び直すかな」
そう返した金剛は、何度も頷きつつ口元には笑みに近いものが浮かんでいた。
そしてそれはからは、子供達が起きるまでの1時間以上金剛に戦場の土産話をして、休暇中は出来る限り顔を出すと約束してから二人は学園を後にした。