125 「捕虜の治療(1)」
・竜歴二九〇四年八月上旬
「諸条約に従い、これよりタルタリア軍捕虜傷病者への医療行為を実施します」
「医療行為、感謝致します」
医療の徽章と肩章、それに分かりやすい白衣を着た軍医将校が、似たような姿の軍医将校と挨拶を交わす。
アキツ軍とタルタリア軍の軍医将校で、どちらも軍医少佐の階級章を付けていた。徽章と軍の階級は近代国家間では共通だが、アキツ側の軍医が天狗な点が違っていた。
「戦争協定とレマン条約、特にレマン条約は捕虜の傷病者の扱いを定めています。当然とお考え下さい」
「はい。存じています。ですがそれでも感謝致します」
「それほど状況が悪いのですか?」
「お恥ずかしい限りです。まずはご説明を……」
「詳細は後で。まずは緊急を要する傷病者の元へ。十分ではありませんが、術医と看護兵、それに各種魔法薬、衛生品を用意しました。術医の半数は近代医学、薬学も納めています」
言葉を遮断した後のアキツ側の軍医将校の言葉に、タルタリア側の軍医将校の顔が明るくなる。
「助かります。我々の近代医療ではどうにもならない傷病者も少なくありません。では、それぞれ案内を付けますので、お願いします」
同じような情景は、山岳要塞から撤退中を包囲されたタルタリア軍部隊の各所で見られた。同じ情景は大量の負傷兵がいる幌梅でも見られ、この情景は幌梅のものだった。
アキツ側は、各師団や軍や総司令部直轄の野戦病院と衛生兵の半数以上をタルタリア軍の捕虜の傷病兵に向けていた。
既に戦闘は終了し、アキツ軍の自軍の傷病兵への対応が峠を越えたからでもあるが、捕虜に対して手厚い対応で野戦病院の約半分が任務に当たっていた。
他国の軍隊では、戦闘数日でこれだけの事は物理的に不可能だった。
それだけ魔術による治癒、治療は素早く対処でき、傷病者の術後も短期間で済むからだ。
もっとも、アキツ側には問題があった。
自軍将兵の治癒で、現場の水薬と霊薬をかなり消耗している。
様々な治癒魔術が使える術医、特に重傷者を癒せる術医も、捕虜としたタルタリア軍の膨大な数の傷病者に対して十分な数はいなかった。
また、アキツの医療体制は、近代科学による近代医療を大幅に取り入れているとはいえ、魔法を基本としている点も問題だった。
様々な治癒魔術、魔法の薬、簡単な止血の為の札、全てが魔力を持つ種族、つまり亜人、魔人に対応したものだった。当然、魔力を全く持たない只人に対応していない。
治癒魔術、魔法の薬は只人にも有効だが、効果はかなり低くなる。
そして魔法による治癒、治療を重視しているので、近代医療に必要とされる道具や器具、何より衛生品が近代医療ほど十分に用意されていなかった。
しかも医療以外でも、アキツは魔法で溢れている。
アキツでは、10人に1人は簡単ながら魔術が使え、魔術には、一般的な魔術、生活魔術とすら通称される魔術がある。
高難度の治癒魔術を使う術医などと呼ばれる魔術師は、治療魔術以外にも様々な魔術が使えた。浄水や身を清潔に保つ魔術なども含まれる。
一方で近代医療に不可欠な衛生品としては、この時代は包帯、脱脂綿、アルコールが代表的だろう。他に清潔さを保つための洗剤(石けん)、大量の布、手拭い、寝床の敷布、さらには替えの衣服や手袋、清掃道具も含まれる。
そしてアキツでは、簡単な治療には患者の魔力に依存した術が施された札を用いる。街中でも安価に手に入るもので、広く普及していた。
そして専門の術医や本格的な治癒札によりかなりの傷でも止血程度の治癒なら短時間で出来るので、脱脂綿や包帯があまり必要ない。消毒の為のアルコールは相応に用意されているし、清潔に保つ品も相応にあるが、魔力と魔術を持たないタルタリアとは大きく違っていた。
タルタリアでも、只人にも相応に効果を発揮する水薬や霊薬は輸入して使われていたが、高級品なので軍隊の医療に大量に導入できるものではなかった。
術医に至っては基本的におらず、僅かにスタニアに住む半獣が民間療法程度の治癒魔術を使うくらいでしかなかった。
しかし問題はその程度ではなかった。
「軍医殿、あちらに行かなくとも構わないのですか?」
かなりの広さの野戦病院で案内を受けた多々羅の軍医に、従っていた半獣の看護兵が鼻を小さく動かしつつ問いかける。
衛生兵を少し見上げた軍医は、その看護兵の知覚力に信頼を置いているので何を言わんとしているのかすぐに分かった。
だから、案内役のタルタリア軍将校へ問いかける。
彼は左腕を布で吊っていた。
「中尉、私の部下があちらに行くべきではないかと進言した。状況を確認したいのだが、案内を頼めるか」
タルタリア語が出来るのは、その場で軍医だけなのも問いかけた理由だ。
「はい。軍医少佐殿。しかし、案内する先の傷病者をお願いします。あちらは、その後頼む事になるでしょう」
だから「了解した」と軍医は返答して看護兵に翻訳してやる。だが看護兵は「はい」とは言っても「了解」とは答えなかった。
「行き先に比べて、あちらは随分血の臭いがします。それに肉が腐った臭いも。あと、アルコールや医薬品の臭いがあまりなく、なんというか不衛生な臭いもしてきます」
「そうか。それに天幕の数から考えて、人数も随分と多そうだな」
「はい。よろしいのですか?」
「我々も頭数が少なく手が足りない。それにだ、捕虜と言っても名誉を汚すような事は簡単には出来ない。案内人は将校で、これは万国共通だ」
不満そうだが、衛生兵は今度こそ「了解しました」と返事した。
そうした情景は各所で見られた。
そしてその軍医とその一行が案内された先は、家屋に設営された野戦病院。玄関に置かれた木製の簡素な板切れに書かれた標識が、その証だ。
民間の家を接収したものだが、家主らしき者はいない。
家畜小屋と一体化したらしいかなりの広さの単純な木造家屋内には、30名ほどの傷病者。全員が寝床もしくは軍用の簡易寝床の上に寝かされている。
それに対して、軍曹を頭に看護兵がいるだけ。
「軍曹、ここの担当医と話をしたい」
「ハッ。自分が担当です。軍医少佐殿」
「軍曹は医者なのか?」
「はい。いいえ違います。担当軍医殿は、現在別棟で任務中です。今は代理で自分がこの棟を担当しています。では早速、重い傷病兵へご案内します。軍医少佐殿」
「あ、ああ」と返事をした多々羅の軍医だったが、正直面食らっていた。
しかし、アキツの軍医や看護兵たちの中では、彼の受けた衝撃はまだ小さなものだった。
傷病者の全員が将校なので、掛け持ちでも担当軍医がおり看護兵の数も多く、医療体制はそれなりに整っていたからだ。