119 「戦い終わって。そして」
・竜歴二九〇四年八月九日
「馬鹿な」
「信じられん」
「あり得ない」
「魔物の戯言だ」
「現地の報告を待つべきだ」
8月の初旬、タルタリア中で同じ様な言葉が繰り返されていた。
アキツ勢力圏の黒竜地域に侵攻したタルタリア軍約40万の兵力が、軍事的、政治的にはほぼ一瞬で包囲殲滅されてしまったと考えられたからだ。
しかし呆然としてばかりもいられない。
「それでどれくらいが逃げられた?」
「逃げたのではありません。部隊再編の為に転進したのです!」
内務尚書ヴィクトル・カリーニンの端的な質問に、陸軍尚書アリョーシャ・ウスチノフが噛み付くように反論する。
前者はかなり疲れている様子に見え、後者に心の余裕は全くない。この二人以外には、状況を知るべく外務尚書ニコライ・キーロフ、財務尚書セルゲイ・フルンゼらの主な閣僚がいた。
しかし皇帝ゲオルギー2世の姿はない。皇帝は教会で祈りを捧げていると、皆には知らされていた。
(喚いて事態が変わるなら、私も喚きたいほどだな。それに祈ったところで、何かが起きる筈もない。神頼みが通じるのは、むしろアキツの方だ。決戦では竜の力と思われる、広く大きな魔力反応が観測されたとアルビオンから知らせもきた。だがアルビオンが何かを教えてきたという事は、今回はアキツが勝ちすぎた証。それにこれで戦争を収めて欲しいという希望だろうな)
相手の返事がないので、カリーニン内務尚書は思考の片隅で様々な思いを巡らせる。
しかし正確な情報と数字が欲しいのも事実なので、他の者へと視線を向ける。するとキーロフ外務尚書と一瞬目が合った。
「ウスチノフ陸軍尚書、我々は正確な情報がなければ動けないのです。アキツからも、詳細な発表はされておりません。総司令官のカーラ元帥は?」
「現在、前線及び国境近辺は電信、野戦電話共に途切れ、残念ながら詳細は不明。アキツ軍の簡単な発表のみというのが実情です。現状分かるのは7月29日にアキツ軍の反撃が開始され、ほぼ同時に敵地での電信、野戦電話が不通となり、8月2日にはダウリヤから友軍が撤退を開始。現在、極東サハ地域でも散発的な戦闘が続いているという事です」
「内務省でも、帝国領内へのアキツ軍の侵攻は確認している。現地からの電信では、アキツ軍は既にタルタリア帝国領内を鉄道沿線沿いに50キロメートル近く侵攻。ただ、現地からは軍の姿は多くは見られないと」
「既に本国より1個師団が移動。後退した部隊の一部の再編成も実施。さらに、5日で1個師団を送るべく急がせております」
続いたカリーニン内務尚書の言葉に、ウスチノフ陸軍尚書が言葉の後半から声を被せてくる。
だが誰も納得してはいない。カリーニンが代表する。
「それでも敵の精鋭部隊が至るまで2個師団。守れますかな?」
「必ずや。ダウリヤから撤退した部隊からの報告では、敵の精鋭といっても数は精々数百と報告が上がっております」
「だがその精々数百に、ダウリヤにいた2個師団が敗退して現在後退中。しかも追撃を受けてその数を減らし続け、敵部隊の詳細すら判然としないとの未確認の報告がありますが、如何か?」
「そ、それは……」
地方行政、警察も預かるカリーニン内務尚書は、国内では軍よりも高い情報収集能力があるので、正確な情報に乏しいウスチノフ陸軍尚書は返答に窮せざるを得なくなる。
しかしカリーニンは、小さく嘆息するに留めた。
「正確な情報が入ってから、もう一度集まる方が良さそうですな。それよりも、アキツ軍が帝国領内に侵攻している事そのものが問題ではありませんかな」
周りを見渡すと全員が頷く。
「外務省は、各国とも連携しアキツの意図を細大漏らさず収集しております」
キーロフ外務尚書が即座にそう返す。
それにカリーニンは頷き返し、言葉を続ける。
「陛下がお決めになるとはいえ、戦い続けるのか矛を収めるのかについて、それぞれの省庁で意見を取りまとめ、明日にもう一度集まるというのは如何ですかな?」
「そうですな。我々の一存では何も決められない。しかし内務尚書は、既にお考えがあるようにお見受けしますが?」
「いいえ。状況が見えないので、何とも」
首をゆっくりと横に振り、それが閣僚たちの集まりの解散の合図となった。
そして談話室を出て広間を進むカリーニンだったが、その内心は流石に穏やかではなかった。
(開戦から僅か4ヶ月で全軍の二割を失うなど、変化が大きすぎる。それにしても、アキツがこれほど積極的に動くとは。冬までに攻めきれずに反撃を受けて国境まで押し返される程度を想定していたが、根本的に考えを改めなくてはな……)
その後、さらに一週間して、現地からの報告が正確にタルタリアに伝わった。アキツは常に最新の情報を詳しく知っていたが、それを他国に漏らすことなく勝利を利用して作戦行動を進めた。
だが、タルタリアが知ったであろう頃に、世界に対して戦争がどうなったのかを、タルタリアが知りたい情報を一部加えて発表した。
黒竜に進軍していたタルタリア軍は、その殆どが壊滅するかアキツの捕虜となった。侵攻したのは軍の戦闘部隊が約40万名。物資輸送の為の輸卒(輸送兵)、傭人が約15万名。鉄道敷設の関係者、人夫などが5万名。
合わせて約60万名で、鉄道工事の関係もあり大半が幌梅より東にいた。このうち大半がアキツ軍に包囲され、降伏か追撃での撃破のどちらかとなる。
そしてアキツ軍が得た捕虜の数は、軍人以外も含め実に50万名を数えた。だが、それ以外の10万名以上のうち戦闘での戦死者は、タルタリア軍が包囲か逃げるという損害が出やすい状況でも3万名程度。
それ以外は、アキツ軍の包囲や攻撃を逃れるもアキツ軍のいない主街道を離れた後退中に荒野で力尽きた者が大半を占めた。
また逆に、追撃してきたアキツ軍に幌梅で降伏した大多数の中には、第一次総攻撃の負傷者3万名も含まれている。
結局、撤退に成功したのは騎兵と騎馬を合わせた約2万名以外は、ごく限られた数でしかなかった。
また退却に際してタルタリア軍は破壊する時間がなかった為、膨大な物資、兵器、弾薬、鉄道貨車、馬車、それに駄馬などが、捕虜と共にアキツ軍の手に落ちた。
鉄道貨車だけでも、大半が完成した軽便鉄道と残りの建設資材だけでなく、片道運行をひたすら続けて各所に溜まり続けた1000両の蒸気機関車、約2万両の貨車、客車が手に入った。蒸気機関車は半数が石炭式なのでアキツではあまり使えないが、タルタリアが失ったというのは大きい。
軍の装備についても、使えるかどうかはともかく十数個師団ぶんの装備がアキツ軍の手に落ちた。
ただ、膨大な捕虜のうち負傷者が10万名もいた。そして捕虜である以上、アキツ国は戦争条約、国際法に従って治療しなければならず、捕虜の多さと合わせて大きな誤算となった。
そして8月下旬までに落ち着いた戦線だが、タルタリア軍が苦労して軽便鉄道を敷設していた影響もあるが、アキツ軍というより亜人の軍隊の真骨頂が発揮された。
簡単にいえば、1日の行軍距離が只人と決定的に違うのだ。66パーセントも高いので、約10日でタルタリアとの境界線に達し、さらに1週間で先鋒の精鋭部隊がタルタリア軍を蹴散らして確保していた場所まで急激に進撃した。
もちろん、鉄道による補給体制が殆ど整っていないので、全軍が進撃できたわけではない。
だがタルタリア軍が3個師団を急ぎ移送して展開するまでに、同数の戦力を対抗させる事ができた。
そしてタルタリア国境から80キロメートル近く入った場所が、新たな最前線だった。
「大隊諸君、朗報と悲報がある。どちらが先が良い?」
タルタリア領内に入り込んだ最前線で、甲斐は彼が率いる特務旅団第1大隊の将兵を前に笑みを浮かべる。
「悲報なら幾らでも思い浮かぶんですがね」
一番に軽口で返したのは、甲斐との付き合いが長い磐城。
それに嵐が小さく皮肉げな笑みを浮かべる。
「朗報と言っても、前線送り、手柄たて放題とかでしょう?」
「それ悲報でしょ。僕ら手柄立てても勲章一つ貰えないのに」
「特配や物的な褒美ならあるかもしれませんわよ。今回は皆頑張りましたもの」
細目のままの不知火の皮肉げな口調に全員が納得しかけたところに、天草がやんわりとしたいつもの口調で被せる。そうすると、その辺りだろうと全員の雰囲気が出来上がる。
それを見つつ、鞍馬が隣の甲斐の言葉を視線で促す。
もはや定番となりつつある、大隊幹部のやりとりだ。
そして甲斐が苦笑混じりに再び口を開いた。
「どれもハズレだ。まずは朗報だが、僕らの本国への帰還が決まった。軍が蛭子に無茶な戦闘をさせたという事で、太政官の白峰様がお怒りになり引き揚げを命じられたそうだ」
「本当ですかい?」
思わず磐城が相槌の様に問いかけると甲斐も頷き返す。
「一面ではな。一方で軍は、僕らだけ引き揚げさせては軍全体としての体裁が悪い。だから、戦功の一環としての休暇という形を取り、加えて功績大なりという事で褒めてもらえるそうだ」
「上の玩具って事か。朗報じゃなくて悲報の間違いじゃないんですか、大隊長?」
「雷さんは戦いはこれから本番だろうと怒り心頭らしいから、悲報といえば悲報だな」
「それで本当の悲報の方は?」
不知火の皮肉に甲斐が混ぜかえすも、嵐のいつものと言える少し冷めた口調で少し浮かれかけた場の空気が鎮まる。
そして全員が甲斐に注目した。
「そう見つめるな。戦争はまだ続く、というだけの話だ」
「我が国は戦争の収めどきと考え、陛下が親書をお出ししてもという話まで出たのですが、その前にタルタリアがアキツ軍のタルタリア領内からの全面撤退、捕虜及び押収品の即時全面返還が交渉の最低条件だと伝えてきたそうです」
隣の鞍馬が全く足りていない情報を補足すると、甲斐はさらに続ける。
「僕個人としては、戦前と何も変わらない白紙講和なら別に構わないんじゃないかとも思うんだが、世の中そうもいかないらしい。勝手に攻めてきて、負けた上に勝手な言い分だと上は相当お冠だそうだ。村雨さんも僕と同意見で、頭を抱えていたよ。まあ、色々とな」
「戦争、続くんだー」
一見呑気な朧の声が、却って現実感が大隊全体に実感させる。その影響で、空気がさらに少し静まった。
だからこそ甲斐は、指揮官として見栄を張るべきで、部下の士気を高めなければと感じた。というよりも、今後の話をすると決まった時点である程度予測はついていた。
「そうだ。だが、僕らが気にする事ではない。まずは、戦いの勝利と、そして何より一人も欠ける事なく国へ帰れる事を喜ぼう。もっとも、どうせすぐに前線に戻されるだろうから、戻ったら英気を養うんだな。では解散! 大隊諸君、国に帰るぞ」
「「ハッ!」」
■第二部「極東戦争編(1)」了