偽りの結婚生活
結婚式は、村の教会で、身内だけでひっそりと行われた。
身寄りのない伯爵には参列してくれる親族もなく、うちも件の借金騒動で親戚衆からは距離を置かれている。幾分、簡素な式にはなるが、これも致し方のないことだった。
別に構わない。わたしたちは『愛し合って』結ばれた夫婦とは違うのだから。
憧れだった純白のウェディングドレスを着られるのは嬉しいけれど、望んでいた結婚の形とは違う――いや、そもそも、これは結婚じゃない、結婚の名を借りた『人身御供』だ。
わたしは、その生贄。
愛する父と母、そして生まれ育ったあの家を守るために、犠牲にされたにすぎない可哀想な娘。
だけれど、不思議と、涙は出なかった。隣を歩くお父様が、うっすらと涙ぐんでいるのを見たせいかもしれない。嘘でしょう。あの気丈な父が、泣いている?
「おまえも、いよいよ嫁に行くのだな……」
やめてよ。そんな神妙な言い方をしないで。こっちまで悲しくなってしまう。
本当は、わたしだって、こんな形で結婚式を迎えたくなどなかった。普通に恋をして、愛する人と結ばれて、幸せな気持ちでお嫁に行きたかった。それができなかったのは、ひとえに、あの忌まわしい借金と持参金泥棒のせいだ。
「こんな形で嫁に出すことを、どうか許してほしい。お父さんもお母さんも、少々世間のことを知らな過ぎた。大切な一人娘であるはずのおまえまで巻き込んで、将来の結婚の持参金にするはずの貯金を奪われ、多額の負債を抱え、挙句の果てに、よく知りもしない男のところへ嫁がせようとしている。わしは最低の父親だよ」
父の背中が、いつになく、小さく見えた。
「こんなわしが言うのもなんだが、幸せになりなさい。おまえの人生は、おまえだけのものなんだから」
「お父様……」
やっぱり、父を放ってはおけない。絶対にこの結婚を成功させて、伯爵に取り入ってみせる。そして、逃亡資金が貯まったらすぐに、両親を連れて遠いところへ逃げるのだ。
バージンロードを歩いていくと、道の中ほどに、夫となる人――すなわち、アレキサンドリア伯爵――が立っていた。仕立てのいいフロックコートに身を包み、髪をきっちりと撫でつけて、そして……なぜか、大きな仮面を身に着けている。
しかし、牧師さまはそんなことなど気にもならない様子で、聖書の言葉を述べ、誓いの言葉を訊ねた。
「汝、ライアンは、ここにいるアンジュを妻とし、病める時も健やかなる時も、お互いを愛し、支え合うことを誓いますか」
「誓います」
初めて聞いた伯爵さまの声。思ったよりも低い、だけど、どこか心地よい声だ。なのに、その大きすぎる仮面のせいで、表情は窺い知ることができない。彼は何を考えているの?
「……アンジュ。アンジュ!」
「はいっ!?」
耳元で名前を呼ばれて、ハッとした。わたし、いま、何してた?
「では、もう一度伺いましょう。汝、アンジュ、ここにいるライアンを夫とし、病める時も健やかなる時も、お互いを愛し、支え合うことを誓いますか」
お互いを……。
なんて、薄っぺらい言葉だろう。わたしたちのあいだに『愛』なんて、最初から存在していないというのに。
でも、ここは、あくまでも『貞淑な妻』を演じ続けなければならない。
「……誓います」
指輪を受け取り、わたしからも指輪をはめる。左手の薬指に光るピンクダイアモンドの指輪を見ると、結婚したのだ、という実感がいよいよ芽生えてきた。
夢にまで見ていたはずの結婚。
その実態は、実家の借金返済と引き換えの人身売買だったけれど。
「それでは、誓いのキスを……」
牧師の言葉にドキリとする。そうだわ、誓いのキス……。
キス、するのかしら。本当に?
形だけの契約結婚であっても、キスはしなくちゃいけないの? 手を触れあったり、肌に触れたり、その先の……たとえば、ベッドの上でのこととかも……。
できれば、そういうことは、本当に大切な人とするときにとっておきたい、と思う。貞操観念が強すぎると笑われるかもしれないけれど、これって、とても大事なことだと思うから。
探るように見つめると、急に、伯爵が何かを思い立ったように牧師に対して耳打ちした。
「……?」
なんだろう。何か、悪いことじゃなければいいけど。
「ミス・フラクスン」
ふいに名前を呼ばれて、伯爵の長い指が、わたしの亜麻色の髪を弄ぶ。フラクスン。亜麻色。父方の血統から受け継いだ、わたしの自慢のひとつだ。
「綺麗な髪色だね。亜麻色だ」
そして、掴んだその毛先に、伯爵はそっとキスをした。
たったそれだけのことなのに、なぜか、わたしは初めて恋を知った10代の乙女みたいに、ドキドキしてしまった。
「――ここに、ふたりが夫婦となったことを認める」
牧師の声も、ろくに耳に入ってこなかった。それくらいに胸の鼓動が激しかった。
いま、ここに、アレキサンドリア伯爵ことライアン・ヒルバーグとアンジュ・フラクスンの婚姻が成立した。
式が終わった瞬間から、わたしたちは別行動に移った。
同じ家に帰るのだから一緒に行けばいいのに、伯爵のたっての希望で時間をずらして帰ることになったのだ。
父と母は来ないから、ひとりで馬車に乗って帰ることになる。この馬車は伯爵の家で用意してもらった馬車だ。うちにひとつだけあった馬車は、いま、両親が乗って帰っている。
馬車は獣道を進み、やがて、一軒の巨大な屋敷の前に来る。噂には聞いていたけれど、改めてみると、すごい屋敷だ。3階建てで、そばには立派な納屋、水は入っていないが大きな噴水もある。それに馬小屋も。ちょっとボロっちいのは、まあ愛嬌ということにして。
「すごいわ……」
これで、クインビーの言ってた『黒い噂』さえなければ最高なのだけど。
「そんじゃ、お嬢ちゃん、ここいらで降ろすで。気ぃ付けてな」
馬車を止めながら、御者のおじさんが言う。
おじさんは、わたしを馬車から降ろすと、馬車小屋に馬車を止めて、馬を馬小屋に連れて行く。そのまま屋敷に戻るのだと思ったので、わたしは待っていたのだけど、想像に反して、おじさんは屋敷とは反対方向に歩いて行った。
「あ! おじさん、待って!」
「おん? まだ何か用かい?」
おじさんは汗をふきふき振り返る。
「おじさん、おうちに帰るんじゃないの?」
「ああ。家に帰るだよ」
「おじさんのおうちって……」
こっちじゃないの。そう訊こうとして、遮られた。
「こっから3マイル(約4.8km)ほどのところに、おいちゃんの家があるんでさァ。今度、お嬢ちゃんも遊びに来るべ?」
「おじさん、ここに住んでるわけじゃないの?」
わたしが言うと、おじさんは、さもおかしそうに笑い飛ばす。
「あっはは。おれがこんなとこ住めるわけねえべ。おいちゃんはその日暮らしの雇われ御者なんだで。この屋敷に来たのも今日が初めてだァ」
雇われ御者……? だったら、あの馬車は、普段誰が操縦しているのだろうか。
「さ。用が済んだだったら、おいちゃんはそろそろおいとまするべ。お嬢ちゃんも今日は疲れたろ。ゆっくりお休みな」
おじさんはそう言って帰って行った。あとには、わたしだけが残される。
わたしは伯爵から預かった合鍵で玄関のドアを開けると、中に入り、お屋敷をどんどん奥へと進んでいった。
2階の、角部屋――それがわたしの部屋だ。
部屋に入って一息つくと、事前に送っていた荷物の中を探って部屋着に着替える。それから、わたしがこれから過ごすであろう部屋の中を見渡した。
中央には大きな天蓋付きのベッド。向かいには床から天井まである大きな掃き出し窓があり、その向こうにはベランダと、広大な庭が見えている。ほかにも、立派なドレッサーと書き物机があり、ウォークインクローゼットと、専用のバスルームまでついていた。
囚われた身にしては随分と立派な部屋だ。わたしの家――それも、父と母が多額の借金を抱える前の、まだ裕福だった頃の家――でも、ここまで立派な部屋はなかった。こんなことができる伯爵さまって、一体、何者なの!?
ふいに、ドアをノックする音がした。
慌てて応対に出ると、土まみれのシャツを着た若い青年がひとり、立っている。その顔は、長い前髪で隠れ、表情が窺い知れない。一目見て、不気味な青年だと、そう思った。
「あの……?」
「あんたが奥さんか。伯爵から話は聞いている。あんたに、伯爵からの伝言を伝えにきた」
伝言? なんだろう。
「伯爵はお忙しいかただから、この屋敷には滅多に訪れない。当然、あなたと会うこともない。その点では自由にしてくれていい。あんたが屋敷のどこで何をしようが咎めないと、そう言っておられた」
青年は言ったが、ただし、と付け加える。
「地下室には絶対に立ち入らないこと。いいか、絶対だ。ちょっと覗くだけとかもナシだ。いいな?」
彼の強い口調が、この要望が絶対的なものだと告げている。
それで、わたしも従うしかなかった。
「わ、わかってるわ……」
だけど、地下室って、あの『黒い噂』のある問題の場所じゃなかったかしら? 伯爵が、然る奴隷商人たちから買い取った子どもたちの手足を、バラバラにして遊んでいるとかいう。
「言われなくたって、そんな場所、望んでも行かないわよ!!」
そうよ。誰が行くものですか。
わたしは、幼い子どもに残虐な行為を働いて喜ぶような変態主義者じゃない。
「……あっそ。ならいいけど」
青年は、つまらなそうに吐き捨てて出て行ったが、すぐに、言い忘れたことがあると言って戻ってきた。
「あ、そうだ。俺のことは『スペンサー』とでも呼んでくれればいいから。大抵、馬小屋にいるよ。それか、納屋とか台所ね。ここの雑用は、すべて俺がやってるんだ」
聞けば、本来は家令なのだという。けど人手が足りないので、メイドや下男のやるような仕事もひとりでこなしているとか。人手が足りないってのは、やっぱり、例の地下室での噂が関係しているのかしら。
「あんたも、あんまり伯爵のこと、むやみに探るんじゃないぞ」
……わかってるわよ。ちょっと気になっただけだってば。
だけど、考えれば考えるほど、わたしはとんでもない男と結婚してしまったのだと思わされる。姿を見せない伯爵。式の最中も、ずっと仮面をつけたままだった。
伯爵さまって、本当、何者なの!?