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「いたっ」
「あー、すりむいちゃってるわな、ここ」
ちゃぷ、ちゃぷん。
三和土に跪いた兄大悟が、バケツの中で佐保の足を洗っている。
「どうしたよ。下駄は」
裸足で泣きながら帰ってきた佐保は、兄の問いにもろくに答えることができなかった。
(ほんと、馬鹿だ。何やってんだろ)
項垂れる佐保に、「そこで座ってろ」と言うなり大悟は奥に引っ込んでいく。妻の美久でも呼んでくるつもりだろう。乱れた浴衣の裾を直しながら上がり框のところに腰掛けた。その間にも袂に入れているスマホのバイブが唸る。確認するとやはり顕生からだった。どうしようもなくてそのまま袂にしまい込む。そのうち、みしみしと兄の足音が近づいてきた。手にタオルとバケツを下げている。
「足、貸せ」
「え、いいよ。自分で」
「お前な、俺だってやりたかねえけど、せっかくの浴衣が汚れるだろ」
朝顔の鮮やかな赤、帯のきらきらしたビーズ。浴衣を届けてくれたときのことを思い出して、鼻の奥がつんとしてくる。
大悟は自分のスマホを佐保の座る脇に置き、音楽をかけ始めた。ピアノがメインのロックバラードが流れる中、むんずと佐保の足を掴んでバケツに突っ込む。冷たい水だと思って身構えれば、
(……あったかい)
意外にもバケツの中身はぬるま湯だった。兄の手は佐保の足を労るようにそっと擦る。その間も袂の中でスマホのバイブが盛んに鳴り響いているが、大悟は何も言わなかった。思いがけないやさしさに、また泣けてくる。しゃくりあげている間に、かかっている曲が変わった。
(あ、これ)
ピアノの流れるような旋律が、少しずつ螺旋を描いて上がって行くようなイントロ。
キャット・スティーブンスの“雨に濡れた朝”だ。
顕生が大悟と初めて会ったときに弾いていたという、馴れ初めの曲。兄はスネイルズの集まりで酒が入ると、いつもそのときの話をして、佐保にも何度となくこの曲を聴かせた。
「奴がこの曲弾いてたときな」
「もういいよ、その話は」
「いんや、聞け」
今顕生の話はしたくないのに、兄は逆に佐保を遮る。
「あの時の顕生はさ、何て言うか『鬼気迫る』って感じでさ。ピアノが上手いんで、最初はギャラリーがいたんだけど、奴が取り憑かれたみたいに弾いてるもんだから、そのうち皆引いて、いなくなっちゃってさ。よくよく見たら、叡生寺の息子だろ。こりゃキテる、やばい、何とかしなくちゃと思って、声を掛けた」
顕生をサークルに誘ったのは、好きなアーティストの曲を完璧に弾いていたから、ではなかったのか。語りかけるようなヴォーカルをバックに、兄は口を開いた。
「この曲の元はさ、『世の始めさながらに』っていう賛美歌なんだよ。神が作った朝や御言葉を讃えようっていう、バリバリのキリスト教の歌。仏教科の学生で、寺の息子の顕生が、狂ったようにその曲を弾いてたんだよ。その意味がわかるか?」
僧侶になることに納得しきれていなかった、大学時代の顕生。
つまりそれは、彼なりの『反逆』だったのだ。
思い悩んだ揚げ句の、ささやかな抵抗の叫び。
「ま、奴が話さないなら俺から言うことじゃないけど。いろいろあるんだろうさ、顕生も。今はああやって、何でもそつなくこなしてるように見えるけどな」
職業や規模こそ違うものの、ふたりとも同じ町内の跡取り息子。通じるものがあるからこそ、放っておけなかったのだろう。
『顕生くんもきっと、そういう大悟くんに救われてるんだと思うんだ』
兄嫁美久の言葉が甦る。
「お」
突然兄のスマホが『雨に濡れた朝』を止め、どんどこどこどこ、と、けたたましい音を立てた。レッド・ツェッペリンのロックチューンは、友人グループの着メロだ。片手でスマホを取り、画面を見るなり、再び『お』と声を上げる。
「お兄ちゃん、もう足はいいから。電話出なよ」
「うんにゃ、もうちょっと待て」
大悟は佐保の足をタオルで拭きながら電話を顎に挟む。
「ほいほい。あ? うん、いるけど」
ちら、と佐保を見る。ということは電話の相手は顕生に違いない。盛大に首を振った。
「だめだとよ。佐保は顔も見たくないとさ」
「そんなこと言ってない!」
佐保が小声で叫んでばたばたと手を振れば、電話の向こうからも何やら怒鳴り声が聞こえた。
「うっせえな。知らねえよ、俺は。何? へっ? マジ?」
かっ、かっ、かっ、かっ。外からせわしない下駄の足音が近づいて来た。
「佐保! 来るぞっ!」
大悟がタオルごと佐保の足を座敷に押し込む。転がるように奥に逃げ込んだ佐保は、箪笥の陰に隠れた。
「佐保ちゃん!」
顕生だ。よく透る声に、身体が震えた。返事をしないでいると、焦れたような舌打ちが聞こえる。
「佐保ちゃん! いるんだろ!」
「店先でわめくなって。会わねえ、って言ってんだから出直せや」
「嫌だ!」
子供のように吠えて、さらに佐保の名を呼ぶ。近所に聞こえないかと気が気ではなかった。
「何があったんだよ」
遮る大悟に顕生の声が続く。何を言っているのかまでは聞き取れない。
「婚約者ぁ?」
兄の声で、顕生があの主任教諭から話を聞いたことを知る。
「そこまでの噂になったっつーことは、悪いのは顕生に決まってんだろ?」
「ああ、そうだよ! そんなことわかってるさ。だから」
「わかってねえから、こういうことになんだろうが。トロトロしてんじゃねえよ、この阿呆」
兄が上がり框に腰を下ろしたのだろう、どかり、と音がした。年下のくせに、バンドリーダーだったころの名残か、大悟は顕生に容赦ない。
「……お前に言われたかないよ」
言い返しながらも、顕生の勢いがしぼんでいる。兄からも『ふん、悪かったな』と不貞腐れた声が聞こえた。
「どうせろくでなしの長男だよ、俺は。いつまでもふらふらして、美久を待たして。幼稚園のセンセになろうとしてる妹に、一時は店を継ぐ覚悟までさせたんだもんな」
兄から反省の言葉を聞くのは初めてだった。
「だけどよ、ただ黙って跡を継ぐなんて癪だもんよ。商店街の連中だって、家督を継ぐまでにゃ皆大なり小なり、1度はじたばたしてんだろ。そういうもんなんだって」
大悟流のふてぶてしい口調が、かえって清々しかった。
芦原茶舗のある、昔ながらの商店街。ネット通販や郊外の大型店舗に押され、シャッターを閉める店も少なくない。透が営む八百初も、魚勝も、鳥政も。店を守る跡継ぎたちの立場は決して楽なものではなかった。脳天気に見える大悟も彼なりに悩み、七転八倒した揚げ句、ここにいる。
「そういうもん、なのかな」
そこでふたりの声が途切れ沈黙が続く。しばらくして言葉を選ぶように話し出したのは顕生だった。
「なあ、大悟。俺に、もう一度チャンスをくれよ。佐保ちゃんに、これから園に戻るように言ってくれないか。荷物も置きっ放しだし、今日中にきちんと話がしたいって」
「は? 荷物くらい持って来いっつーの。それに佐保は足すりむいて」
「ああ、それはほんとに俺が悪い。下駄の鼻緒、直しといたから、今度は少し違うと思う。どうしても今日、話しておきたいんだ。来るまで待ってる、って伝えてくれ。頼む」
「おい、顕生!」
「頼んだぞ」
こと、ことん、と小さな音がした。
続いて男物の下駄が去って行く、大股の足音。佐保はたまらず顔を覗かせた。
「聞いてたか。おい、どうするよ」
腕組みをして座る兄が、足元を顎でしゃくる。
三和土にきちんと揃えて置かれた、赤い鼻緒の下駄。その鼻緒をよくよく見れば指で挟む前坪の部分が緩くしてあり、下駄の台の上には絆創膏がふたつ置かれていた。
かつ、かつ。
まだ少し足指の間が痛むが、緩めた鼻緒と絆創膏のおかげでまだましだ。
結局、佐保は顕生と会うことにした。
『そっか。ま、ずっと避けてもいられねえしな』
兄は頷きながら送り出してくれた。
辺りはすっかり暗くなり、寺の境内には人影もない。奥に立つ幼稚園の門扉、その閂を引き抜いて中に入った。園舎の引き戸に手をかけると鍵はかかっておらず、思いの外あっけなく開く。玄関から廊下の先を見れば、奥の部屋から明かりが漏れ、ピアノの音が聞こえる。今日七夕会を開いた遊戯ホールからだ。
弾いている曲は七夕の歌でも童謡でもなかった。
(“雨に濡れた朝”だ)
兄から聞いていたような鬼気迫る演奏ではない。まるで自分を落ち着かせるような、穏やかな音色だった。胸が高鳴り、脱ごうとする下駄の鼻緒が足指に引っかかってまた痛んだ。慌てて手をかけると、からん、大きな音を立てて石の三和土に下駄が転がる。顕生にまで聞こえたかと思ったが、ピアノの音は止まない。気持ちを落ち着かせるようにゆっくり履き物を揃えると、佐保は裸足で廊下を歩き出した。ひたり、ひたり、火照った足に冷たい木の床が吸い付く。
部屋の手前で足を止めた。襟元を押さえ、深呼吸する。
勇気を出して閉まっている引き戸をノックすると、ピアノの音が止んだ。
「はい」
静かな声が応える。戸を開けると、照明を少し落としていて中は薄暗い。ピアノの前に、浴衣姿の顕生が座っていた。真鍮のフットペダルに乗っていた裸足が、すっと前に出る。裸足で弾いてたんだ、と的外れなことを思う。衣擦れの音と共に、彼が立ち上がった。
襟の合わせ目から伸びる太い首筋や喉仏、裾から覗く硬そうなくるぶしの線。浴衣姿の顕生は、いつもより男っぽく見えて、少し怖い。
「ありがとう、来てくれて。足、痛む?」
それでも掛けてくれる言葉はやはり優しかった。顕生が選んでくれた浴衣なのに、絆創膏を貼った裸足がどうにも間抜けに見えて、もじもじと指を内に寄せる。
「だいぶいいです。あの、ありがとうございます。鼻緒直してくださって」
「俺も新品の草履を下ろすときはいつも自分で緩めてるんだ。ごめん、浴衣のことだけで精一杯で、下駄まで気が回らなかった」
そう言いながら佐保の浴衣姿に目を細めた。
「よかった。良く、似合う」
喜びが体中を駆け巡る。ほんのひと言でこんなにも幸せになってしまう。悩んでどきどきしながら支度をした甲斐があった。
「……なんて、また俺は。そんなこと言ってる状況じゃないよな」
顕生は自らを戒めるように唇を噛む。椅子をふたつ持って来ると、少し間を置いて並べた。座るように促され、裾を気にしながら腰を下ろす。七夕飾りを施した笹の前、特等席だ。
「七夕飾り、まだこのままにしておくんですか?」
「今晩、これから片付けるよ。せっかくだから見納めに、佐保ちゃんとふたりで眺めてもいいだろ?」
顕生は自分の椅子を佐保のほうへと向けた。腰を下ろすと、じっと佐保を見つめて。
——覚悟はいいかい?
今夜こそが、その夜だ。
ここには誰もいない、俺たち、たったふたりだけだよ。
美久の訳したあの歌詞が頭を過る。
(七夕飾りを見るんでしょ? 何で私のほうばっかり)
身の置きどころがなくて口を開いた。
「あの、短冊は捨てちゃうんですか」
「ううん。せっかくの願い事だろ。倉庫にとっておいて、お盆に寺でお焚き上げをするんだ。他の、商店街や施設から預かった笹と一緒にね」
願い事は煙になって天の川を渡るのか。天辺近くに吊された顕生の短冊が揺れている。
(燃やされちゃう前に、何を書いたのか知りたかったな)
とぼんやり思う。
「佐保ちゃん」
園でそう呼ばれるのは、何とも複雑な心持ちがした。
「主任から話は聞いた。婚約者、なんて噂されてるとは本当に知らなかったんだ。ごめん。君は、純粋に勉強しに来てたのに、嫌な思いをさせた」
佐保は首を振る。純粋なんかじゃない。顕生に会いたい下心だってあった。
「俺が、あんまり君をかわいがるから、誤解されるんだよな。父からも言われてたんだ。『佐保ちゃんばかり目を掛けるもんじゃない。他の教諭から苦情が出るぞ』って。自分では、これでも抑えてるつもりだったんだけどね。君の兄貴によれば、ダダ漏れなんだってさ」
今までも、彼の甘い言葉は受け止めないようにしていた。彼の想い人が自分だと自惚れて、もしそうでなかったらつらすぎる。ぎゅっと膝の上で拳を握りしめていると、頭の上から、流れ星のように顕生の声が降ってきた。
「好きだよ。佐保ちゃん」
瞬間、胸が仕掛け花火みたいにばくん、と音を立てた。目を上げれば、顕生の真摯な眼差しが間近にある。
「最初は、先輩ぶって君にいろいろ教えるのが楽しくて。そのうち君が俺と距離を置き始めたろ。あれでかえって女性として意識するようになった。わざときつい言い方して俺を避けるくせに、スネイルズが集まる日には炊きたてご飯で好物のおにぎりを握っといてくれる。そんな君がかわいくて、ずっと傍に置いときたくて。でもそう言えなかった。俺には、叡生寺っていう枷があるから」
ぽつりぽつりと吐き出す顕生の言葉に、じっと耳を攲てた。体中が心臓になったみたいに、どくんどくんと脈打つ。
「昔っから、寺の息子として特別な目で見られてる気がしてた。面と向かって『縁起悪い』だの、『死んだ人で金儲けして』だの言われたこともある。でも、どうしたって生まれは変えられない。寺を捨てることはできない。それも、頭ではわかってた」
父親からも散々聞かされたのだそうだ。僧侶姿で歩いているだけで、病気の家族をもつ家から疎んじられる。親を死から隠す、と言う意味ですれ違うときに親指を隠される。『そんなことは日常茶飯事だ、黙って礼をしてやりすごせばいい。私は尊い仕事だと思っているよ』と。
「うちの父親は俺に自覚を持たせようとして、中学になると寺や幼稚園の手伝いをさせた。寺の檀家さんになれば、その家族全員と長く付き合うことになる。さらにその檀家さんちの子が幼稚園に入ることもあって、縁の輪は広がるばっかりだ。親しくなれば無碍にはできない」
編み目のように張り巡らされた人脈の中で、身動きがとれない自分を感じていた。
「そんなとき、本当に近いところで不幸が起きて、その葬儀の手伝いをすることになった。八百初のおかみさん、透ちゃんのお母さんの葬式だよ」
透の母親は商店街の名物おかみだったと聞く。溌剌として、きっぷがよくて。透の父親は真面目でどちらかと言えば大人しいほうだ。明るく商売上手な透は、母親似らしい。働きづめに働いた透の母は、まだ40代のとき脳出血で突然この世を去った。当時透は中学生、姉は高校生。商店街は大きな悲しみに包まれた。透は長男として皆の前では懸命にこらえていたが、影では遺体にすがりつき、さめざめと泣いていたという。
「同級生だろ。もう透ちゃんの気持ちが痛いほどわかってさ。奴も俺にはさんざん泣き顔見られてるから、弱音を吐いてくるわけ。その話が、もう聞いていられないほどつらくてね」
いつも底抜けに明るい透が泣いている姿など、佐保には想像もつかなかった。
「家族が亡くなるとさ、枕団子っていって、お月見団子みたいな白い団子を供えるんだ。で、お供え物は古くなると土に埋めなきゃいけない。透ちゃんのお袋さんが亡くなったのは真冬で、埋めようと思って掘る庭の土はかっちかちで。それでも掘ると、前に捨てた真っ白い団子が、土ん中からそのままの形で出てくるんだってさ。その話をしながら透ちゃんが泣くんだよ。『食べ物を残すのが嫌いだった母ちゃんが、食べてくれない。ああ、死んだんだ。供えたってどうせ食べやしないんだ。こんちくしょう、こんちくしょう』って」
顕生の顔が苦しげに歪んだ。
「そんな透ちゃんにかける言葉なんてなくて。弔うって何だ。人が亡くなった悲しみを埋めることなんてどうせできやしない。坊さんなんて、口の悪い奴が言うとおり『死んだ人で金儲けしてる』だけなんじゃないか。思春期だったからね。そのときの気持ちはいつまでも尾を引いた」
罪の意識に苛まされながら暮らしていた顕生は、高校の卒業が近づいた或る日、透に呼び出された。
『俺、家を出るわ』
彼は八百屋を継ぐのが嫌で、学校をサボり路上ライブをしていた。仲間たちとデビューを目指しながら店を始めるのだ、と言う。
『もう目星はつけてあるんだ。海岸沿いの町で、サーフショップを開こうと思って』
まるで夢のような話だとわかっていながら、顕生の心も動いた。
『俺も連れて行ってくれ、頼む』
小さな町の中でくるくると回る閉塞した時間。開放的な海辺の町なら、何かが変わる気がした。事情が違うにせよ、この町に居場所がないと思う気持ちは変わらない。
しかし透は、悲しげに首を振った。
『だめだよ、連れて行けない。お前は叡生寺の跡取りだ』
『お前だって、八百初を捨ててくんだろう?』
『じゃあ、俺のかあちゃんの墓は誰が守るんだよ!』
母親を思って泣く透の顔が蘇る。勝手だ、と思う反面、言い返せなかった。
寺には、檀家の家族が代々眠っている。叡生寺の墓のひとつひとつに、透のような家族があるのだ。その重みが、顕生の胸にずっしりと伸し掛かる。
結局、透はひとりで家を出て行った。
(俺はどうすればいい?)
顕生は答えを見いだせぬまま、大学の教育学科に入学した。幼稚園教諭の一種免許を取らないと、将来園長にはなれない、ただそれだけの理由で。彼が否定しなければ、彼の人生はレールにのったまま動いていく。悩みながらも、時は過ぎていった。
「それでも教育学科で勉強して子供に接してると、嫌なことを忘れた。子供はかわいい。触れ合ってるとあったかい気持ちをもらえる。大事に育ててあげたいっていう気持ちが芽生えて、せめて一生懸命勉強しようと思うようになった。幼稚園の園長も悪くないと思い始めた矢先、同級生の女の子と恋をして」
恋。その言葉に、胸がぎゅっと鷲掴みにされる。
「彼女も幼稚園教諭志望だった。『俺のうちは幼稚園を経営してる。一緒にやっていかないか』。そこまでは言えたけど、寺のことはなかなか言い出せなかった。最後の最後に打ち明けたら、『宗教は無理。お坊さんの奥さんにはなれない』って言われて、それっきり。気持ちはわかるから、引き留められなかった」
悟ったような笑みに、その傷の深さが伺い知れる。
「恋なんてするもんじゃないと。きっと見合いか何かで、それなりの相手を見つけて、園も寺も納得ずくで結婚するしかないんだろうとそのときに諦めた。捨て鉢になって仏教学科に編入して。好きな音楽だけが気晴らしで、大学の音楽室を借りてピアノを弾いてたとき、君の兄貴に会った。大悟は一見馬鹿を装ってたけど、人の心の機微がわかる、ほんとにいい奴で。やっと俺は冗談を言ったり笑ったりできるようになった」
初めて会ったとき、佐保を『春の女神』などと言ってからかった顕生。そこまで長い時間を要したことを、初めて知る。
「悩みながら仏教を学んで、いつしか自分自身も救いを求める人の気持ちがわかるようになった。幼稚園のときに意味もわからず唱えてた般若心経を習ったときは目から鱗だった。佐保ちゃんも、つばめ幼稚園出身なら覚えてるかな」
「あ、はい……もう全部は言えないかもしれないけど。羯帝羯帝波羅羯帝とか?」
つばめ幼稚園では年長になると般若心経を覚えさせられる。朝の会に全員で大きな声を上げて復唱するのだ。
「うん、まあ、本当は悟りの境地に行けば救われる、という意味なのかもしれないけど、途中のね、是諸法空想、あらゆるものには実態がない、ってとこが心に響いたんだ。実態がないなら、いいも悪いも自分次第で決めていいんじゃないか。俺は迷いの中にいて、到底悟りなんて開けない俗物だけど、逆に弱い心は理解できる。園も寺も人と向き合う仕事なら、俺の煩悩だって役に立つかもしれない。そんな風に視点を変えられるようになった。俺にとって仏教はね、自らを開く鍵みたいなもんになったんだ」
決意に満ちた瞳が佐保を捕らえる。
「君も俺も、年を取って、いつかは朽ちる。足掻くのがダサいなんてかっこつけて、後腐れのない人生を送ったって意味はない。寺の息子なのも俺ならば、ぐずぐず思い悩むのも俺。君が好きで、君を求めるのもこの俺だ。生のまんまの心で、君と生きていきたい。君は俺の分の荷を背負おうなんて思わなくていい。笑って、一緒にご飯を食べて、そんなことだけで俺は、心を軽くして生きていけるんだよ」
顕生は椅子から立ち上がり、その手を伸ばす。
「よかったら、そんな旅をしようよ。ふたりでさ」
どこからか風が吹いて、さらさらと笹の葉が揺れた。誘われるように佐保も椅子から離れ、顕生の手を握った。
「顕生さん」
名を呼ばれて、顕生がきゅっと目を細める。愛しげなその仕草に胸を突かれる。照れくさくて、また天の邪鬼な心が顔を出した。
「子供っぽくて、ロックが好きで、おにぎりと卵焼きが好きで。気障なこと平気で言うし、だいたいここ、幼稚園でお寺の敷地内でしょう。先生らしくも、お坊さんらしくもないんだから」
手厳しい言葉なのに、顕生は嬉しそうに笑って佐保の手を握る力を強くする。
「だけど他人への思いやりは人一倍あって、だからこそ苦しいんでしょう? そんな顕生さんだから好きなの。一緒にいたいの。顕生さんは、本当に私なんかでいい?」
涙を堪えて問うと、顕生は深く頷いて。
「君はまだ若くて、これからいくらでも恋が出来るだろう。だけど俺には」
眼差しは、胸の奥まで、深く。
「きっと、君が、最後の恋だ」
身体の芯が、熱く痺れた。
どちらともなく身を寄せ合い、顕生の腕が佐保の身体を掻き抱く。ああ、と感じ入ったように漏らす声が切ない。背に手を伸ばせば浴衣地のしゃりっとした麻の感触が伝わる。あたたかな身体からはかすかに、お香の匂いがした。
(顕生さんだ)
頬を擦りよせると、大きな手が応えるように佐保の頭を撫でる。愛しい、愛しい、と語るように、何度も、何度も。嬉しくて、照れくさくて、ぎゅっと浴衣地を握りしめると、その手をそっと剥がされた。
「佐保」
初めて呼び捨てられた。恋の相手、だから。呼ぶのは名前ひとつ。ただそれだけ。
長い指が、佐保の顎にかかる。
唇が、落とされた。
驚くほど熱くて柔らかなその感触に、我を忘れた。啄まれて、探られて、追いかけて。顕生の唇は、どこまでも貪欲に佐保を欲する。求められる喜びに身体がわななく。その身体をさらにしっかりと抱き込まれて。
どのくらいそうしていただろうか。やっとのことで、それでも名残惜しげに唇を離すと、顕生は佐保の肩を抱いたまま、笹の前に足を向けた。その天辺につけられた星の近く、彼の結んだ短冊に背伸びをして手を伸ばす。
「俺の願い事、見る?」
片手で器用に紙縒りを解くと、はにかみながら短冊を佐保に手渡した。
——May the goddess of spring smile upon me forever.
どう? というように覗き込まれたが、正直英語がわからない。
「あの……どういう意味?」
恥を忍んで聞いてみると、
「うわ、それ聞く? 恥ずかしいから英語にしたのに」
と顕生は大いに照れる。
それでも気障な恋人は、最後には耳元で囁いてくれた。
「春の女神が、ずっと俺に微笑んでくれますように」
Fin.