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その日私は、帝都ブールジュの私室から窓の外を眺めていた。
遥か彼方に青い空を背景にした山脈を望み、遠くの湖面は太陽の光がキラキラと反射する。眼前に広がる森の緑は目に優しく、帝都というより保養地としての景観に包まれている。
しかし、そんな穏やかな景色を見ながら、私はあの時のことを考えていた。
それは今から二か月近く前のこと。魔族との戦いを決定づけた、あのタクタク平原の戦いの後のことだ。魔族の大軍を撃破し、勝利に沸き立つ陣営地の片隅で、私はユウナスと二人だけで密談を行っていた。
「≪黒衣の部隊≫の指揮官…あのクロウが持つ≪魔剣≫はただの剣ではないわ。もしクロウが魔王に対抗しうるほどの強さを持つなら、その時は彼を殺しなさい」
私の言葉に、ユウナスは意味を飲み込めない様子で、しばし目を瞬かせていた。
「宰相閣下。どういうつもりです?」
「ユウ、魔王はただの魔族ではないわ。私たち人間の力とは比べ物にならないほどの力を持っている。もちろん何万もの軍勢を壊滅させるほどの力はないでしょうけど、脅威であることに変わりない。そんな魔王に対抗できる人間がいれば、魔王とは別の脅威になるでしょう」
「…」
「だから、もし黒衣の部隊が魔王と戦い、魔王を窮地に陥れるほどの実力があるなら、魔王の死後、彼らを全て殺しなさい。特に魔剣を持つクロウは必ず仕留めなければならない。魔王との戦いの後であれば、彼らとて消耗しているでしょう。そこを狙えばいい」
「ですが、たかが一人の男など…」
ユウナスが反論しかけたが、私は有無を言わせず、赤い唇を彼の唇へと押しつけた。
「いいわね、必ず仕留めなさい」
ユウナスの反論を封じ込め、私は愛おしいユウナスに、密命を与えた。
「この私としたことが、つまらない命令を下したものね」
私の意識は思い出の中から今と言う時間に戻る。目の前のブールジュの景観が目の前に見える。風景は相変わらず穏やかだが、私の心はこの光景ほどの穏やかさを持っていない。
そこに、魔都ローヴァンナイトを包囲している遠征軍から、急ぎの連絡が入った。
『遠征軍自体も多くも被害を出しながらも、魔都ローヴァンナイトの攻略に成功する。また、ローヴァンナイトの城内にて魔王ナイトメアの討伐を果たす。ただし遠征軍指揮官である。ユウナス将軍が戦死し、その直営部隊は壊滅』
私は魔族どもの首魁が消え去ったことより、ユウが戦死したという報告にしばし無言でいた。
――愛おしい人、あなたがいなくなってしまったなんて。
しばし私は無言で沈黙していた。体を動かしたくない、力を入れたくないという無気力感が私を支配しようすとる。
――でも、私は止まらない。今止まってしまえば、私の胸にできた痛みに耐えることができなくなる。
ユウが戦死したという事実に、今向き合えば私は崩れてしまうだろう。ならば、今はただ私がやるべきことを行うのみ。全てが終われば、その時にあなたの死は受け入れる。だから、それまでは待っていて。
私は死者となった愛しい人に、胸の中でそう語りかける。
私は立ちあがり、微笑を浮かべた。傍にあった鏡に映る自分の笑みが、ひどく悲しげで、目が泣いている姿を見てしまった。私は顔をそむけて、しばし無言でうつむいた。
ショックだった。私が、こんなにも脆い姿を見せることが。愛した人の死の知らせが、私にこんな姿をさせることが。
だが、私は胸の内のいかなる思いも捨てた。
例え涙が流れようとも、それでも私は進む。
私は部下に命令し、大臣と帝都にいる全ての将軍に、緊急の召集をかけた。
魔都ローヴァンナイトの陥落。
この報告は、帝都に駐留中の帝国軍第三軍団を率いる――≪魔王≫とあだ名される――ガルヴァーン将軍の元にも届いていた。
魔族との最大の戦いであるタクタク平原の戦いによって、魔族側の戦力はほぼ壊滅していた。それでも遠征軍は、魔族の拠点攻略のたびに犠牲を出し続けていた。そのため魔都ローヴァンナイトを包囲してするころには、六万強にまで戦力が低下していた。この戦力低下を補うために、援軍として出立すべくガルヴァーン将軍の部隊が帝都に呼び寄せられていた。だが、目標たる魔都ローヴァンナイトが陥落し、魔王が死んだ今となれば、その任務も中止となる。
報告に接したガルヴァーンは、しかし誰もが予想しない言葉を口にした。
「霊将ユナトス、お前は俺の駒として存分に働いてくれた」
ガルヴァーンは口の端を歪め、武骨な顔に獰猛な笑いを浮かべた。
さて、宰相クレスティアの緊急召集によって、帝都ブールジュの会議室には、大臣と帝都にいる全ての将軍たちが集っていた。
クレスティアは全員の姿を見て告げた。
「魔都ローヴァンナイトに派遣していた遠征軍より知らせが入りました。ローヴァンナイトの攻略が成り、魔王は死んだそうです」
私の報告を聞き、居並ぶ大臣・将軍たちが歓声を上げた。その完成がひとしきり治まるまで待ち続けた。
「魔族の首魁が消滅した今、その領土の全ては我が帝国の支配下に入ります。グランディート大帝陛下が目指された大陸の統一が、今ここになされるのです。これも、今日まで皆さまの協力があったが故になされた偉業です」
私は微笑し、居並ぶ大臣・将軍を眺める。
そして私は、その言葉を放った。
「大陸の統一がなり、敵はいなくなりました。ですので幼帝陛下には退位していただきましょう」
私の一言に、大臣と将軍たちが顔をわずかに硬直させる。僅か一歳とはいえ帝国の主である幼帝を退位させれば、この国には主がいなくなってしまう。ならば、その代わりが必要になるが、もはやその先は誰もが分かり切っていることだ。
グランディート大帝の死後に、私に反対するだけの行動力があった者たちはすでに殺されている。今では国外はおろか、国内の敵までもが取り除かれているのだ。
「無論、私が帝位につくことに反対される方はいませんね」
私の嫣然とした微笑みに、しばし場が鎮まった。だが、やがて彼らは狂ったように歓呼の声を上げた。
「大陸の統一がなされたのは、グランディート大帝の時代より陛下を支え続けた宰相閣下……いや、クレスティア様の功績です」
「あなた以外の誰が、皇帝となることができましょうか」
「さよう、クレスティア皇帝陛下、万歳」
大臣と将軍たちの歓声は、その後もしばらく続いた。
これで、道は完全に開かれた。
私がアースガルツ帝国の主となり、大陸の全てを支配する君主となる。
幼帝の退位式と、新たな皇帝の戴冠式の日取りが発表され、全ては新たな皇帝を迎えるための準備に入っていった。
だが、戴冠式が行われる前に、一つの儀式が存在した。
――遠征軍の指揮官、アスティ・ユウナス将軍の国葬。
私は彼の国葬を大臣の一人に任せ、式はつつがなく執り行われた――らしい。私はその式典には、最初から最後まで出席しなかった。国葬がある日に前後し、私はしばらく帝都から離れた。
――彼の国葬など見たくもない。
国葬は礼儀にのっとって完璧に行われたことを、後に報告で受けた。しかしその時私に報告にきた大臣の顔は、私の記憶にはっきりと焼き付いて忘れることができない。
しかし、それはあくまでも私の心の中でのことでしかない。
やがて数日後、帝都で、幼帝の退位式と私の戴冠式が執り行われる日がやってきた。
ブールジュの玉座の間には、国家の大臣と将軍たちを筆頭に、国の高官たちが勢ぞろいしていた。
部屋の中心である玉座の前では、一歳の幼帝が鳴き声を上げていた。その幼帝を抱える乳母が、泣き止ませようとあやす。とはいえ、このような物々しい雰囲気の中で、一歳の赤ん坊が泣かずにいる方が無理だろう。そのような中で、幼帝の傍に置かれていた冠が取られ、皇帝の退位式がなされた。
これでこの赤ん坊は、ただの赤ん坊となった。もっとも玉座にあった時でも、一歳の赤ん坊にその価値も、意味もわかるはずなどないが…
続いて退位した皇帝の存在を誰もが忘れ去り、この場に集う全員が、新たな皇帝となる私へ視線を集中させた。私の即位式の始まり、幼帝のしていた黄金の冠が、私の頭上にかぶせられる。
私は玉座の前から、居並ぶ国家の高官たちを眺めながら嫣然と微笑んだ。
「新たに即位されました、クレスティア女帝陛下であられます」
即位を告げる官吏の声が高々と玉座の間に響き渡ると、集う者たちが全て膝を折った。
「新たな皇帝陛下に忠誠を申し上げます。皇帝陛下の末永き治世がなされることを、我ら臣下一同つつがなく願う次第であります」
高官たちの声が響く。誰もが、私の前に頭を下げた。
「まことに、重畳であります。クレスティア皇帝陛下」
そんな中、不意にひとつの声がした。
「ガルヴァーン?」
居並ぶ高官たちが膝を折る中、ただ一人ガルヴァーンだけが立ちあがり、私に鋭い視線を向けてきた。即位式の中の予定にはない突然の事態だ。
「ガルヴァーン将軍、このような時に立ちあがるなど、どういうつも…」
ガルヴァーンの行動に、隣にいた将軍が注意しようとした。だが、その体が突然炎を上げて燃えあがった。
「ギャアアア」
燃えあがる将軍が悲鳴を上げ、突然の事態に高官たちが動揺と悲鳴の声を上げる。警備の兵士たちが慌てて室内へと突入してくる。
「ガルヴァーン、これはお前の仕業か!」
この場には軍をつかさどる将軍たちもいる。悲鳴を上げる文官と違って、戦場を経験している彼らは、一斉にガルヴァーンを包囲した。そこに、外から駆けつけた兵士たちも合流する。式典の最中とあって、将軍とガルヴァーンは武器を携えていない。だが、警備の兵士たちの手には武器がある。
だが、その武器の姿などガルヴァーンはまるで目にとめていなかった。
「ククク、驚く必要はない。人間どもよ」
「人間ども…まるで、自分が人間でないような口ぶりだな」
「その通り」
ガルヴァーンが怪しく目を光らせた。直後、武器を構えていた兵士たちが一斉に炎を上げて燃える。
「ギャアアア」
「グワアアアッ」
炎に巻き込まれ絶叫を上げる兵士たちに、一瞬将軍たちの注意がそれる。ガルヴァーンは近くにいた将軍の首を右手で掴むと、そのまま力任せにその体を持ち上げた。全長二メートルを超えるガルヴァーンに持ち上げられた将軍の足が宙に浮く。ガルヴァーンは、さらに力を込めた。
――ゴキリ
首の骨が折れる不気味な音と共に、持ち上げられた将軍の体が力なく崩れる。
「貴様!」
殺された将軍の仇打ちにとばかりに、周囲を囲んだ将軍が一斉に踊りかかった。しかし、ガルヴァーンの目が怪しく煌めいた途端、将軍たちの動きが止まった。その目から色彩が失われ、意識のない人形のように、その場に立ち尽くす。そして操られているのか、将軍たちは互いに向き合うと、互いに襲いかかった。それもただ襲うのではなく、爪と歯を立てながら、互いの肉体を噛み、切り裂きながら将軍同士の醜悪な戦いが始まった。
殴り合いですらない戦いは、獣のように醜い戦いだ。
将軍たちの理性は吹き飛び、彼らは獣のような声を上げる。互いに食らいつき、肉をえぐり出し、血をまき散らしながら戦い合う。
そんな光景に、ガルヴァーンは悦に入った笑みを浮かべた。
「人間とはいえ、名も知られた将軍たちの戦いだ。余興としてはなかなか楽しいものだな」
そこにはもう、人間ではなく狂人の姿があった。
このような事態の中、全ての高官たちが玉座の間から一斉に逃げ出し、出口へと向けて走り出していた。狭い出口に一斉に集中したために、身動きが取れなくなって、押し合いへしあいの事態となる。もみくちゃになった人々が絶望の悲鳴を上げる中、出口の向こうからから兵士の一団がやってきた。兵士たちは、大柄の男たちで、鎧の上からでも体格に優れた者たちが勢ぞろいしているのがわかる。
勇ましい兵士の登場に、絶望しかけた人々が、希望を見た。あの兵士たちが、この狂った惨劇を引き起こしているガルヴァーンを倒してくれるはずだ、と。
だが、その兵士たちは決して希望ではなかった。ガルヴァーン配下の第三軍団の兵士たち。
その姿をガルヴァーンも見てとると、パチンと指をはじいた。
途端、兵士たちの肉が盛り上がり、身に着けていた鎧の留め金がはじけ飛び、鎧がガラガラと音を立てて地面に転がっていく。兵士たちは、グチャグチャと不気味な音を立てながら、巨大な生物へと姿を変えていった。巨大な戦斧を片手に持つ、上半身が牛の姿、下半身は襤褸切れのズボンを纏っているが、二足で立つ姿。筋肉の化け物である、ミノタウロスの姿だった。
第三軍団の兵士たちが、全て≪魔物≫へと姿を変えたのだ。
「ギャアアア!」
ミノタウロスは手にした斧を振るい、逃げ出そうとしていた高官を次々に殺していった。その斧は、切るというよりも、砕いて破壊していく。振り下ろすたびに、人間の体の一部が砕け散り、血をまき散らしながら肉の塊がそこら中に飛び散る。
逃げ場を失った高官たちは、次々に殺され、周囲には屍の山が気づかれていった。
それらの光景を、全て私は玉座に座ったまま眺めていた。
操られていた将軍たちは、気の狂った戦いの果てに全て死に絶え、高官たちの全ても屍となって転がっていた。それらの光景をただ私は無感動に眺めていた。
皇帝という地位ついにたどり着きながら、このような最悪の状況に遭遇したことに、悲嘆を感じはしなかった。今まで戦場で様々な死を見続けてきた。略奪や暴行をし、それに歓声を上げる兵士たちの姿も見てきた。でも、ここまでひどい殺しをしてのける戦いは、≪第三軍団≫でなければ行わない。
彼らが本物の魔族であるならば、なるほど、このような醜い殺戮を楽しむわけだ。
やがて全ての殺戮を終えたミノタウロスの軍団が、玉座の間に整列して並んだ。その先頭に、ガルヴァーンが立つ。
「皇帝陛下、あなたの即位の記念です。素晴らしい見世物でしょう」
胸の前に手を置いて悠然と一礼するガルヴァーン。そのガルヴァーンに私は尋ねた。
「お前は≪魔族≫か?」
「ククク、この状況でも冷静でいらっしゃるとは、素晴らしい。さすがは私が見込んだ女だけのことはある」
ガルヴァーンの目はギラリと輝き、顔には歪んだ笑いが浮かぶ。
「ですが私を≪魔族≫と呼ばないでいただきたい。何しろ、我こそが魔族の王たる≪魔王ナイトメア≫。魔都にいたのは、単なる私の小間使いにすぎない。あなたが倒そうとした魔王は、始めからずっとあなたの近くにいたのですよ、陛下」
ガルヴァーンは玉座の前にまで歩いてきた。
――こんな男が、私を今まで騙し続けていたのか。
私は無感動に、それだけを思った。
皇帝の座を目指した私が、このような場所でまさか祭服の事態に遭遇する。そのことに対して、憤りすら覚えない。ただ、目の前のことを静かに受け止め続けるだけ。
そんな私の前で、ガルヴァーン――いや、魔王を名乗ったナイトメアが、私の傍まで歩いてきた。私の顔に指をツッと這わせる。冷たい指が私の頬から熱を奪う。魔王はねっとりとした視線をしているが、私はそれに何の抵抗もしなかった。
「貴女は大変に美しい。その美貌も、野心も。女でありながら人間の頂点に立ち、魔族を恐れることなく打ち破り、大陸の覇者として君臨された。魔族の王の妻として、これ以上の存在はいない。だから、私は今まで貴女にこの秘めたる思いを伝えずにきたのだ。さあ、私の女として、この世界を共に支配していこう」
魔王は私の唇に唇を重ねてきた。
――こんな男に…
私は目の前にいる男に反逆を起こされたことよりも、口付けをされたことに怒りを覚えた。だが、この魔王の力であるのか、体が動かない。なのに、涙だけは私の両目から流れ落ちる。
――ユウナス、こんなことになるのなら早く伝えておくべきだった。私はあなたと結ばれ、一緒に暮らしたかった。あなたのことを心の底から愛していた。
だが、そんな私の意識に、徐々に徐々に闇が覆いかぶさっていく。
口付けを終えた魔王は、目の前にいる女を見て微笑んだ。
「さあ、我が花嫁。これから二人の結婚式を始めよう」
魔王の目の前にいる血色の髪をした女はコクリと頷き、微笑を浮かべた。だが、その目には光がなく、虚ろな闇のみが広がっていた。とても、生きている人間の目ではない。操られただけのただの人形と化した者の目だった。




