エピローグ 「帰る場所」
浅瀬まで来ることは滅多にない。
今日もただ散歩をするように、海流へ身を任せていただけだった。
「この辺りが浅瀬なのか。」
アウルは海面を見上げる。
光が近い。
海の青も、いつもより淡い。
「珍しいな。」
隣を泳ぐレヴィが静かに言う。
「ああ。」
その時だった。
風に乗るように。
海の中まで音が届いた。
――♪
アウルがぴたりと泳ぐのを止める。
「……?」
静かなギターの音。
そのあとに重なる、二人分の歌声。
海面近くを見ると、小さな浜辺があった。
青年が一人、ギターを抱えて座っている。
その隣には、もう一人。
二人は笑い合いながら歌っていた。
その歌声は穏やかで。
どこか懐かしくて。
アウルは思わず耳を澄ませる。
「どうした。」
レヴィが小さく尋ねる。
「……分からない。」
目を閉じる。
波が静かに揺れる。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
思い出せそうで。
思い出せない。
夢を見た朝みたいな感覚。
「懐かしい。」
ぽつりと呟く。
「知っている歌か。」
「いや……。」
首を横に振る。
「知らないはずなんだけど。」
不思議だった。
初めて聞く音のはずなのに。
胸の奥が優しく揺れる。
泡が浮かぶように。
心だけがふわりと軽くなる。
しばらく二人は何も言わず、その歌を聴いていた。
浜辺では青年たちが楽しそうに笑っている。
その笑顔を見ているだけで、不思議とアウルも笑ってしまう。
「……また来たいな。」
レヴィが視線を向ける。
「この音。」
「好きだ。」
「なんで好きなのかは分からないけど。」
「なんか……嬉しくなる。」
その言葉に、レヴィは静かに微笑んだ。
「そうか。」
アウルはもう一度だけ浜辺を見る。
ギター。
歌。
笑い声。
その景色は胸の奥へ静かに沈み、優しい波紋だけを残していく。
やがてアウルは振り返った。
「帰ろう。」
「ああ。」
迷いはなかった。
アウルが帰りたい場所は、もう決まっている。
レヴィの隣。
深く、静かな海。
二人は並んで尾びれを揺らす。
海流が優しく背中を押した。
青い光の中へ。
帰る場所へ。
その背中を、浅瀬の波だけが静かに見送っていた。
⸻
あの日、海へ沈んだ青年はいない。
けれど。
海へ還った一人の人魚は、今日も伴侶と笑って泳いでいる。
──終
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『深海に溺れる』はこれにて完結となります。
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