10
――世界が、軋んでいた。
天と地のあいだで、炎の波が吹き荒れる。
燃え盛る空はまるで裂けた帷のように赤黒く揺らぎ、崩壊した聖都の残骸が宙を漂っていた。
その中心で、二つの光が融け合おうとしていた。
一つは焔の巫女セラフィーナ。
一つは抱擁する者。
巫女の胸を、黒竜の心臓が貫いた瞬間、世界の音が消えた。
轟音も、叫びも、ただ遠くで響く心臓の鼓動だけが残った。
赤き光が渦を巻き、天を焦がしながら、やがて一つの巨大な影を形づくる。
――それは、竜であり、神であり、人だった。
新たなる存在は、黒と紅の翼を広げ、ゆっくりと天を仰ぐ。
鱗は流体のように揺らめき、その表面を血のような光脈が走る。
瞳は蒼。だがその奥には、巫女の記憶と竜の怒りが共に燃えていた。
「我は……“契約”そのもの……」
女神とも、竜ともつかぬ声が大気を震わせた。
マーク・オーウェンは焼けた石畳の上で、その姿を見上げていた。
光が彼の瞳に焼きつく。あらゆる神話と伝承が、いま眼前で再構築されているのを理解した。
「……やはり、あの黒衣の魔女の狙いはこれだったのか……」
マークは呟きながら、杖の先を大地に突き立てる。
地中に埋め込まれた古代の封印陣が赤く輝き、崩壊した城下から無数の光柱が立ち上る。
それは、“呪詛の塔”へと続く光の道標。
そこに残された最後の聖印を起動しなければ、この竜神は――この世界そのものを、焼き尽くしてしまう。
彼は、立ち上がった。
焼け焦げたマントを翻し、足元の瓦礫を踏みしめながら、崩落した階段を昇っていく。
その背に、不死鳥の影が群れ飛ぶ。
だがもはや、それらは彼を襲うことはなかった。
竜神がすべてを支配していた。炎の命すら、その意志の延長にあった。
――そのとき。
マークの前方に、ひとりの影が現れた。
黒いヴェールをまとい、手には血塗れの書。
かつて“黒衣の魔女”と呼ばれた、あの女がそこに立っていた。
「あなたは……満足なのか?」
マークの声には怒りよりも哀しみが混じっていた。
女は微笑み、静かに首を傾ける。
「満足? いいえ……私は、約束を果たしただけ。
神々が捨てた契約を、もう一度結び直すために」
「そのために、この世界を滅ぼすのか!」
「滅びとは、再生の別名よ。
炎の中でしか、新しい命は生まれない。
――それが、“深紅の竜血”の定め」
女が手を掲げた瞬間、竜神の咆哮が響いた。
赤光が世界を貫き、マークの体が弾き飛ばされる。
炎の波の中で、彼の意識は遠のきながらも、最後の視界に“塔”の影を見た。
呪詛の塔。
世界の中心にそびえる、忌まわしき黒の尖塔。
そこには、かつて神々が結んだ“最初の契約”が封じられているという。
――そこに辿り着ければ、まだ……終わらせられる。
マークは、崩れ落ちながらも歯を食いしばり、焼けつく空へ手を伸ばした。
その掌には、古の印章〈ファル=イグナの紋〉が輝く。
それは、かつてセラフィーナが授けた“契約の鍵”だった。
「……セラフィーナ……」
名を呼んだ刹那、竜神の中の紅蓮が一瞬だけ揺らいだ。
その瞳の奥に、少女の面影がよぎる。
まるで、彼の声に応えるように。
空が裂けた。
竜神が天を貫き、翼の一振りで嵐を巻き起こす。
燃える雲の中に、巨大な円環が浮かび上がった。
それは――新たなる神の門。
世界は、再誕の瞬間を迎えようとしていた。
マーク・オーウェンは最後の力を振り絞り、炎の中を歩き出した。
彼の前には、崩壊の道。
だが、その奥にこそ、救済があると信じて。
「終わりの地で、私は――始まりを見届けよう」
燃えさかる風が彼の言葉を運び、遠くの空で竜神が吠えた。
深紅の光が世界を包み、
その中心に、ひとすじの白い焔が生まれる。
それが、新たなる“焔の契約”の証であった。




