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深紅の竜血  作者: 江渡由太郎
第六章 終わりの地
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10

 ――世界が、軋んでいた。


 天と地のあいだで、炎の波が吹き荒れる。

 燃え盛る空はまるで裂けた帷のように赤黒く揺らぎ、崩壊した聖都の残骸が宙を漂っていた。

 その中心で、二つの光が融け合おうとしていた。


 一つは焔の巫女セラフィーナ。

 一つは抱擁するエンプレス・エムブレイス


 巫女の胸を、黒竜の心臓が貫いた瞬間、世界の音が消えた。

 轟音も、叫びも、ただ遠くで響く心臓の鼓動だけが残った。

 赤き光が渦を巻き、天を焦がしながら、やがて一つの巨大な影を形づくる。


 ――それは、竜であり、神であり、人だった。


 新たなる存在は、黒と紅の翼を広げ、ゆっくりと天を仰ぐ。

 鱗は流体のように揺らめき、その表面を血のような光脈が走る。

 瞳は蒼。だがその奥には、巫女の記憶と竜の怒りが共に燃えていた。


「我は……“契約”そのもの……」


 女神とも、竜ともつかぬ声が大気を震わせた。

 マーク・オーウェンは焼けた石畳の上で、その姿を見上げていた。

 光が彼の瞳に焼きつく。あらゆる神話と伝承が、いま眼前で再構築されているのを理解した。


「……やはり、あの黒衣の魔女の狙いはこれだったのか……」


 マークは呟きながら、杖の先を大地に突き立てる。

 地中に埋め込まれた古代の封印陣が赤く輝き、崩壊した城下から無数の光柱が立ち上る。

 それは、“呪詛の塔”へと続く光の道標。

 そこに残された最後の聖印を起動しなければ、この竜神は――この世界そのものを、焼き尽くしてしまう。


 彼は、立ち上がった。

 焼け焦げたマントを翻し、足元の瓦礫を踏みしめながら、崩落した階段を昇っていく。

 その背に、不死鳥の影が群れ飛ぶ。

 だがもはや、それらは彼を襲うことはなかった。

 竜神がすべてを支配していた。炎の命すら、その意志の延長にあった。


 ――そのとき。


 マークの前方に、ひとりの影が現れた。

 黒いヴェールをまとい、手には血塗れの書。

 かつて“黒衣の魔女”と呼ばれた、あの女がそこに立っていた。


「あなたは……満足なのか?」


 マークの声には怒りよりも哀しみが混じっていた。

 女は微笑み、静かに首を傾ける。


「満足? いいえ……私は、約束を果たしただけ。

 神々が捨てた契約を、もう一度結び直すために」


「そのために、この世界を滅ぼすのか!」


「滅びとは、再生の別名よ。

 炎の中でしか、新しい命は生まれない。

 ――それが、“深紅の竜血”の定め」


 女が手を掲げた瞬間、竜神の咆哮が響いた。

 赤光が世界を貫き、マークの体が弾き飛ばされる。

 炎の波の中で、彼の意識は遠のきながらも、最後の視界に“塔”の影を見た。


 呪詛の塔。

 世界の中心にそびえる、忌まわしき黒の尖塔。

 そこには、かつて神々が結んだ“最初の契約”が封じられているという。


 ――そこに辿り着ければ、まだ……終わらせられる。


 マークは、崩れ落ちながらも歯を食いしばり、焼けつく空へ手を伸ばした。

 その掌には、古の印章〈ファル=イグナの紋〉が輝く。

 それは、かつてセラフィーナが授けた“契約の鍵”だった。


「……セラフィーナ……」


 名を呼んだ刹那、竜神の中の紅蓮が一瞬だけ揺らいだ。

 その瞳の奥に、少女の面影がよぎる。

 まるで、彼の声に応えるように。


 空が裂けた。

 竜神が天を貫き、翼の一振りで嵐を巻き起こす。

 燃える雲の中に、巨大な円環が浮かび上がった。

 それは――新たなる神の門。


 世界は、再誕の瞬間を迎えようとしていた。


 マーク・オーウェンは最後の力を振り絞り、炎の中を歩き出した。

 彼の前には、崩壊の道。

 だが、その奥にこそ、救済があると信じて。


「終わりの地で、私は――始まりを見届けよう」


 燃えさかる風が彼の言葉を運び、遠くの空で竜神が吠えた。

 深紅の光が世界を包み、

 その中心に、ひとすじの白い焔が生まれる。


 それが、新たなる“焔の契約”の証であった。

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