五章
リューグナーの王都に戻った後。戦勝の報酬が、ファルリンにまで与えられた。イネルティアの王女はクレトが報償から選び、ファルリンが世話をすることになった。
彼女は日がな一日、ぼんやりと窓の外ばかりを眺めている。名前を聞いてみたが、静かに首を横に振るばかりだ。
自然と、ファルリンもクレトやロイクと外に出ることが減り、部屋で裁縫をして過ごすことが増えた。
クレトは暇を見つけては、足繁く部屋を訪れた。ロイクも、やることが終わってしまえば顔を出してくれる。
「どうだ?」
「……あの子、ショックで声を失ってしまったみたいなんです」
何を聞いても、頷くか、拒否するか、首を傾げるかしかしない。たまに話そうとするものの、声が出ない衝撃で沈み込んでしまう。
「あ、でも、服を作ったら喜んでくれました。あの子が着ていたような、可愛いものじゃないんですけど」
連れ帰ってきた時の彼女の服は、布やレースをたっぷり使って、スカートをふんわりとふくらませた服だった。布で作った花の飾りも可愛らしかったが、ファルリンの腕ではあんな服は作れない。この国で手に入る服と同じ型のものに、少し装飾をつけるのがせいぜいだ。
それを「あなたのよ」と渡した時の笑顔は、忘れられそうにない。
「ただ、名前で呼べないのがちょっと不便なんですよね。勝手な名前で呼ばれたら、きっとあの子も嫌だと思うんです」
「ああ、彼女はヴァネッサ王女だ。イネルティア王国の最年少だったか」
「知ってたなら早く教えてください!」
もっと前にわかっていたら、きちんと名前を呼んであげられたのに。
つい怒鳴りつけてしまって、慌てて振り返ってヴァネッサを見る。驚いた顔をしていたが、怖がられた様子はない。
ホッと息を吐いたファルリンに、クレトは楽しげな笑い声をこぼす。
「あなたも立派に保護者だな」
「当然です!」
心穏やかに笑ってくれたら。声を取り戻してくれたら。それだけで、幸福な気分に満たされるだろう。
ヴァネッサに生きていたいと思ってもらうこと。それが、今のファルリンの目標だ。
「だが、あまり根を詰めすぎるなよ」
ぽんぽん、と頭を二回、軽く叩いてクレトは部屋を出ていく。
もう少しだけ、話をしていたかった。
寂しい気持ちを隠せずに、ファルリンはソファに座る。すると、窓から離れたヴァネッサが隣で膝立ちになった。懸命に小さな手を伸ばし、ファルリンの頭をそっとなでてくれる。
「え……?」
口元にかすかな笑みを浮かべ、ヴァネッサはなで続けた。
小さな手が、一生懸命になでてくれる。まるで、慰め、励まそうとしているように。
気がついたら、泣きながらヴァネッサを抱き締めていた。細くて小さくて、ちょっと力を入れたら簡単に折れてしまいそうな体に、また涙が込み上げる。
「…………」
音にならない声が、耳元で言葉を囁く。
「ヴァネッサ……」
彼女の名前を呼んでみたら、パッと破顔して抱きついてきた。嬉しくて、もう一度名前を呼んでみる。彼女の腕に力がこもった。
「ぉ……」
鈴が転がったのかと思うような、愛らしい声。
金色の髪を見下ろせば、ヴァネッサが顔を上げて青色を細める。
「ぉ……」
懸命に動く唇が、ロイクが呼びかけてくる時と同じ動きをしていた。
声は出ないけれど、呼んでくれている。そう気づいた瞬間、ファルリンはもう一度ヴァネッサを抱き締めた。
「私はね、ファルリンよ」
ロイクと同じ呼び方が気に入っているのか。名前を伝えてみたが、ヴァネッサはずっと「お姉さん」と動かしている。それはそれで可愛らしいので、呼び方にはこだわらないことにした。
いつか、ヴァネッサの声で呼びかけてもらえる日が来るように。
ファルリンは願いを込めて祈った。
‡
ようやくヴァネッサが生活に慣れてきたらしく、たまにロイクやクレトの後をついて歩くようになった。時には、他の住人にも会釈をする。上衣の裾を指でつまんで、左足を引いて軽く頭を下げるだけなのだが、小さなヴァネッサがやると実に愛らしい。今では、ヴァネッサの会釈見たさに声をかける者もいる。
不思議に思うのは、幼いヴァネッサが置かれた状況を理解していることだ。
ファルリンは、リューグナー王に言われて悟った。けれどヴァネッサは、最初からわかっていたような素振りを見せることがある。
「ヴァネッサは、不思議な子ですね」
今日は、ヴァネッサが街の外に興味を示したので、王都のすぐ外に出ている。クレトがヴァネッサと同乗し、ファルリンはロイクの後ろに乗せてもらった。
広がる草原で、ヴァネッサとロイクははしゃいで転がっている。
「誰かに聞いたわけじゃないと思うんですけど、置かれた状況がわかっているような気がするんです」
「逃げられないよう縛られ、家族に置いていかれたんだ。俺の推測だが、リューグナー軍の捕虜になれ。犠牲になれ、と言い含められて置き去りにされたのだろう」
「……ひどい」
家族の中でも、幼い者を特に優先して助けたい。そう考えるのが自然だと思っていた。
あの日のヴァネッサの姿を思い出すだけで、鼻の奥が痛んで涙が込み上げる。
何日、飲まず食わずだったのか。救い出されるまで、どれほどの恐怖や絶望を味わったのだろうか。
想像の中でさえ、耐えきれそうにない。
「もう絶対、ヴァネッサはあんな目に遭わせません!」
「ははっ、あなたに愛される人は幸福だな」
「えっ……」
憤慨しながら軽い鼻声で断言したファルリンは、思わぬ不意打ちにクレトを見上げてしまう。
右の人差し指で額をかきながら、微笑んでいる深緑色の瞳と視線が絡む。とたんに、頬がふわりと熱を帯びた。
見られたくなくて、両手で頬を覆って顔ごと逸らす。
「ここへ来た当初より、あなたはよく笑うようになった。ロイクも、あなたといる時は年相応の顔をする。そういえば、隊のやつに、戦場でなくとも、ケガをしたらあなたに手当てを頼めるかと聞かれたな」
言われて思い返せば、ロイクは初めて会った時の印象からずいぶんと変わった。十歳の子供らしいことを言うこともあるし、相変わらず妙に大人びたことを口にする時もある。
同じ宿舎で寝泊まりしている者たちにも、よく話しかけられるようになった。たいていは他愛のない世間話程度だ。
「ロイクはきっと、私に甘えているんですよ。それから、隊の人に、私でいいならいつでも手当てしますって伝えてあげてください」
「ありがとう、伝えておく」
心臓をギュッと鷲づかみにされたような。息苦しくて心地よい痛みを引き起こす、優しい声。
クレトの顔を見られず、代わりに草むらで仲良く遊ぶロイクとヴァネッサを見つめた。
‡
外で走り回って疲れたのか、ヴァネッサは夕食を半分ほど食べたところで眠ってしまった。いつもより二刻ほど早く、寝る前に物語を読まなかったのは初めてで、何となく寂しい気分になる。
並べられたベッドの奥側にヴァネッサを寝かせ、ファルリンは鍵を閉めて外に出た。一緒に眠るには少し早いため、散策でもしようと思い立った結果だ。
夏の一月も終わりに差しかかり、昼間に動き回るとしっとり汗をかく。けれど、夜はまだ涼しく、風が吹くと肌寒さを感じることもある。
ヒュッと吹いた風に小さく身震いし、腕をさすった。
「外衣を持ってくるべきだったわ」
とはいえ、取りに戻るつもりはない。歩いているうちに、体も温まるはずだ。
一歩踏み出したところで。
「こんな時間に一人で出歩くのは感心しないな」
かけられた声に体がすくむ。人の気配がなかったことと、すぐにわかった声の主に驚かされたのだ。
振り向くことはできない。したくない。
「まだ眠る時間ではありませんし、外の空気を吸いたかったので」
「そういう時は、誰かにひと声かけてからにしろ。いきなりいなくなったと、騒動にされたいのか?」
言葉は少々きついが、声音はひどく穏やかだ。あまりに優しすぎて、胸の奥がギュッと締めつけられるように痛む。
苦しくて苦しくて、息ができない。
鼻の奥がツンとして、視界がにじんだ。
(この人は、どうして……)
こんなに優しくしてくれるのだろう。温かく、心地よい居場所を作ってくれる理由は、どこにあるのか。
もしかしたら、似たような立場ゆえの同情や憐憫があるのかもしれない。
落ち込みがちな中で、少しでも息をしやすいように。そうやって彼は、他人に心を砕いているのか。
彼が、心安らかでいられる時はあるのだろうか。
(確かに、他の選択肢はないけど……)
故郷は残っていても、帰ることは許されない。時には戦場へ出て、死ぬまで、この国で生き続ける。こちらに拒否する権利はない。
ファルリンはイステラーハのことを忘れていないし、忘れるつもりもない。十年が過ぎても、忘れられないだろう。だから、ふとした折りに思い出し、話してしまうのだ。
けれど、彼からコリエンテの話を聞いたことはない。ファルリンが知っているのは、夏のわずかな間だけ雪解けが訪れる国ということくらいだ。コリエンテの名を出すと、彼はとたんに機嫌が悪くなる。
だから、気になっても尋ねられなかった。
(私は……)
──この人を、もっと知りたい。
不意に浮かんだ思考が、熱を帯びて全身に回る。頭が真っ白になり、体がグラグラと揺れた。気を抜けば、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
他のことが、何も考えられない。
「特に、日が暮れてから一人で出歩くな」
心配になるんだ。
彼の声にならない言葉が、聞こえた気がした。
真摯な深緑の瞳に、気遣う色が窺える。
(……夜になっていて、よかったわ)
昼間だったら、熱があるのかと気遣わせてしまっただろう。そのくらい、頬が熱いことが自分でわかる。
「出たい時は、誰かつけよう」
胸に、背中に、頭に。氷を放り込まれた感覚を味わう。顔を焦がす勢いの熱も、一気に引いてしまった。
悲しさと悔しさに落胆が味をつけ、心の中から涙となってあふれ出る。
どうしたいのか。どうして欲しいのか。それがようやく、この手でつかめそうなところに見えた気がするのに。
はらはらとこぼれていく水滴を、拭うこともしない。
泣き顔を見られても、かまわない。顔を持ち上げ、彼を見上げた。
「……もし、そばにいられるのが嫌なら、なるべく離れて」
「あなたは、一緒に来てくれないのですか?」
クレトの言葉を遮る。
音に乗った言葉は、取り返しがつかないとわかっている。わがままな娘と思われ、嫌われることは怖い。それでも、一度心からあふれ出たものは簡単に止まりそうになかった。
「あなたにとって私は、ロイクやヴァネッサと同じ……ですか?」
違う、と言って欲しい。
周りと同じ扱いをできない存在だ、と言われたい。
──愛されたい。
湧き上がった感情に翻弄され、声にならない言葉が息を詰まらせる。
「あぁ……と」
こぼれたため息に混ざる声は、右の人差し指で額をかくクレトの腕に散らされていく。
答えにくい質問とわかって投げかけた。彼のことだから、こちらを傷つけないような言葉を選ぶと思っている。
ひどく優しい答えをもらえたら、かえって諦めがつきそうだ。
「その……俺が言うべきことではないとわかってはいるんだが……」
必死に言葉を探している。そんな表情が、忙しく額をかく手の向こうに見え隠れして。
「このところ、あなたに大切にされているヴァネッサが、羨ましくて仕方がないんだ」
一つ口にして、堰が切れたのか。
「ロイクと会った時、ぎこちないが笑顔になっただろう? いや、あなたの国に攻め入った俺相手に笑えないことはわかっていたんだが……。それから、イネルティアでの夜に、あなたと手をつないで眠ったロイクには、夜ごと殺意を覚えた。ああ、そうだ。あなたと二人で出かける楽しみを、時々奪ってくれた恨みもある」
ひと息に吐き出された言葉の意味を、じっくりと噛み締める。
あの時、ロイクに笑いかけたのは、子供相手に怒りを表現できなかっただけだ。
イネルティアの夜は、できれば真ん中で眠りたかった。そんなことばかり考えていたせいだろうか。同じ天幕の中で毎夜ロイクに殺意を向けていたことには、これっぽっちも気づかなかった。
二人で出かけるのは、確かに楽しい。けれど、ロイクやヴァネッサがはしゃぐ姿も微笑ましくて好きだから、彼が恨んでいるとは思ってもいなかった。
言葉の一つ一つをかみ砕くうちに頬が熱を帯び、堪えきれない笑いが込み上げてくる。
「ふふっ……本当に、あなたは子供みたいな人ですね」
ヴァネッサだけでなく、ロイクにまで。
クスクスと笑いながら、全身が温かな嬉しさで満たされていく。
「あなたに子供扱いされるのは、嫌ではないな。むしろ、童心に帰れてありがたいくらいだ」
身も心も包み込んでくれるような、やわらかい声が降ってくる。
心臓がギュッと小さくなって。今までできていたはずの呼吸の仕方が、急にわからなくなってしまった。
「十年前から、生き延びることに必死でいたからな。子供でいることは許されなかった」
ぽつりと漏れた声が、彼自身にも意外だったのか。見上げた顔は、手で額に触れながら横を向いていた。
暗くてはっきりと見えたわけではないが、目元が少し赤い気がする。
「ロイクが十歳になって戦場に出されたのは、俺のせいだ。父と兄が戦死し、母が自害した日に、コリエンテ王国は失われた。それでも剣を手に、姉と妹だけは守ろうと……」
声を詰まらせたクレトの背を、そっとなでた。
泣いていると、よく母がしてくれたことだ。それでも泣きやめない時は、ギュッと抱き締めてくれた。
「お姉さんと妹さんは……」
聞かずとも、リューグナー王の行動を思えば、結果はわかりきっているのに。
クレトの寄せられた眉根が、すべてを物語っている。
「リューグナー王の拳にあっさり沈められて、気がついたら二人ともいなかった。どこへ行ったのか、どうなったのか……聞いても、教えてもらえなかった」
声どころか、ため息さえ出ない。
「生きているなら、幸せでいて欲しい。すでに亡き命であるなら……安らかな眠りであって欲しい。そう、願っている」
目を閉じた彼は、長く息を吐き出した。その横顔は、悲しみと寂しさをにじませながらも、重荷をほんの少し下ろせたような、安堵の色を浮かべている。
「俺に戦う力がなかった頃に攻め入られた国は、助けられなかった。だが今は、リューグナーの一地方として残す努力はできる。可能性がある者を、助けられるんだ」
その瞬間、気になっていた疑問が浮かび上がり、一気に解消した。
「もしかして、報償の中から私を選んだ理由はそれですか?」
「それもある。だが何より、あなたを人として生かしたかった」
「どういう、こと……ですか?」
クレトは右手を持ち上げ、人差し指で額を何度かかく。時々見かけたが、彼の癖なのだろう。
「リューグナー王は、ああして報償に混ぜれば、俺が選ぶことをわかっていたんだ。そうしなければ、あなたは確実に、人としての尊厳を奪われて絶望へと落ちていくのだから」
大量の冷水を、頭からかけられた気分だ。
早く命を絶ってもらうためならば、どんなことでもする。だから、支配地になりきっていない国の王や王子を前線に送り込む。それが王女ならば、死んだ方がマシと思わせる待遇に落とすのだろう。
彼がいなければ、自分は元より、ヴァネッサも。
体の中から湧き上がる憤りに、握り締めた拳が震える。
「というのは建前だな。本当は、あなたやあなたの国を救う目的よりも、俺があなたを他の誰かに渡したくなかった。陥落する王宮で怯むことなく立ち続け、自ら進み出るあなたを……。だから、あの時は迷わずあなたをもらい受けたんだ」
頭からつま先までを満たしていた怒りが、瞬き一つの間に消え去った。代わりに体を満たすのは、原因がはっきりしている熱。
胸がいっぱいになって息ができず、言葉が出てこない。
あふれた涙が伝い落ちながら、頬をくすぐっていく。
「……その、あまり泣かないでくれ。他の者なら「泣くな」で済ませるが、あなた相手ではどうしたらいいか、わからなくなるんだ……」
壊れ物を扱うように。そっと頬を拭う手は硬く、大きくて骨ばっている。
頭をなでるのではなく、触れてくれた。
嬉しさのあまり、こぼれる涙を止めるどころか、ますますあふれさせてしまう。体がグラグラと揺れて立っていられなくて、その場で座り込んだ。
「どうしたら、あなたは泣きやんでくれる?」
戦場で見るのは、戦神のごとき動きと剣さばき。宿舎にいる時は穏やかで優しく、リューグナーの英雄とは思えない。だが、どんな場合であれ、こんなに頼りない声を出したことはなかった。
(私だけが知っている、この人の姿ね)
英雄と呼ばれ、戦場を駆ける。そうではない一面を見せてくれたことが、何よりも嬉しくて。
口元を緩めて、まだ落ちている涙を拭う。顔をグッと上げると、堂々と「心配」と書かれた顔のクレトが見つめてきた。
「あなたのために、俺ができることはあるか?」
気恥ずかしさよりも、喜びが勝る。
言いたいことはたくさんあるけれど、うまく言葉にならない。何から伝えればいいか、迷ってしまう。
返事を待つ彼の、真摯な眼差し。見つめ返していたら、はしゃいでいた心臓が少し落ち着いた。あれほど出てこなかった言葉も声も、今ならすんなりと出てきそうだ。
「ずっと、あなたのそばに置いてください。決して、離さないでください」
スルリとこぼれた、本音。
言えた開放感で、ファルリンの笑顔が花開く。右の人差し指が額をかいていたクレトも、つられたように微笑んだ。
「絶対に離さない」
心に、体に、羽根が生えたみたいに。ふわりと軽くなって、全身をぶつける勢いで彼の胸に飛び込む。
「あなたが望む限り、そばにいよう」
落とされたクレトの囁きに、ファルリンはこれまでのどんな笑顔よりも咲き誇る微笑を向けた。