第1話 いつもと変わらない日常
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
「……んん」
朝倉翼はベッドの上で寝返りを打ち、枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
午前九時十二分。
「……微妙な時間だな」
遅刻するわけではない。
そもそも、翼には決まった出勤時間というものがなかった。
二十五歳。在宅で仕事をしている、ごく普通の男。
朝の満員電車に揺られることもなければ、上司の顔色をうかがいながら出勤することもない。
それを羨ましいと言う友人もいるが、実際のところ、そんなにいいものでもない。
仕事と私生活の境目は曖昧だし、気を抜けば一日中誰とも話さずに終わってしまう。
「……さて、起きるか」
ようやくベッドから抜け出した翼は、洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
タオルで顔を拭きながら、ふと鏡に映った自分を眺めた。
身長は百六十五センチ。体格は中肉中背。
黒髪は少し長めで、寝癖がついている。会社勤めでもないため、髪型をきっちり整える習慣はなかった。
「……ひどい頭だな」
手ぐしで髪を直してみる。
しかし、跳ねた毛先はなかなか言うことを聞いてくれない。
「まあ、いっか」
結局、適当に整えたところで諦めた。
鏡に映っているのは、どこにでもいそうな普通の男だった。
特別に目立つ容姿でもなければ、人に自慢できるような何かがあるわけでもない。
それでも翼は、今の生活をそれなりに気に入っていた。
そして、そんな翼には一つだけ楽しみにしている習慣があった。
行きつけのカフェに行くことだ。
「……今日もあそこで仕事するか」
誰に聞かせるでもなく呟き、翼は着替えを始めた。
ノートパソコンをバッグに入れ、家を出る。
*
カフェ・リアン。
住宅街の一角にある、小さな店だった。
大きな看板があるわけでもない。
テレビで紹介されるような有名店でもなければ、行列ができるような人気店でもない。
むしろ、知る人ぞ知る穴場といったところだろう。
翼は、この店が好きだった。
理由はいくつかある。
まず、コーヒーが美味い。
特に深煎りのコーヒーは、翼のお気に入りだった。
しっかりとした苦味と、口の中に残る香ばしい余韻。
酸味が控えめで、飲み終えたあとにふっと息をつきたくなるような味わいがある。
それに、店内はいつも落ち着いていた。
騒がしすぎず、かといって静まり返っているわけでもない。
誰にも急かされることなく、自分の時間を過ごせる。
在宅で仕事をしている翼にとって、ここはちょうどいい仕事場でもあった。
そして、店員さんも可愛い。
そんな理由もあって、翼はすっかりこの店の常連になっていた。
扉を開けると、カラン、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた声がした。
カウンターの向こうに立っていた女性が、翼に気づいて微笑む。
「あ、朝倉さん。おはようございます」
「おはようございます、橘さん」
彼女の名前は、橘星莉奈。
二十六歳。翼より一つ年上で、このカフェ・リアンの店長を務めている。
肩につかない程度に切りそろえられたショートボブは、光の当たり方によって銀色にも見える、柔らかなアッシュグレー。
その髪が動くたび、さらりと揺れる。
そして、印象的なのは琥珀色の瞳だった。
落ち着いた雰囲気と、整った顔立ち。
すらりとした立ち姿には、どこか品のよさが感じられる。
初めてこの店を訪れたとき、翼が思わず目を奪われたことは、今でも覚えていた。
もっとも、本人にそんなことを言ったことはない。
「今日は少し遅いですね」
星莉奈が微笑みながら声をかける。
「布団との戦いに負けまして」
「ふふっ。朝倉さん、いつも負けてません?」
「強敵なんですよ、あいつ」
「じゃあ、明日は勝てるといいですね」
「たぶん無理ですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
何度も店に通ううちに、自然とこんな冗談を交わすようになっていた。
最初は注文と会計のときにしか話さなかった。
それが、いつの間にか天気の話をするようになり、仕事の話をするようになり、今ではこうして他愛のない会話を楽しむ間柄になっていた。
とはいえ、あくまで常連客と店員。
それ以上でも、それ以下でもない。
「いつものですか?」
「お願いします」
「かしこまりました」
星莉奈は小さく微笑み、コーヒーの準備を始めた。
翼は窓際の席に腰を下ろす。
バッグからノートパソコンを取り出し、電源を入れた。
画面に並ぶ仕事の資料を確認しながら、今日やるべきことを頭の中で整理する。
窓の外では、通勤途中らしい人々が足早に歩いていた。
自転車に乗った学生。
犬の散歩をする老人。
小さな子どもの手を引く母親。
誰もが、それぞれの日常を生きている。
翼はそんな景色を、仕事の合間になんとなく眺めるのが好きだった。
「お待たせしました」
星莉奈がコーヒーを運んでくる。
テーブルに置かれたカップから、深煎り特有の香ばしい香りが立ち上った。
「ありがとうございます」
「今日もお仕事ですね」
「ええ。パソコンを開いた時点で、もう半分くらい終わった気分です」
「ふふっ。まだ始まったばかりじゃないですか」
「気持ちって大事ですから」
「じゃあ、残りの半分も頑張ってくださいね」
「はい。コーヒーの力を借りながら頑張ります」
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
星莉奈は笑顔でカウンターへ戻っていった。
翼はコーヒーを一口飲む。
「……うまい」
小さく呟き、再びパソコンに向き直った。
キーボードを打つ音。
食器が触れ合う小さな音。
時折聞こえてくる、店員と客の穏やかな会話。
そんな音に囲まれながら、翼は仕事を進めていく。
特別なことは何もない。
昨日も、一昨日も、似たような時間を過ごしていた。
明日もきっと、こんな一日が続くのだろう。
翼はそう思っていた。
*
しばらく仕事を進め、コーヒーを半分ほど飲んだ頃だった。
店の入り口から、何かが落ちる音がした。
振り向くと、年配の女性がバッグの中身を床に散らばらせていた。
「あら、やだ……」
女性は困ったように笑いながら、ゆっくり腰をかがめようとする。
その横を、急いでいるらしい男性が通り過ぎていった。
翼はキーボードから手を離した。
「あ、拾いますよ」
席を立ち、床に散らばった小物を拾い集める。
「まあ、ありがとうねぇ」
「いえいえ。これで全部ですかね?」
「ええ、ありがとう。助かったわ」
女性は何度も頭を下げた。
「そんな、大したことしてないですよ」
翼は笑って、バッグを手渡した。
女性が席に着いたのを見届けてから、自分の席に戻る。
すると、星莉奈がこちらを見ていた。
「……どうかしました?」
「いえ。朝倉さんって、優しいですよね」
「え?」
「さっき、すぐに立ち上がってたから」
「いや、あれくらい普通ですよ」
「そうですか?」
「目の前で困ってる人がいたら、誰だって拾うでしょ」
「ふふっ」
星莉奈は柔らかく微笑んだ。
翼はなんとなく照れくさくなって、残っていたコーヒーに口をつけた。
「……あっつ」
「ふふっ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと油断しただけなんで」
「もう、気をつけてくださいね」
星莉奈が笑う。
翼も笑った。
やがて翼はパソコンの画面に視線を戻し、仕事の続きを始めた。
窓の外では、いつもと変わらない街の景色が広がっている。
コーヒーを飲み、仕事をして、時々誰かと言葉を交わす。
そんな、ごく普通の一日。
翼はまだ知らなかった。
この何気ない日常が、いつか自分にとって、何よりも大切なものになることを。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての投稿ですが、翼たちの日常を大切に描いていきたいと思います。
これからよろしくお願いいたします。




