第2話 ネオヴァンパイア
Crimson END
第2話 人間とネオヴァンパイア
第一章 赤い瞳の少女
黒い霧が、夕暮れの空へと溶けていく。
つい先ほどまで幸村家の庭を埋め尽くしていた異形の怪物たちは、まるで最初から存在しなかったかのように、その姿を消しつつあった。
残されたのは荒れ果てた庭と、一本の刀を握りしめた高校生――幸村蒼真だった。
「…………」
いや、正確にはもう一人いる。
だが蒼真は、そちらを見る前に、まず自分の右手を見下ろした。
黒い柄に、銀色の刀身。夕陽を受けた刃が、鈍い光を返している。
(……いや、待て待て待て)
何がどうなっている?
さっきまで自分は、ごく普通の高校生だったはずだ。学校へ行き、授業を受け、家に帰る。それだけの、平凡で退屈な一日を送る予定だった。
それがどうだ。
空には妙な亀裂が現れ、庭には化け物が押し寄せ、気づけば自分は日本刀を握っている。
しかも、その化け物を倒してしまったらしい。
(……俺、何か悪いことしたっけ?)
思い当たる節はない。
少なくとも、こんな目に遭わなければならないほどの悪事を働いた覚えはなかった。
「……ねえ」
不意に声がした。
蒼真が顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
腰を越えるほど長い黒髪が、夕暮れの風に静かに揺れている。透き通るように白い肌に、黒を基調とした衣装。そして何より目を引くのは、宝石のように鮮やかな赤い瞳だった。
美しい少女だった。
ただし、その美しさには、どこか人間離れしたものがある。
少なくとも蒼真には、こんな少女が近所に住んでいるとは到底思えなかった。
少女は蒼真の顔ではなく、彼が握る刀をじっと見つめていた。
「その刀。その魂……あなた……本当に、人間?」
「…………は?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。
人間かどうか?
そんな質問をされたのは、生まれてこの方初めてである。
蒼真は自分の身体を見下ろした。手が二本、足が二本。頭も一つ。特におかしなところはない。
念のため、もう一度手を確認する。
うん。人間だ。
「いや、人間だけど……」
少女は無言だった。
その赤い瞳が、なおも刀に注がれている。
「っていうか、なんで俺が疑われてんの!?」
思わず叫んだ。
だが少女は、そんな蒼真の抗議など聞こえていないかのように、刀を見つめ続けていた。
「俺だって、これが何なのか知りたいんだけど……」
蒼真がぼやいた、そのときだった。
――ガラッ。
頭上で瓦のずれる音がした。
二人がほぼ同時に振り向く。
幸村家の屋根の上。
夕陽を背負った巨大な影が、ゆっくりと身を起こしていた。
「…………え?」
最初は、大きな犬かと思った。
いや、犬にしては少々大きすぎる。
黒い毛並みに、鋭く尖った耳。赤く光る双眸と、口元から覗く巨大な牙。
その姿は確かに狼に似ていたが、普通の狼と呼ぶにはあまりにも巨大だった。
少女の表情がわずかに険しくなる。
「ウルフ種……。ヴァンパイアの天敵……」
「でかっ!!」
蒼真の口から、反射的に声が飛び出した。
屋根の上の怪物が低く唸る。喉の奥から響く重低音に、蒼真は思わず一歩後ずさった。
「なんだこれ!? ポメラニアンでないことは確か!」
「見たら分かるでしょ。少なくともダックスフントでもないわ」
「見てもわかんねーーーー!!」
なぜ犬種の話になっているのか。
そもそも、あれを犬として分類していいのか。
蒼真が混乱している間にも、巨大な狼は屋根の上で身を低くしていた。鋭い爪が瓦を砕き、破片が庭へ落ちてくる。
少女はそんな怪物を見上げると、何でもないことのように告げた。
「じゃあ、あなたはそこで見てなさい」
「……え?」
返事をする間もなかった。
少女が地面を蹴った瞬間、その姿が視界から消えた。
直後、凄まじい衝撃音が響き渡る。
「うわっ!?」
屋根から飛び降りた巨大な狼と、黒衣の少女。
二つの影が庭の中央で激突していた。
少女は速かった。
振り下ろされる爪を紙一重でかわし、獣の側面へ滑り込む。鋭い一撃を加えたかと思えば、反撃が届くより先に距離を取る。
その動きは、蒼真が知っている人間の運動能力を明らかに超えていた。
(……なんだよ、あれ)
恐怖を忘れたわけではない。
むしろ、目の前で起きていることが恐ろしすぎて、逃げるという選択肢すら頭から抜け落ちていた。
少女が跳ぶ。
狼が追う。
黒い影が交錯し、庭の土が激しく巻き上がる。
「す、すげえ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
だが、次の瞬間。
狼が巨体を低く沈めた。
少女が振り向く。
そのときには、すでに獣が目の前まで迫っていた。
「――っ!」
ドガァッ!!
鈍い衝撃音とともに、少女の身体が宙を舞った。
「お、おいっ!?」
地面に叩きつけられた少女は、そのまま土を削りながら滑っていく。
蒼真の背筋が凍った。
あれほどの勢いで吹き飛ばされたのだ。無事で済むはずがない。
土煙の向こうで、少女がゆっくりと顔を上げた。
その頬には、深い傷が刻まれていた。
白い肌を伝う赤い血。
「おい、大丈夫か!?」
蒼真が駆け寄ろうとした、そのときだった。
――バチッ。
傷口に赤い稲妻が走った。
「……は?」
蒼真は足を止めた。
裂けていた皮膚が、目の前で塞がっていく。
流れていた血が止まり、傷の輪郭そのものが消えていった。
数秒後。
少女の頬には、傷痕ひとつ残っていなかった。
「…………」
蒼真は自分の目を疑った。
少女は何事もなかったかのように立ち上がると、再び巨大な狼へ向き直った。
(……いやいやいや)
おかしい。
絶対におかしい。
あれは、絆創膏を貼れば治るような傷ではなかった。
それが今、完全に消えた。
「……どうなってんだよ」
答える者はいなかった。
戦闘は再開された。
狼の咆哮が響き、少女の黒髪が激しく舞う。
何度かの攻防の末、少女の一撃がついに怪物の身体を捉えた。
巨大な狼が大きくよろめく。
その輪郭が、黒く崩れ始めた。
「……え?」
毛並みも、牙も、巨大な四肢も。
まるで煙が風にさらわれるように、黒い霧へと変わっていく。
やがて、そこには何も残らなかった。
夕暮れの庭に、ようやく静寂が戻った。
蒼真はしばらく呆然としていたが、恐る恐る少女へ近づいた。
「な、なあ……」
少女が振り向く。
蒼真は先ほど傷ついていた頬を指さした。
「今の……怪我してたよね!?」
「治った」
即答だった。
「治ったって……そんなこと……」
あまりにも当然のように答えられ、蒼真は言葉を失った。
少女は不思議そうに首を傾げると、淡々と説明した。
「私が不死のネオヴァンパイアだから治った」
「…………」
沈黙。
蒼真の頭の中で、何かが止まった。
一秒。
二秒。
「いや、ちょっと待て」
少女を見る。
「今のセリフ、おかしいところなかったか!?」
「普通」
「ネオヴァンパイアってなに!?」
返事はなかった。
「あと不死って、そんな『コンビニ行ってきた〜』みたいなノリで言う!?」
少女は平然としている。
どうやら、本気で何がおかしいのか分かっていないらしい。
(……ダメだ)
話が通じない。
いや、言葉は通じている。
だが、会話が成立している気がまったくしない。
蒼真が頭を抱えかけた、そのときだった。
足元が、小さく震えた。
「……ん?」
最初は気のせいかと思った。
だが、次第に揺れが強くなっていく。
庭の石灯籠が震え、屋根から瓦が落ちた。
ズズズズズズ……。
「じ、地震!?」
蒼真が慌てて周囲を見回す。
しかし少女は、地震など気にも留めていなかった。
その赤い瞳は、遠くの住宅街へ向けられている。
蒼真もつられて視線を追った。
崩れた家屋。
立ち上る黒煙。
そして、その向こう。
夕焼けに染まる街並みの中に、あり得ないほど巨大な影が立っていた。
「…………」
蒼真は息を呑んだ。
先ほどの狼が、かわいらしい小型犬に思えるほどの巨体。
全高十八メートルにも及ぶ、岩石のような漆黒の身体。巨大な腕と鋭い爪。赤く光る瞳の周囲では、不気味な紫色の光が明滅している。
怪物――ディアボロス。
それが、ゆっくりとこちらを向いた。
### 第二章 十八メートルの絶望
「……やる気ね」
少女が呟いた。
「何を!?」
蒼真が聞き返す。
「来るわ」
「何が!?」
少女は無言で前方を指さした。
「あれ」
「主語が全部抜けてんだよ!!」
叫んだ直後、蒼真は後悔した。
指さされた先で、巨大な怪物が身を低くしていたからだ。
十八メートルもの巨体が、こちらへ向かって姿勢を変える。
まるで獲物を見定めるように、赤い瞳が細められた。
「ロックオンされてる……」
少女の声が低くなる。
「……え?」
「私……?」
少女は自分を見下ろし、続いて蒼真へ視線を移した。
「いや、あなた……?」
「俺ただの一般人!!!」
蒼真は即座に否定した。
いや、何を否定しているのか自分でもよく分からない。
だが、少なくともあんな怪物に狙われる理由など、まったく思い当たらなかった。
少女の視線が、蒼真の手にある刀へ落ちる。
「その刀を抜きなさい! 人間!」
「…………」
蒼真は反射的に後ろを振り返った。
誰もいない。
「……俺?」
「刀を抜きなさい!」
「なんで!?」
返答の代わりに、遠方で轟音が響いた。
――ドンッ!!
ディアボロスが地面を蹴ったのだ。
その一歩だけで、周囲の建物が震えた。
「来てる来てる来てる!!」
巨大な影が、信じられない速度で近づいてくる。
蒼真は思わず後ずさった。
「俺ただの一般人なんだけどぉぉぉ!!」
少女はそんな叫びを聞き流すように、前へ踏み出した。
「ちょっ……お前また一人で行くの!?」
返事はなかった。
少女が跳躍する。
直後、ディアボロスの巨大な腕が振り下ろされた。
地面が爆発した。
衝撃波とともに瓦礫が飛び散り、蒼真は慌てて頭を抱えた。
「うわあああっ!?」
土煙の中、少女は崩れた建物の残骸を足場にして駆け上がっていた。
跳躍。
巨体の肩へ着地。
鋭い攻撃を叩き込む。
だが――。
「……硬い」
少女の表情が曇った。
ディアボロスの身体は、まるで巨大な岩盤そのものだった。
攻撃を受けても、その動きはほとんど鈍らない。
怪物が咆哮する。
空気を震わせる重低音に、蒼真は両耳を塞いだ。
「俺、なんでまだここにいるの!?」
逃げるなら今だ。
今すぐ家に戻って、布団をかぶって、すべて夢だったことにしてしまいたい。
だが、足が動かなかった。
目の前では、少女が命懸けで戦っている。
いや、本人は不死だと言っていた。
それなら命懸けという表現が正しいのかどうかも分からない。
(……もう何が何だか分かんねえよ!)
そのとき、少女が右手を開いた。
赤い液体が、空中に浮かび上がる。
一滴、二滴。
やがて無数の赤い粒子が集まり、渦を巻き始めた。
それは徐々に形を変え、硬質な鎖となっていく。
《ブラッドアーツ》。
赤い鎖が、夕空を切り裂いた。
先端がディアボロスの身体へ突き刺さる。
少女は鎖を利用して一気に距離を詰め、巨体の周囲を縦横無尽に駆け巡った。
蹴り。
反転。
さらに一本。
次々と放たれる鎖が、怪物の動きを制限していく。
蒼真は呆然とその光景を見上げていた。
(……すげえ)
本当に、何者なんだ。
人間ではないと言われれば、それはそうなのかもしれない。
こんな戦い方をする人間など、見たことがない。
「……俺いらなくない?」
思わず本音が漏れた。
その直後。
ディアボロスの巨大な腕が、少女を横から薙ぎ払った。
「やっぱいる!?」
反射的に叫んだものの、では自分に何ができるというのか。
刀を持っているだけの、ごく普通の高校生だ。
少女のように空を飛び回れるわけでもなければ、赤い鎖を生み出せるわけでもない。
ましてや、あんな巨大な怪物を斬るなど。
考えただけで気が遠くなる。
それでも、少女は戦い続けていた。
傷つき、再生し、再び立ち向かう。
だが、ディアボロスの進撃は止まらない。
黒い霧を漏らしながら、巨大な足がゆっくりと持ち上がった。
そのときだった。
「……子ども?」
蒼真の視線が、戦場の一角で止まった。
崩れた建物のそば。
小さな子どもが、身をすくめていた。
逃げ遅れたのだろう。
恐怖で動けなくなっている。
そして、その真上には――。
ディアボロスの巨大な足。
「…………っ!」
蒼真の心臓が跳ねた。
このままでは、踏み潰される。
助けに行かなければ。
だが、距離がある。
普通に走っても、到底間に合わない。
どうする。
どうすればいい。
そのとき、蒼真の視線が右手の刀へ落ちた。
「おい、刀!」
自分でも馬鹿げたことを言っていると思った。
刀に話しかけてどうする。
そんなものが返事をするはずもない。
だが――。
「あの子を助けろ!!」
叫んでいた。
刀は動かない。
巨大な足が、ゆっくりと落ち始める。
「…………」
蒼真の表情が変わった。
先ほどまで頭の中を埋め尽くしていた恐怖も、混乱も、言い訳も。
その瞬間だけは、すべて消えていた。
目の前で子どもが死ぬ。
それだけは、嫌だった。
「……早くしろ」
低く、押し殺した声。
その瞬間。
蒼真の両眼が、鮮烈な青に輝いた。
刀が震える。
『……勘違いするな』
「……え?」
声がした。
耳元ではない。
頭の中へ、直接響いてくるような声だった。
青白い電撃が、刀身を走る。
『今回だけだぞ』
「…………は?」
次の瞬間、蒼真の右腕が勝手に動いた。
柄を掴み、刀を引き抜く。
「コイツ、喋った!?」
驚く暇もなかった。
身体が、突然前方へ引っ張られた。
「――うわっ!?」
足が地面を離れる。
いや、離れるどころではない。
刀が、蒼真を引きずるように飛んでいた。
「刀が勝手に飛んでるぅぅぅぅ!!」
青い閃光が、崩壊した住宅街を一直線に駆け抜ける。
風圧で顔が歪み、制服が激しくはためいた。
視界の端で建物が流れていく。
何がどうなっているのか、理解する余裕などない。
だが、ひとつだけ分かっていた。
このまま進めば、あの子に届く。
ディアボロスの足が落ちる。
地面まで、あとわずか。
「うおおおおおっ!!」
蒼真は必死に左腕を伸ばした。
指先が子どもの服を掴む。
そのまま、小さな身体を抱き寄せた。
直後。
――ドゴォォォン!!
背後で地面が砕けた。
巨大な足が、つい先ほどまで子どものいた場所を踏み潰したのだ。
蒼真は青い軌跡を残しながら、その場を一気に離脱した。
やがて刀の動きが収まり、安全な場所へと降り立つ。
「はぁっ……はぁっ……!」
心臓が破裂しそうだった。
蒼真は腕の中の子どもを見下ろす。
「無事か!?」
子どもはしばらく目を丸くしていた。
そして、ぱっと表情を明るくする。
「お兄ちゃん、スーパーヒーローなの!?」
「…………」
蒼真は固まった。
スーパーヒーロー。
自分が?
(……いや、違う違う違う)
そんな大層なものではない。
ただの高校生だ。
さっきまで泣きそうになりながら逃げ回っていた、ごく普通の高校生である。
だが、目の前の子どもは、まるで本物のヒーローを見るような眼差しを向けていた。
「…………」
蒼真は周囲を見回した。
誰もいない。
少しだけ背筋を伸ばす。
「……早く逃げるんだ!」
できる限り格好よく言ってみた。
「うん!」
子どもが元気よく頷き、走り出す。
途中で振り返った。
「頑張ってね、ヒーロー!」
蒼真は片手を上げた。
「ママには内緒だぞ!」
「うん!!」
子どもが遠ざかっていく。
蒼真は笑顔のまま、手を振り続けた。
そして、完全に姿が見えなくなったところで。
「…………」
ゆっくりと手を下ろした。
背後では、相変わらず十八メートルの怪物が暴れている。
不死の少女も戦っている。
自分の手には、勝手に喋って勝手に飛ぶ刀。
何ひとつ解決していない。
「……どうしよう……」
小さな呟きが、瓦礫の街に虚しく消えていった。
### 第三章 ブラッドアンカー
ディアボロスとの戦闘は、なおも続いていた。
黒衣の少女は、巨体の周囲を駆け巡りながら攻撃を重ねている。
だが、状況は決して良くなかった。
少女の身体には、すでにいくつもの傷が刻まれていた。
そのたびに赤い稲妻が走り、傷は瞬く間に塞がっていく。
それでも、消耗そのものがないわけではないらしい。
少女の呼吸は、わずかに荒くなっていた。
「……しつこい」
低く呟くと、少女は両腕を広げた。
周囲の空間に、赤い液体が浮かび上がる。
今度は一本や二本ではない。
無数の血の粒子が集まり、次々と鎖を形成していった。
その先端には、鋭いアンカーが備わっている。
少女の赤い瞳が、ディアボロスを捉えた。
「――ブラッドアンカー!」
無数の赤い閃光が、夕空を切り裂いた。
鎖は四方八方からディアボロスへと殺到し、巨大な腕、脚、胴体、首へと次々に突き刺さっていく。
怪物が咆哮した。
だが、すでに遅い。
張り巡らされた鎖が一斉に引き絞られ、十八メートルの巨体をその場へ縫い止めた。
「……おおっ!?」
蒼真は思わず声を上げた。
あれほど暴れ回っていた怪物が、完全に動きを封じられている。
少女は両腕を広げたまま、全身で鎖を支えていた。
「今よ!!」
「何が!?」
反射的に聞き返す。
少女の額に汗が浮かんだ。
「早く!! もたない!」
――バキンッ!!
乾いた破裂音が響いた。
鎖が一本、千切れ飛ぶ。
続けて、もう一本。
――バキンッ!!
「……え?」
蒼真は慌てて後ろを振り返った。
誰もいない。
周囲を見回す。
やはり誰もいない。
「だから何が!?」
「いいから――!!」
少女が叫んだ。
「そいつを斬りなさい!!」
「…………」
蒼真はゆっくりと顔を上げた。
目の前には、十八メートルの巨体。
岩石のような身体。
巨大な爪。
そして、こちらを睨む真っ赤な瞳。
(……斬る?)
これを?
この刀で?
どうやって?
「無理だろぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
蒼真の絶叫が、夕暮れの街に響き渡った。
「早く!!」
「だからどうやって斬るんだよ!!」
「知らないわよ!!」
「知らないのぉぉぉ!?」
思わず叫び返した、その瞬間だった。
――ドクン。
心臓が、ひときわ大きく脈打った。
「……え?」
世界から、音が消えた。
少女の声も。
怪物の咆哮も。
遠くで崩れる建物の音も。
何も聞こえない。
蒼真は、ゆっくりと周囲を見回した。
瓦礫が空中に浮かんでいる。
火の粉が、宙に留まっている。
煙も、赤い鎖も。
そして、暴れ続けていたディアボロスさえ、ほとんど静止しているように見えた。
(……なんだ?)
何が起きた?
時間が止まったのか?
いや、違う。
止まっているように見えるだけだ。
蒼真の両眼が、鮮烈な青へと染まっていく。
眉間――両眉の内側、そのちょうど間に、小さな青白い光が灯った。
次の瞬間。
視界が、暗転した。
いや。
暗くなったのではない。
世界そのものが、変わったのだ。
目の前に現れたのは、巨大な門だった。
どれほどの高さがあるのか、見当もつかない。
見上げても、その頂上がどこにあるのか分からない。
人間が造れるはずのない、途方もない構造物。
表面には、青く輝く複雑な紋様が刻まれていた。
その巨大な扉が、ゆっくりと開き始める。
――ゴゴゴゴゴ……。
空間そのものが震えるような轟音。
門の向こうには、何もなかった。
光も、地面も、空もない。
ただ、完全な闇だけが広がっていた。
(……なんだよ、これ)
蒼真は後ずさろうとした。
だが、足が動かない。
いや、そもそも自分が立っているのかどうかすら分からなかった。
次の瞬間。
意識が、暗黒の奥へと引きずり込まれた。
「――っ!?」
加速。
凄まじい速度で、何かの中を突き進んでいく。
星のような光が、次々と後方へ流れていった。
どこまで進んだのか。
どれほどの時間が経ったのか。
その感覚さえ、失われていく。
そして――。
世界が、青く開けた。
「…………」
蒼真は息を呑んだ。
そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
無数の星々。
ゆっくりと回転する銀河。
空間に浮かぶ惑星。
そして、果ての見えない書架。
膨大な数の書物が、青い光に包まれた空間を埋め尽くしている。
目の前には、三冊の本が開かれたまま浮かんでいた。
ページには見たこともない文字が刻まれ、無数の情報が光となって流れていく。
記録。
記憶。
知識。
なぜか、そんな言葉が頭に浮かんだ。
だが、それが何を意味するのか、蒼真には分からなかった。
ただ、目を逸らせなかった。
恐ろしいはずなのに。
理解できないはずなのに。
その光景には、魂そのものを引き寄せるような、不思議な魅力があった。
「……なんだ……これ……?」
呟いた声が、青い空間に吸い込まれていく。
次の瞬間。
視界が再び変わった。
目の前には、ディアボロスがいた。
だが、先ほどまでとは違う。
漆黒の身体が、透けて見えていた。
岩石のような外殻の内側。
複雑に入り組んだ構造。
内部を循環する力の流れ。
そのすべてが、蒼真の目にはっきりと映っている。
そして――一本の線。
巨体を貫くように走る青い軌跡が、胸部の一点へと収束していた。
そこに、核がある。
誰かに教えられたわけではない。
そんな知識を持っているはずもない。
それなのに。
分かる。
あそこだ。
あそこを斬ればいい。
(……見える)
蒼真は、無意識に刀を握り直していた。
そのとき、頭の中に声が響いた。
『《アーカ・メモリア》――』
聞き覚えのある声。
先ほど、子どもを助けたときに聞こえた、あの刀の声だった。
『使わせてもらう』
「……え?」
青白い電撃が、刀身を包んだ。
嫌な予感がした。
猛烈に、嫌な予感がした。
「ちょっ――」
身体が勝手に動いた。
地面を蹴る。
いや、蹴らされた。
「また勝手にぃぃぃぃぃ!!」
蒼真の身体が、青い閃光となって空へ駆け上がった。
一直線。
ただ一点へ向かって。
ディアボロスの胸。
その中心。
核。
(無理無理無理無理!!)
十八メートルの怪物へ、自分から突っ込んでいる。
逃げるどころか、真正面から突撃している。
しかも、自分の意思ではない。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
青い光が、巨体を貫いた。
胸部から入り、背中へ抜ける。
ほんの一瞬の出来事だった。
世界が青く染まり、凄まじい衝撃波が周囲へ広がっていく。
蒼真はそのまま、ディアボロスの背後から上空へと飛び抜けた。
巨体には、一本の青い軌跡だけが残されていた。
静寂。
――ピシッ。
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
核に亀裂が走る。
次の瞬間、それは粉々に砕け散った。
ディアボロスの赤い瞳から、光が消えた。
巨体がゆっくりと揺らぐ。
腕の先端が崩れ始める。
脚が、胴体が、頭部が。
岩石のような漆黒の身体が、次々と黒い霧へ変わっていった。
十八メートルもの巨体が、風にさらわれるように空へ溶けていく。
やがて。
そこには、何も残らなかった。
黒衣の少女は、呆然とその光景を見つめていた。
切断された二本の赤い鎖。
消え去った怪物。
そして、上空へ飛び抜けた少年。
「ブラッドチェーンごと……斬った……」
その赤い瞳に、驚愕の色が浮かんでいた。
「この人間……やっぱり……!!」
一方。
当の本人は――。
「…………」
空中にいた。
蒼真はゆっくりと下を見た。
地面が遠い。
ものすごく遠い。
「……え?」
そこでようやく、自分が飛んでいることに気づいた。
(……なんで?)
いや、さっき刀に引っ張られたからだ。
それは分かる。
分かるのだが。
(……どうやって降りるの、これ?)
蒼真の顔から、血の気が引いていった。
### 第四章 厨二病、爆誕
神楽市の上空では、自衛隊のヘリコプターが旋回していた。
機内では、一人の隊員が双眼鏡を構え、眼下の光景を凝視している。
つい先ほどまで存在していた巨大生物。
全高十八メートルの、正体不明の敵性存在。
それが今、跡形もなく消えていた。
「巨大モンスター、コード・ジェノサイド……消失を確認」
隊員は慎重に無線へ報告した。
だが、その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
双眼鏡を下ろす。
もう一度、眼下を見る。
見間違いではない。
怪物は、確かに消えている。
そして、その付近には――。
「しょ……少年と、少女が……」
隊員は一度、言葉を飲み込んだ。
こんな報告をして、果たして信じてもらえるだろうか。
だが、見たものを伝えるしかない。
「倒したように……見えました……」
無線の向こうが沈黙した。
当然だった。
報告した本人ですら、信じられないのだから。
しかし、その光景を目撃していたのは自衛隊だけではなかった。
もう一機。
報道ヘリが、神楽市上空を旋回していた。
そのカメラが、空中の蒼真を捉える。
「…………」
蒼真は、遠くから聞こえてくるローター音に気づいた。
何気なく顔を向ける。
ヘリコプター。
こちらへ向けられた巨大なレンズ。
そして、機体に描かれた放送局のマーク。
「て……」
蒼真の表情が凍りついた。
「TVカメラ!! ヤバッ!!」
反射的に右手で顔を隠した。
今の姿を全国放送されるわけにはいかない。
学校で何を言われるか分かったものではない。
いや、そもそも日本刀を持って空を飛んでいる時点で、言い訳のしようがない。
(顔! とにかく顔だけは隠さないと!!)
強い風が吹きつける。
黒髪が激しく揺れ、制服の裾が大きくはためいた。
夕陽を背に、片目を覆う右手。
青い瞳。
黒い刀。
本人は必死だった。
ただ、顔が映らないようにしたかった。
それだけだった。
しかし。
映像として切り取られたその姿は、異常なほど格好よかった。
やがて蒼真は地上へ降り立った。
――ズザァッ!!
片膝をつき、刀を手に着地する。
風が吹き抜ける。
舞い上がる砂埃。
夕陽に照らされた横顔。
そして立ち上がった蒼真は、なおも右目を隠していた。
(……まだ撮ってる!?)
焦りながらも、カメラから顔を背ける。
その仕草が、さらに事態を悪化させていることに、本人はまったく気づいていなかった。
一方、テレビ局では。
「ご覧ください!」
興奮したアナウンサーの声が響き渡っていた。
「巨大な怪物を倒したと思われる少年が、こちらのカメラに気づきました!」
画面には、夕陽を背負って立つ謎の少年。
顔の半分を手で覆い、片目だけを覗かせている。
「顔を隠しています……!」
アナウンサーの声が、ますます熱を帯びていく。
「そして、このポーズ……!」
画面が蒼真の顔へと寄る。
風に揺れる黒髪。
鋭く見える青い瞳。
そして、右目を覆う手。
「まるで、こう言っているかのようです――」
アナウンサーは、妙に芝居がかった声を作った。
「『ふん……近寄るな。俺の右目に封印された力が――今、目覚めようとしている』」
もちろん、蒼真は一言もそんなことを言っていない。
「――とでも言っているのでしょうか!」
言っていない。
断じて言っていない。
「……いったい、この少年は何者なのでしょうか!?」
その瞬間。
日本のどこかで、数え切れないスマートフォンが光った。
匿名掲示板。
新しい投稿が、次々と流れ始める。
『【速報】このガキ誰だよwww』
『お前らテレビ見てる?』
『見てるwww なんだよあれwww』
『厨二病すぎて見てられんwww』
『こっちまで恥ずかしくなるんだがwww』
『自分で黒歴史作ってて草』
『厨二病』
そして――。
『主人公、降臨www』
『主人公すぎるwwwww』
投稿は止まらない。
誰かが画像を保存し、誰かが拡散する。
夕陽を背負い、右目を隠す謎の高校生。
その姿は、本人の意思とはまったく無関係に、ネット上を駆け巡っていった。
こうして幸村蒼真は。
世界が壊れた翌日を迎えるより先に――。
ネット上で厨二病になった。
本人の知らないところで。
その頃。
須藤ケンは、自宅のソファに座ってテレビを眺めていた。
片手には烏龍茶のペットボトル。
テーブルの上には、食べかけのポテトチップス。
テレビでは、先ほどから神楽市で発生した異常事態についての緊急報道が続いていた。
「……なんだよ、これ」
ケンは何気なく烏龍茶を口に含んだ。
画面には、巨大な怪物を倒したという謎の少年が映し出されている。
黒髪。
制服。
刀。
そして――あの顔。
「…………」
ケンの動きが止まった。
見覚えがある。
いや、あるどころではない。
毎日のように学校で見ている顔だった。
(……え?)
もう一度、画面を見る。
見間違いだろうか。
いや、でも。
あの髪型。
あの顔。
あの制服。
「…………」
次の瞬間。
――ブッ!!
ケンは口に含んでいた烏龍茶を盛大に吹き出した。
「げほっ! ごほっ!」
慌てて身体を乗り出し、テーブルへ右手をつく。
左手には、まだペットボトルを握りしめたままだ。
テレビ画面を凝視する。
そこに映っているのは、どう見ても見知った少年だった。
運動が特別得意なわけでもない。
喧嘩が強いわけでもない。
どちらかといえば、面倒事から真っ先に逃げ出しそうな、ごく普通の高校生。
幸村蒼真。
「…………」
ケンは目を見開いたまま、しばらく固まっていた。
そして、信じられないというように、震える声を漏らした。
「そ、蒼真……!?」
テレビの中。
世界を救ったかもしれない少年は――。
今日、日本で最も誤解されていた。
――第2話 了。




