フィルネの居場所
ナルシーの言葉に、フィルネの顔から先ほどまでの毅然とした表情が消え、明らかな動揺が見て取れた。
「……は、はい? 私……ですか?」
「そう。キミだよ」
二人の様子を見ていたグレンに、「おつかれさまぁ~」と、ポンと背後から肩を叩いたのはアリアだった。
しかし、いつもと違う異様な緊張感に包まれたカウンターの空気を瞬時に察知し、
「……ねえ、なに? この空気」と、アリアがグレンの耳元で囁く。
それにグレンが応えるより前に、ナルシーはフィルネへの説明を始めた。
「……私は、これでも驚くほど仕事に追われていてね。そこで実務に長けた秘書を切実に求めているのだが……如何せん、人を雇っても僕に緊張するのか使い物にならなくてね」
彼のような西方大陸を代表する伝説級の英雄を目前にすれば、呼吸をすることさえ困難な圧力を感じる者もいるだろう。
その点、フィルネはナルシーに対しても恐ろしく動じない。
あの不遜なまでのメンタルの強さは、もはや後天的な努力を超えた天性の素質なのかもしれない。
しかも、日々の殺人的な受付業務を神速でこなす彼女の処理能力も相まっては、ナルシーが喉から手が出るほど彼女を欲しがるのは、至極当然の話であった。
「……本当なら、グレンくんに頼めれば最適だったのだが。キミ、転勤するらしいじゃないか」
ナルシーが何気なく付け足したその一言。
それを隣で聞いていたアリアが、思わず「え!?」と声をあげて凍り付いた。
「グレンくん? どういう事? 転勤って……聞いてないけど」
「ああ、すみません。伝えていませんでしたね。実はギルド本部の決定で、別の支店へ異動する予定になってるんです」
「……もう! そういう大事な事は、もっと早く言ってよ! ……行先が決まったら直ぐに教えてよ? 一緒に行くから!」
当然の事であるかのように、アリアは言い切る。
そんな彼女の迷いのない宣言を聞いて、フィルネは一瞬だけ目を丸くして驚きを見せたが。フッと、何処か憑き物が落ちたような笑みを浮かべると、ナルシーに向かって凛とした声で答えた。
「……わかりました。お話の内容は、前向きに検討させていただきます」
「おお! 本当か。良い返事を期待しているよ。……では、ギルドとしての王国案件の処理も引き続きよろしく頼む」
そう言い残すと、満足げにナルシーは去っていった。
英雄がギルドから去った事を確認するなり、アリアが興奮気味にフィルネへ詰め寄る。
「……ギルドの受付嬢から、一気に王国騎士団長直属の補佐役?。とんでもない出世じゃない!」
「……私からすれば、アリア様のその異常なまでのフットワークの軽さの方が驚きですけど」
二人の言葉を聞きながらグレンは考えていた。
確か、フィルネの家庭環境は決して裕福とは言えないはずだ。毎日朝から晩まで働く両親と共に、高齢で介護に近い状態の父方の祖母、それに幼い妹と弟の生活を支えていると聞いた事がある。
両親が共働きで家を空けがちなので、彼女は家事のタスクをこなしつつ、ギルドで稼いだ報酬の半分以上を家庭に入れ続けているのだ。
そんな彼女にとって、王宮直属という仕事は、天から降ってきた最大級の幸運だろう。
とはいえ、騎士団長の補佐という事はギルドの受付のように一箇所で働くわけではない。彼の外交や軍事遠征にも同行する事になるだろう。
ただ、支払われる給与は現在の倍以上になり、何よりも『王国騎士団長補佐』という極めて強力な箔が付く。
それは単に彼女だけの問題ではなく、その家族も国の手厚い支援を受けられるのだ。
ナルシー・ロミリアンスという男も、ただ無駄に彼女へ毒舌を吐かれにギルドへ通っていたわけではなかったのだ。
彼は彼なりの観察眼で、日々混乱する窓口を冷静に裁く彼女の『非凡な才』を見抜いていたのだろう、とグレンは感心していた。
ギルドの営業終了後。グレンが店を出ると、そこには時間通りにアリアが手を振って待っていた。
今夜は夕食を共にする約束をしていたのだ。そのまま、二人はレストランへと向かい。カウンター席に二人、並んで座る。
注文を済ませ食事が運ばれてくるなり、アリアは先ほどギルドで起きた話題をグレンに振った。
開幕から辛口のワインを景気よくグイっと飲み干した彼女のトークは、当然のように転勤を黙っていたグレンへの激しい抗議から始まったのだが。
その後、話題は自然とフィルネの『転身』へとシフトしていく。
「……ねえ、グレンくん。私ね……ナルシーさんって、フィルネちゃんに気があるんじゃないかと思うんだ」
「……え!? フィルネのあの苛烈な悪態を目の当たりにして、ナルシーさんがそんな気になりますかね?」
「……グレンくん。あなたは相変わらず恋愛に対して鈍すぎるのよ」
アリアは確信を持って語る。
ナルシーのような雲の上の英雄にまで上り詰めた人間は周囲がイエスマンばかりになり、自分に対して遠慮なく接してくれる対等な存在が少なくなるのだと。
立場や権威に一切動じず、平然と罵倒し、気兼ねなく話し掛けてくれるフィルネの存在は。孤独な英雄にとって最も心安らげる相手だったのではないか? と、アリアは分析していた。
「……だって考えてみてよ。そうでなきゃ、多忙を極める騎士団長が、わざわざ嫌味を言われにフィルネさんの所に足を運ぶわけないでしょ? 他にも受付はいるんだからさ」
「うーん。……そうです?」
酔って顔を林檎のように赤くしたアリアが、目を細めてグレンをジロリと睨み付ける。
グレンが思わず視線を泳がせると。アリアは重いため息と共に、自嘲的なニュアンスを込めて答えた。
「……グレンくんってさぁ。本当に、自分に向けられる気持ちに鈍感すぎ。……そりゃあ、フィルネちゃんも二年間、相当な苦労を強いられたわよねぇ」
「……どういう意味ですか?」
「もし、フィルネちゃんが身軽で自由な冒険者だったなら。……きっと、この二年間。彼女は私のライバルになっていたかもしれないわね」
冒険者であるアリアのライバル─────。
その言葉を耳にしたグレンの脳内では、即座にフィルネの冒険者としての能力について考えていた。
実は隠された武術の心得とか、アリアにライバル意識を抱かせるほどの能力を秘めていたという事だろうか……と。
「……うーん。やはり僕には人を見る目が欠けているのかもしれませんね」
「……まあ、グレンくんは人一倍、鈍感という名の鉄壁の防御を敷いているから。……でも、その鈍さのお陰で。今の今まで残っていてくれたのなら。私にとってはラッキーだったよね」
そう言ってアリアはコトンと、その頭をグレンの肩に預ける。
物理的な距離がゼロになり、彼女の髪から漂う良い香りがグレンの嗅覚センサーを刺激した。心臓が途端に激しく鼓動を刻む。
「ねえ、グレンくん。……今日は、このまま私の部屋に……『お泊まり』していけば?」
明らかにアルコールによって判断能力が低下しているようなので、グレンは慌ててその提案を拒絶する。
「い、いや! それは流石にダメですよ!」
「……ふふ、こりゃあ私も攻略には相当苦労しそうだな。……ねえ、フィルネちゃんとグレンくんって、ずっと一緒に働いてるんだよね?」
「……まあ、二年ほどの付き合いになりますけど」
「……いいなぁ。羨ましい。……なんだか私、二人の完成された居場所を無理やり奪っちゃったのかな……なんて、思うのよ」
「一体、何の話ですか?」
グレンが言葉の意味を伺うも、アリアからの返答はなかった。
その直後。
規則正しいスースーという寝息が聞こえてきて、彼女が完全に酔い潰れた事を知ったグレンは。彼女を抱きかかえて二階の客室へと送り届ける事になった。
アリアをベッドへ横たえ、部屋を後にした後。グレンは夜風に当たりながら、再びフィルネとナルシーの関係性について考える。
アリアの提唱した「恋愛感情」という仮説が真実かどうかは判定不可能だが。とりあえず、フィルネは時として無鉄砲で、自分の身を顧みない危うさがある。
それが今後は、常にナルシーという最強の男の傍で働くのだから。ルウラを離れるグレンにとっても、そこは一つの安心材料であった。




