王配の出立
◇◇◇◇◇
── 聖王国。セルシート王宮 ──
「殿下……」
闇に溶け込むような声に、エルギルトは視線だけを月明かりの差す窓へと向ける。
「水巫女様は、海を越えた西方大陸のルベリオン王国領内です」
「西方へ逃れたか。よりによって、最も我が国の干渉が及びにくい西とはな。……誰がリュシカを?」
「国際手配中の大悪党、シャトルファング盗賊団の若頭──ビリディ・リエンです」
エルギルトの明晰な頭脳が、即座に状況の矛盾を弾き出す。
リュシカが聖王宮から拐われて、既に一ヶ月以上の時間が経過している。その間、国への身代金の要求も政治的交渉の打診もない。それなのに何故、特級の盗賊が『商品』である娘と行動を共にしているのか?
相手が血も涙もない盗賊なら、とうの昔に売られているか殺されていても不思議ではないのだ。
まさか盗賊ごときが、水巫女の規格外の力を利用しようなどと企んでいるとは考えにくい。この不可解な状況は、これ以上一刻の猶予も無い事を意味していた。
「……わかった。リュシカを絶対に見失うな。ワシ自身が直接向かう」
誰もいない窓の外へ向かってそう命じると、そこに確かに存在していた『気配』がフッと消え去った。
エルギルトは重厚な革張りの椅子から立ち上がり、自室を見渡す。
この無駄に豪華な一室は、聖王国の王配『エルギルト・クライスト』という絶対的な権力者の為に与えられた専用の空間だった。
しかし、王女であり、形式上の妻でもある『聖女、フリューシカ・セント・アール・クライスト』は、ここ数年、神殿の奥深くにある質素な祈りの部屋へ引き籠もり、ひたすら神に祈りを捧げ続けるだけの日々を送っている。
彼女がこの部屋に戻って来る事は、もはや皆無だった。
かつては、この部屋にて妻と幼い娘、三人で賑やかに過ごした記憶が残っているが。今では完全にエルギルト一人の孤独な空間となり、そして今宵、エルギルト自身もこの部屋を長期間空ける事を決断した。
聖女の神殿は政治の場である王宮のすぐ隣に鎮座している。
日中は一般の民衆にも開放されている救済の場だが、夜間である現在は厳重なセキュリティにより一般の立ち入りが制限される。
その厳かな神殿の最奥──大聖堂の祭壇で、フリューシカは相変わらず狂信的なまでに神に祈りを捧げていた。
「フリューシカ……」
「ああ、エルギルト。こんな深夜に一体どのような御用件ですか?」
「リュシカの所在が判明した」
その一言で、フリューシカは弾かれたように立ち上がり、パタパタと小走りでエルギルトの元へ駆け寄り、縋るように再度確かめる。
「ほ、本当なのですか!?」
「ああ。ただ、少々厄介な問題がある。故に、正規の軍や他国のギルドには頼らず、ワシが直々に迎えに行く事にしよう」
「あなた自身が!? ダメです、あなたは我が国の王配という立場なのですよ!?」
「愛する娘が、よりによって世界最悪の大盗賊に捕えられていると知れば。神の代行者であるお前でも、そう判断するのではないか?」
エルギルトの正論に、フリューシカは口元に手を当て、苦悶するように表情を曇らせた。
そして「しかし……」と反論を試みるも、エルギルトは容赦なく彼女の言葉を遮る。
「ワシの『召喚術士』としての能力は、お前が一番よく知っておるだろう? これは政治的判断ではなく、親としてワシがやるべき事だ。必ずリュシカを連れ帰る。お前はただ、ワシの『極秘の外出』を許可すればよい」
数秒の沈黙の後、フリューシカは祈るような弱々しさを捨て、聖女としての凛とした眼差しで答えた。
「……そうですか。では、エルギルト。あなたに命じます。必ず娘を、私たちのリュシカを無事に連れて戻って来なさい」
「承知した」
エルギルトは既にこの事態を想定し、いつでも出港できる準備を整えていた。
外洋に耐えうる頑丈な帆船、十分な武装、そして自前の軍隊を持たないこの国において唯一、エルギルト個人に絶対の忠誠を誓う二十名の精鋭。
食料と真水を船に積み込み、出港は人目を避けて日が昇る前の深い闇の中で行われた。
当然、船のメインマストに聖王国の国旗などは掲げない。この船に国家元首の王配が乗っているという情報が他国に漏れる事は避けるに越したことはない。
ただ、逆に国籍不明のまま旗を挙げずに航行する事で、拿捕を狙う海賊などに見付かれば容赦なく襲撃されるリスクは高まる。
しかし、エルギルトは中央大陸でも名を馳せた特級の召喚術士だ。海賊程度の烏合の衆など、彼の喚び出す軍勢の前に手も足も出ずに沈むしかないだろう。
目的地である西方大陸──ルベリオン王国政府にすら、エルギルトは自身の入国を一切伝達していない。
ルベリオンは完全中立国であり、聖王国との直接的な国交もなければ、他国間の紛争にも一切関与しないという強固なスタンスを取っている。
孤立主義の聖王国にとっては、他国の軍事的干渉を受けにくい最も安全な国と言えるが。逆を言えば、政治的な保護や捜索協力を最も〝頼れない国〟でもあるのだ。
仮に身分を明かせば、王配として普通にエルギルトを受け入れ、表面上の歓迎はしてくれるだろう。だが、もし聖王国を疎ましく思う他国のスパイにエルギルトの訪問が知れ、ルベリオン国内で軍事的なイザコザを引き起こすような事態になれば。
ルベリオン王国は自国の平穏を保つため、エルギルトを容赦なく国外退去処分にするはずだ。
ならば、最初から伝える必要はないし、エルギルトの論理においてそれで全く問題なかった。
いや、むしろ今回に限ってはそうでなくてはならない。
これはもはや聖王国という国家としての公式な行動ではなく、エルギルト個人の私兵を用いた『隠密作戦』だと言って差し支えないのだから。逆に〝誰にも〟知られてはならないのだ。
◇◇◇◇◇
────それから二週間以上の過酷な航海を終え。
エルギルトの乗る船は無事に西方大陸へと辿り着いた。幸い道中で海賊とのエンカウントもなく、船は港街マリンルーズへと極めてスムーズに入港を果たした。
大型船とはいえ、大砲が備えられたような戦闘艦でない以上は、どこぞの金持ちの船が寄港したようにしか港湾局には認識されない。
昨今の好景気では、成り上がりの高ランク冒険者ですら自前の大型帆船を所持していてもさして珍しくはない。
現在五十歳を迎えるエルギルトは、立派な髭を蓄えた厳格な顔立ちをしており、他から見れば歴戦のベテラン冒険者のようにも見えなくはない。
何より、この遠く離れた西方大陸でエルギルトの素顔を知る者など皆無だ。
こういった隠密行動の時は、聖王国が閉鎖的な島国であり、他国と殆ど外交を持たない『情報鎖国』であるメリットをエルギルトは痛感していた。
そして護衛を二人だけ連れ、マリンルーズの裏路地にある指定された酒場へと向かう。現地で動いている『協力者』と接触する手筈になっているからだ。
薄暗い酒場に入ると、昼間から出来上がっている数人の荒くれ客がいる。そもそも、エルギルトは協力者の『顔』を知らない。
正確には〝その組織〟には世界中に何人ものエージェントがおり、聖王国でコンタクトを取った者と、この大陸に駐在している者とは全くの別人である。
故に、基本的に向こう側がこちら側の動きを一方的に把握しており、こちら側としては、相手が話し掛けてくるのを待つ事しかできない。
取り敢えずエルギルトと付き添いの二人は、最も人目につきにくい壁際の空いている席に腰を下ろす。何も頼まずに居座るのは不自然なので、各々が一杯だけ西方大陸の名物だという度数の低い果実酒を頼んだ。
それから三十分程が過ぎると、酒場の客入りが多くなり、店内は喧騒で賑やかになってきた。
「エルギ……いや、エルさん。本当に待ち合わせの場所はここで合ってるんですか?」
付き添いの一人が、周囲を警戒しながらエルギルトに小声で訪ねる。
この作戦行動中、エルギルトの事は〝エル〟と呼ぶ事になっている。身分が割れるような堅苦しい敬語も、この際一切抜きというルールの元だ。
「……うむ。指定された場所は間違ってはいない。我々はただ、黙って待つしかない」
そう答え、エルギルトは残った果実酒のグラスを傾け、飲み干した。
すると突然、『真横の空間』から直接脳に響くような声が聞こえた。
「そうそう。下手にさぐらず、黙って待つのが正解にゃ」
エルギルトが驚愕して素早く横を向くと、そこにはいつの間にか小柄な女が、ちょこんと座っていた。
灰色のショートヘアー、その頭頂部からは、ピョコンと『白い猫耳』が生えている。
付き添いの護衛二人が完全に不意を突かれた事に慌てて腰の剣に手を掛け、席を立ちあがろうとするが。エルギルトは、それを静かな手振りで制した。
彼女こそ、探していた『協力者』である事を瞬時に理解したからだ。何故なら、かつて聖王国でエルギルトとコンタクトを取っていた者も、目の前の少女と全く同じ種族特性──絶対的な認識阻害能力を持つ『ケットシー族』なのだから。




