シラル村の少年
◇◇◇◇◇
── 中央大陸。『リンザール』 ──
「エイシュリッツ。あなたは〝あの子〟を辺境へ送った事を、今でも後悔はしていないのですか?」
白雪のような長い髪を揺らす可憐な女性──帝立魔法研究所の権威、『シオン・ハイド』の容赦ない問いに。冒険者ギルド最高責任者『エイシュリッツ』は、自慢の顎髭を無意識に撫でながら思考を巡らせた。
自らの手で我が子のように育て上げてきたのだ。物理的にも精神的にも親元から引き離すという決断に、不安がなかったと言えば嘘になる。
「……後悔していないと断言すれば、嘘だろうな。しかし、アイツはもっと『他人の感情』に触れなければならなかった。この本部ギルドという無機質なシステムの中に〝いるだけ〟では、お主も知っての通り、アイツは論理的なだけの〝ただの機械〟になってしまう」
「人として欠落する、と。……まあ、そもそも自らの肉体に高位の精霊を〝飼っている〟時点で、生物学的にまともな人間とは言い難いのですけどね。もし出向先で何らかの異変が起きて心が折れたら、次はもう立ち直れませんよ?」
「それも覚悟の上だ。あいつの心をあのように歪ませてしまったのは、他ならぬ我々の所為なのだからな」
エイシュリッツは、今でも網膜に焼き付いている。全てを呪い、ギルドという組織そのものを焼き尽くさんばかりに睨みつけてきた、あの六歳の少年の瞳を。
「……シラル村の一件、本当に痛ましい悲劇でした。しかし、何度も言いますが、あれはあなた個人の責任ではありません」
シオンは慰めるように言うが、エイシュリッツは悔いるように静かに瞳を閉じて思い返す。
否。あれは『民の味方』という建前を掲げて冒険者ギルドという組織を立ち上げた者が、等しく負うべき罪だったのだと。
かつて、中央大陸ギルスタイラ帝国の属国──ペイルース公国の東の辺境に存在した小さな村『シラル』は、周囲を険しい山に囲まれながらも、優秀な自警団の運用により長年平和を維持していた村だった。
しかしある日、シラル村近郊の山に『魔物の巣』らしき異常な発生源があるとして、公国の騎士団へ調査依頼が提出された。
当時、ペイルース公国は隣の同盟国【ラギア】で勃発した泥沼の内戦へ、戦力の半数以上を割いて派兵していた。残存兵力も戦火の飛び火を警戒して自国防衛にリソースを全振りしており、辺境の小さな村の依頼という〝利益の薄い案件〟に兵を回す余力など一ミリもなかったという。
そこでシラル村からは、遠く離れたこのリンザールに出来た冒険者ギルドへと依頼が投げられたのだ。
しかし、その依頼は、ただの一人の冒険者からも受けられる事はなかった。
理由は単純明快。万が一本当に魔物の巣であった場合の『想定リスクの高さ』。そして、シラル村までの距離と移動に伴う『タイムパフォーマンスの悪さ』からだ。
結局、命を金で量る冒険者たちの論理的な打算によって、その依頼は掲示板に一ヶ月以上も埃を被って放置されることとなった。
やがて、ギルド本部へシラル村から一人の少年がボロボロの姿で辿り着き。感情の抜け落ちた声で報告した。
村は、押し寄せた魔物の大群に蹂躙され、滅びた…と。
その少年がシラル村唯一の生き残りとして背負い込んだマグマのような怒りは、対応してくれなかった公国の騎士は勿論、冒険者ギルドと全ての冒険者へも向けられる事になったのだ。
「いや、紛れもなく我の責任だ。『冒険者ギルドは万民の味方だ』などと大層な理想を掲げて始めた事業なのだからな。それが肝心な時に採算を理由に動かないのでは、村を見殺しにしたのと同義」
「だから、あなたはその後、何年もの歳月と莫大な資金をつぎ込んで『ソティラス』を創設したではありませんか。全ては、あの時の悲劇を二度と繰り返さない為の、あなたなりの贖罪でしょう?」
エイシュリッツは沈黙した。
ソティラスというチームを作ったのは、確かに罪への懺悔だ。だがそれは同時に、自分の心の平穏を保つ為の……自己満足とも取れる免罪符でもあった。
その少年──グレン・ターナーは、魔物に襲撃された凄惨な現場で、自分がどうやって生き延びたのかという記憶すら完全に欠落させていた。
当時の彼からは、世界を呪う激しい怒りの波動と共に、人間の器に収まりきるはずのない、途方もない密度の魔力の漏洩が感知された。
その時のエイシュリッツは、その底知れぬ怒りが自分へ向けられる事に、純粋な生物的恐怖すら感じていた。だが、その因果の全てを引き受ける覚悟の元に、自らがグレンを育てる事にしたのだ。
「しかし、あの時。あなたが彼を連れてきた時には心底驚きました。人間の脆弱な肉体に、あろうことか〝精霊〟が宿り、魔力炉として機能しているなんてね」
「『精霊という存在は、極端に精神の均衡が崩れた者の隙に寄生する』と解説してくれたのは、お主だろう? つまり、我々の組織の構造的な過ちが、あの少年の精神を破壊し、あのようなバグを引き起こしたのだ」
「……彼の場合、先天的に精霊と適合していた可能性も捨てきれないのですよ。南方大陸の〝水巫女〟のようにね。とは言え、いまだにあなたの心は救済されていないようですね」
シオンは唐突に、悪戯な子供のように微笑んだ。
何故このような話の流れでそんな顔をするのか、とエイシュリッツの思考が一時停止したが。そもそも、彼女が今更こんな生産性のない昔話を持ち掛けてくる事自体が不自然だった。
「ところでお主。まさか、わざわざ我の過去の傷口を広げる為だけにここへ来たのではあるまい?」
「ええ、まあ。あなたの反応を観察したかったのは事実ですが、本題は別です。今日は、あなたの背負い込んだ無駄な負担を少しでも軽くしに来たのですよ」
エイシュリッツは、その言葉の意図が掴めず眉間に皺を寄せた。
するとシオンは、懐から一通の封書を取り出し、ヒラヒラと見せびらかす。
「先日、私の研究室宛てにこの手紙が届いたのだけれど。差出人は誰だと思います?」
「ん?なんの謎かけだ。いいから本題を話せ」
「ですよね。ではまず本文の概要ですが……とある女性の症状が詳細に記載されていました。彼女は先天性魔力血栓症という不治の呪いを抱えているようで。しかし驚くべき事に、彼女には〝無詠唱魔法〟の天才的なセンスがあるらしいのですよ」
(つまりは、魔力血栓症を患う女性自身からの、藁にも縋るような手紙か……)と、エイシュリッツは予測を立てた。
しかし、それが一体どうしたというのだ? と続きを促すと、シオンは楽しげに核心を突く。
「つまりですね。無詠唱という緻密な魔力制御技術を限界まで昇華させれば、血栓の元凶となっている停滞魔力を自力で消滅させ、病そのものを論理的に完治させる事が可能かもと、差出人は考えたわけです。そこで、この彼女を付属校で保護し、指導してくれないか? というのが手紙のメインディッシュです」
「なるほど。つまり、その女性の未来を救ってやってくれという、直々の依頼という事か」
「その通り。とても理路整然としつつも、根底に優しさが詰まったお手紙だと思いません? ……ちなみにこの手紙、遥か遠い〝西方大陸〟のルウラから送られてきました」
「それは感心だが、結局のところ、その手紙の差出人はどこの誰なんだ?」
シオンは、わざとらしく盛大なため息を吐いた。
「ここまでヒントを出して、まだこの論理的帰結に辿り着かないのか」と言わんばかりの呆れた表情を向けている。
エイシュリッツは少し仏頂面で「我が知っている恩義のある者だとでも言うのか?」と口にしてから、ふと〝西方大陸〟〝ルウラ〟というキーワードに、強烈なインスピレーションが働いた。
「──まさか、グレンか!?」
「はーい。正解です。彼はあなたが心配して過保護になる必要がないくらい、立派に『他人の痛みに寄り添える人』に成長されているようですね」
エイシュリッツは、文字通り目を剥いて驚愕した。
幼き日の憎悪に支配され、他者への興味という感情機能すら失っていたあの冷徹な少年が。見ず知らずの他人の命を救う為だけに、わざわざシオンへ宛てて『お願いの手紙』をしたためた。
その事実の持つ途方もない重みに、思わず目頭が熱く焼け付く。
「……あなたの行動は、間違っていませんでしたね」
優しく微笑むシオンの顔を見て、エイシュリッツは声も出さずに深く頷いた。
「あとは……そうですね。あの子の中で芽生えつつあるその大切な感情を、不当に逆撫でするような〝愚か者〟に出会わない事を祈るばかりです」
「……全くだな。あいつは論理のタガが外れると、誰も手につけられない災害と化すからな」
苦笑交じりにそうは言いつつも。
エイシュリッツの心の底には、長い間へばりついていた分厚い氷が溶けていくような、深い安堵が広がっていた。
それはまるで、罪を背負った自分自身が、他ならぬグレンの手によってようやく『許された』かのような、そんな心地よい錯覚だった────
しかし、その頃。
中央大陸から海を越えた南側。灼熱の砂漠が国土の面積の殆どを占める〝南方大陸〟。その過酷な大地を統べる大国【セルシアクベイルート聖王国】で、歴史を揺るがす事態が発生していた。
厳重な警備を誇るはずの聖王宮の奥深くから、一人の少女が〝何者か〟によって拐われたのだ。
その少女は、世界に二人しか存在しないという奇跡の代行者──〝真の聖女〟の一人。
神の威信を揺るがすその誘拐の報せは、瞬く間に風に乗り、世界中の情報網へと駆け巡る。
そしてその話は、まさに現在グレンのいる西方大陸、ルウラの街の冒険者ギルドにも、新たな火種として届こうとしていた────




