プロローグ
──── ベイナント渓谷。
そこは、夜の帳が完全に剥がれ落ちる前の、曖昧な薄暗がりに支配されていた。
冒険者「アリア・エルナード」は、剥き出しの大岩に背を預け、自分でも不快になるほど乱れた呼気を必死に正していた。心臓は肋骨を内側から叩き割りそうなほどに暴走している。
彼女の胸元を保護する鉄製のブレストプレートには、無慈悲で深い「溝」が刻まれていた。斜めに一閃。それは単なる傷ではなく、死神が付けたチェックマークのように見える。
──もし、この鉄の板を纏っていなければ。
想像の先にある、内臓を引き裂かれるような感触に辿り着く前に、アリアは思考を強制終了させた。止まらない冷や汗が防具の下の薄いシャツを湿らせていく。
そもそも、彼女の主義として重装備は好まない。服装の優先順位は、一に「機動力(逃げるためではなく攻めるためだ)」、二に「可愛さ(死に様を美しく保つためではない、オシャレだ)」である。
金属鎧などという無粋な代物を身につけていたのは天文学的な確率の「たまたま」に過ぎなかった。しかし、その偶然が彼女の命を繋いだのだから、運命というやつは皮肉なほどに気まぐれである。
アリアには、両親という概念が存在しない。物心つく前から彼女の親代わりは田舎の聖教会の冷たい石壁と、そこに流れる賛美歌だった。
神の御許で育てられた孤児。今回の幸運を「神の御加護」と呼ぶのなら、それはあまりにもギリギリで、あまりにも悪趣味な救済と言えた。
もっとも、彼女自身は敬虔な信徒とは言い難い。負けず嫌いで自分の実力こそが唯一無二の真理だと信じて疑わない性格だ。だが、呼吸をするように祈りを捧げる日常の中で、皮肉にも彼女には魔法の才能が芽生えていた。
教会のシスターから光の魔法を叩き込まれ、平穏な修道生活というレールが敷かれていたが、彼女はそのレールを自ら脱線した。
十六歳の誕生日、彼女が選んだのは神に仕える身ではなく、血と埃にまみれた冒険者としての人生であり。そこからの快進撃は、物語の主人公のようだった。
わずか二年でAランク。中央大陸北部で「アリア・エルナード」の名を知らぬ者は、文字が読めないか世捨て人くらいのものだった。
そして十九歳。ランクはAAに到達し、三週間前に新天地を求めて西方大陸へ。王都ルウラを拠点に、軽く仕事をこなす優雅な生活。
そう、彼女は「浮かれていた」のだ。
自分は特別であり、選ばれた強者であるという全能感。それは毒のように彼女の判断力を蝕んでいた。
敵は、たった一匹のゴブリン。魔物図鑑の最初のページに載っているような、最低ランクの雑魚。そいつがたった一匹で自分に剣を向けてきた時、アリアは鼻で笑うことさえしたのだ。
得意の光魔法『閃光の矢──ライトニングアロー』で、その緑色の醜悪な頭を貫き、一瞬で終わらせる。そんな簡素な、あまりにも簡素な作業工程を思い描いていた。
だが、現実は彼女の描いたシナリオを無残に破り捨てた。
そのゴブリンは、アリアの知る「ゴブリン」という種の定義を物理的に踏みにじっていたのだ。速さ、力、技。そして、その手に握られた武器の品質までもが、彼女の想定を数階層飛び越えていた。
「神がひきし輝ける光の矢は──」
詠唱の開始。それは死の宣告になるはずだった。
しかし、言葉が紡ぎ切られるよりも早く、ゴブリンは「距離」という概念を無視して肉薄した。振り抜かれた剣。アリアの生存本能が辛うじて身体を後ろへ弾いたが、そこで彼女は戦慄する。
届くはずのない距離から剣が「伸びた」。
ゴブリンが持っていたのは幻覚魔法を付与された魔剣だったのか。長さを錯覚させるその歪な刃がアリアのブレストプレートを無慈悲に引き裂いた。
それでも、彼女がAAランクを冠するのは伊達ではない。衝撃に意識を飛ばしかけながらも、反射的に『フラッシュ』の魔法瓶を砕き、同時に自身の速度を跳ね上げる『アクセラレーション』の瓶も叩き割った。
閃光がゴブリンの視界を奪い、風の加護を得たアリアは必死に近くの岩陰へと転がり込んだ。
致命傷こそ避けた。だが、計算はすべて狂った。西方大陸の魔物はレベルが低いなどという甘い認識は、今この瞬間に粉砕された。ここには規格外の怪物が潜んでいる。
詠唱の時間すら与えられない猛攻。高価な魔法アイテムを二つも消費した事実。
彼女は馬鹿ではない。ゆえに理解してしまった。
──この化け物に、今の自分では勝てない。
考えるべきは、もはや栄光ある勝利ではない。醜く、這いつくばってでも「生き延びる方法」だけだ。
大岩の端から震える視線を這わせると、そこにいたのは、自分を探し、殺意を隠そうともせず徘徊するゴブリン。
次の遮蔽物までは遠すぎる。一歩でも踏み出せば、あの魔剣の餌食になるのは明白だった。
ザッ、ザッ……。
容赦なく、等間隔に刻まれる足音。ゴブリンが、死神の歩調で近付いていた。
心臓の鼓動が耳元でうるさい。呼吸が浅くなり、酸素が足りない。自分の吐息さえも獲物を探すゴブリンの耳に届いてしまいそうで、上手く息を吸うことさえできなかった。
「死にたくない……」
無意識に零れたのは祈りの言葉ではなく、剥き出しの生存本能だ。
アリアの隠れる岩のすぐ向こう側に「死」が立っている。そんな気配をアリアは確実に感じ取っていた。
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