境内日陰ハ未ダ起キズ
煌々と揺れる提灯を手に、境内日陰は夜の町を歩いていた。
軍警官の証たる軍警服に身を包み、腰に差したサーベルの鞘を揺らしながら、どこかつまらなそうな顔をして、警邏に準じている。
「毎夜毎夜のことながら、本当に面倒」
家屋と家屋の隙間に提灯を向けて、その奧を確認しつつ愚痴る日陰に、後ろに居た同署所属の武林咲乃准尉巡査は困ったように眉を下ろしながらも、一つ咳払いをしてピシャリと言い切る。
「これも、仕事です」
彼女の返答に日陰は息をついて、提灯を咲乃に向けた。
日陰と同じ軍警服を纏った、しかし日陰とは違い胸部に女性らしい膨らみを持った咲乃の身体が闇夜に照らし出される。
「なんですか?」
猫のものに近い癖毛の髪が日陰の提灯に照らされ、髪に柔らかな艶を乗せる。
顔を提灯に照らされることを嫌ったのだろう、眼鏡にその光を反射させながらその彫像のように冷たくも美しい顔を歪ませ、少し横に逸らしてみせた。
「こんな仕事、いくらこなしたところで手柄は全て上の物代わりに危険は全て下の物。理不尽だ」
呆れるしかない。そう続ける日陰に同意するように小さく頷き、咲乃はそれでも一応言葉を選ぶように注意する。
「理不尽さもまた仕事です。この現状から抜け出したいのでしたら、貴方自身が上に行くしかありません」
「そう、全く持ってその通り正論だよ咲乃。がしかしまだ時期尚早。暫くはこのまま我慢しているしかない」
それは日陰がここ数年、軍警官になった当初から口癖のように言っている言葉であり、それに対する咲乃の返答もまた、口癖のように滑らかに発せられた。
「でしたら、今はこの仕事を完璧にこなすより他に道はありません」
幼少時より愛用している眼鏡は、ここ最近の成長に合わせる為、無理矢理弦の部分を広げたせいで今度は緩くなり、直ぐに落ちてくる。
それをいつものように片手で持ち上げて戻しながら、咲乃は迷える同僚であり自らが主人と定めた人物に、行きますよ。と言葉を与えると、自分はさっさと足を進めて行く。
「いつになったら僕はこの乱世に立つことが出来るのか」
「少なくとも今日は無理ですから、きちんと仕事をなさって下さい」
「我が愛しの部下の冷たさは夜風よりもよっぽど応えるよ」
軽く首を振りながら皮肉を口にする日陰の言を受けて、咲乃は一度足を止め、提灯の明かりとは違う朱に染まった顔を日陰に向けた。
「愛しの。そんな煽て文句で誑かされる私ではありませんから」
「そうか、それは何より」
「何より?」
「僕に惑わされない間は、他のどんな男の言葉にだって誑かされはしない、だから安心出来る」
清流のような軽快さで発した日陰の言葉に、あっさりと誑かされた咲乃は、即座に顔を前に向け、日陰の視線から逃れたがそれで全てを隠すことは出来ず、足運びの調子を乱した。
その後ろ姿を眺めながら日陰は小笑いし、そして視線を漆黒の暗幕を広げたような闇に覆われた空へと向ける。
星の灯りがいつもより弱く、それに同調するように月も小さく見える空。
日陰はその空を眺めながら、一つ言葉を落とした。
「未だ乱世に立つことは叶わず、この身はその時を待つ。か」
言葉にして自覚すると、やはりそれは焦れったく、待つと言う事が自分に向いていない事を実感した。
「しかし、いずれ」
「日陰様?」
着いてこない日陰に困惑し振り返った咲乃に向けて彼は笑顔を送り、空いていた手を握りしめた。
「僕はこの乱世に立つよ」
「……その日をお待ちしています」
静かに頭を下げる部下を前に、野望者は大きくしっかりと肯いて見せた。
朝と言うのはそれだけで億劫な気持ちになる。
境内日陰は毎朝思う。
人によっては朝はそれだけで清々しく、一日の始まりに何はなくとも期待してしまうと言う者もいるらしいが、日陰はその意見には頷けない。
そう思うのもひとえに夜の見回りが仕事の中に加わったせいだろう。
正規の見回り組はただ、町の中を見回ることだけが仕事となるが、軍警署から見回り組に派遣されている形の日陰達は見回りが夜であれば朝には軍警官としての通常業務があり、昼の見回りがあれば軍警官としての業務が夜に回される。
結果普段の倍働くことなり、かと言ってどちらの仕事もないがしろにすることは叶わず、結局睡眠時間にしわ寄せが来ることになるのだ。特にここ数日は見回り強化の令が出ているせいでろくに睡眠を取っていなかった。
窓硝子の前に貼られた障子が微かに開き、そこより差した朝日が、正確に日陰の顔を照らす。自分の寝ている位置と窓から入る朝日の角度を計算し、目覚まし代わりに使用している。
この日もまた、日陰は朝日の閃光によって目を開けた。
「……朝か」
つい先程目を瞑ったと思ったら、次の瞬間には暗かった障子の向こう側から明るい光を発している。そんな状況に嫌気がさしつつ、日陰は布団から起き上がった。
もうじき部下が日陰を起こしにやってくる。その時に寝ぼけ眼で迎える訳にはいかない。それは自分の沽券に関わって来る。
まだ朝方には冷えの残る季節、日陰は軽く肩を振るわせながら布団を上げ、寝間着姿のまま台所へと向かう。時計に目をやると、部下が現れるまで少々時間があった。
(今の家に朝食でも作っておくか)
今から来る者は部下であり、友人でもある男、鷹狩空太准尉巡査だ。どのみち自分も食べたいと抜かすだろう。
裏口を開けるといつものように卵が二つと瓶牛乳が二本カゴに入って置かれている。それを手にとって日陰は簡単な朝食の準備を始めた。流石にご飯を炊いている時間まではないので、昨日の夜に食べたご飯の残りをにぎりめしにすることで妥協する。
こうした時に日陰はいつも実家に残してきた自分付きの使用人を思い出す。
彼がいた頃は起きた時には既に朝食の支度が済んでいたのに。
微かに実家を恋しがりつつも、日陰は手早く料理を進めた。
目玉焼きと豚肉の燻製を焼いたものを主菜にして、ちゃぶ台の上に並べていると、玄関から呼び鈴が鳴った。
「開いてる。入ってこい」
乱暴な足音が廊下に響き、障子が開いた。
「不用心な。夜寝る前の戸締まりしろっていつも言っているだろが」
窘め文句の中にも、諦めの色が入っているのは、もう言い慣れてしまったせいだろう。
言っても無駄だと言うことが既に分かっているのだ。
「そうか悪かった。明日から気をつけるとしようか」
腕組みをしながら言った日陰の言葉も当然、毎朝繰り返される常套句となっている。
日陰の代わり映えのしない返答に軍警帽を外し、鷹狩空太は頭を乱暴に掻いた。
それは彼流の苛立ちの表れであり、言葉にして伝えるのが面倒な時や、上官の前でなど、こうして頭を掻いてその苛立ちを表現している。
ただ、今回について言えばそれは本気の苛立ちではないだろう。
その証拠に直ぐにいつもの表情に戻った空太は障子を後ろ手で閉めると室内に入ってきた。
日陰より三寸程背の高い空太は日陰を見下ろし、次いでちゃぶ台に置かれた料理に目をやった。
「二人分って事はご馳走してくれんだよな」
「その新聞を、僕に先に読ませてくれるのならな」
小さく笑い合い、二人は向かい合わせで畳の上に腰掛けた。
牛乳瓶の蓋を開け、一口飲みながら日陰は差し出された新聞にざっと目を通す。帝都で帝皇の聖誕祭が開催されているという記事が一面に大きく取り上げられていたが、日陰はその記事を一瞥しただけで直ぐに新聞を捲った。
「めぼしい記事はあったかよ」
大して期待はしていない単なる話題の一つとしての意味しか持たない問いかけに、日陰はある一つの記事を見つけて手を止め、空太に頷いて見せた。
「一つだけな」
その記事を指しながらちゃぶ台の中央に新聞を載せる。
目玉焼きを囓りながら、空太は視線だけ新聞に向けるとそこに書かれている文字を口に出して読み始めた。
「一ノ一町、豪家一ノ宮の令嬢を主と置く見回り組を設立、同町最大の見回り組となると予想」
「一ノ宮の令嬢は僕も知っている、一ノ宮小乃美、腕も頭も切れるなかなかの女傑だよ」
「記憶にねーな、そんな奴いたか?」
「この町で見かけたことはない。名家の跡取りに経験を積ませる為に、治安の良い地区へ移動させると言うのは珍しい話じゃない」
新聞を退け、日陰も目玉焼きに手を伸ばした。
「お前もそうなんか」
「僕は違う。経験を積ませるなんて良いものじゃない。単なる島流しさ」
「っても流されっぱなしでは終わらないんだろ?」
空太の言葉に、日陰はニィと口元に裂けたような笑みを浮かべて肯いて見せた。
「勿論。僕は必ず昇ってみせる。この乱世で僕の名を轟かせる」
それも日影の常套句であったが、ただ一つ、先程と違う点はその言葉は冗談では無く、毎回本気で口にしていると言うことだけだ。
「なら俺も付いていくぜ大将」
それに返す彼の言葉もまた、普段のおちゃらけた口調ではなく、本気の意味合いを持った物だった。
「……ッく」
「……はっ」
見つめ合っていた二人は同時に視線を下方に移し、何か言葉を詰まらせるように息を止め。
「ハハハハハッ」
「ハーハハハハハ」
同時に高い笑い声を上げた。
「朝から何を言っているんだろうな僕たちは」
「全くだ、さっさと食べて仕事に行こうや」
まだ笑いを残したまま、日陰は目尻に溜まった笑い涙を拭い、朝食の続きを取り始めた。その中でチラリと視線を広げたままの新聞へと移動させる。
「……しかし或いはこれは好機かも知れない」
「なんか言ったか?」
「独り言に茶々を入れるな」
「へーへー」
口元に歪んだ笑みを残しながら、乱世での台頭を目指す若者達はにぎりめしを口に入れた。