ソノ感情ノ名ハ、未練
軍警服の上着を着直しながら、日陰をまだ微かに息の荒い小乃美が見上げていた。
「お前は、最低だ」
低い唸り声に似た声に日陰は自嘲する。
彼女は自分を、自分のした行為に怒りを覚え今後自分に好意を抱くようなことはないだろう。
髪を掻き上げる為に持ち上げて手の隙間から小乃美の姿を覗き見た。涙は既に乾き、その瞳は虚ろなそれに取って代わっている。
「知っているさ。僕は最低だ」
「死んでしまえばいい、お前なんか」
呪いの言葉を受けながら、軍警服のボタンを一つずつ留めて行く。自分の動作が非道くゆっくりな事に彼は自分で驚いた。
これは未練だ。彼女に対する未練。
それを残して良い筈が無いのに、彼女にだけ見せた本当の自分はただ一度切りの逢瀬。
二度とその自分を晒さないと言う意思表示。
「僕は死なないよ。どんなに最低でも」
全てのボタンを留めた日陰は小乃美に背を向けて、出口へと向かう。
「僕には、神がついてるからね」
振り返って、一度笑ってみた。
それは自分でも分かる程、不格好で引きつった、おおよそ笑みとは呼べない不細工な物だった。
見上げられた瞳に力が入る前に、日陰はその部屋を後にした。
閉じられたドアの向こう側から感じる視線から逃れるように、誰もいなくなっている病室の前から、逃げるように離れて行った。
自分以外誰もいなくなった病室で、一ノ宮小乃美は自分の身体を抱くように手を回していた。
ここにはもう居ない誰かを抱くように。
機能を失った四指が痛むが、それよりも傷ついた自分の身体を慰める方が重要だった。自分の体を抱きしめるその腕は、彼女の負った痛みを少しだけ癒してくれるような気がした。
「あんな……が……かった、訳じゃ……」
言葉が自分の心を写し取ったように、素直に口から出て行く。
偽りでは無い素直な言葉に小乃美は少しだけ耳を貸した。
自分の発した言葉に自分で疑問を投げかける。
なら、どうしたかったのか。
そして、ここから先どうしたいのか。
傷ついた体と心で、自分は、一ノ宮小乃美は何を残したいのだろうか。もう少女の頃に思い描いていたような淡い女の夢が叶うことは無い。それは分かっている。境内日陰がいる限り、自分を傷つけたアイツがいる限り。
腕に力が入る。病服の上から握った肉が軋んで痛んだ。
「私は、何を望む?」
親身な問いかけと同時に力を抜いて彼女は一ノ宮小乃美は残った自分の腕に視線を落とした。
「私は……」
その拳を今度は空のまま強く握った何も無い筈の手のひらの中に、大切なものがまだ一つ残っていると信じて、一ノ宮小乃美は顔を持ち上げて赤く染まり始めた窓外の太陽に目をやった。
襟の中を伝う汗を指の腹で拭い、日陰は帽子を被り直した。
今考えるとなんと言うことをしたのだろうと、後悔の念ばかりが浮き出てくる。彼女を傷つけた。それだけは間違いが無いだろう。
あの時はそれが最善だと思った。小乃美に自分がどう言う人間であるか知らせるのが彼女の為だと言い聞かせて。
けれどそれば結局はただの自己満足だったのだろう。
自分の為ただそれだけの行動だ。
「どうしたものかな」
小乃美のことも気にはなるが、それと同様にこれからのことも少し考えなくてはならない。
小乃美の怪我の重さは、日陰の計算を大いに狂わせる結果となった。彼女が五体満足で自分の組に引き入れることが出来れば、情報と共に大きな戦力となり正政組の討伐をより確実なものに出来た筈だ。
けれどそれが当てに出来なくなった今、現時点での成功率は半分と言ったところだろう。
場合によっては。
自分の腕を知らずに強く握っていた。
その腕は何かを求めるように日陰の意志とは別に震えている。それを必死に留める為に日陰は強く手首を締めた。
血が止まり、白い肌が赤黒くなっても、まだ強く。
「場合によっては神頼みも止む無しだな」
最後に一度手首に力を加えて、完全に震えの止まった血の気の通わない腕をだらりと垂らし、日陰は開いている方の手でいつの間にか辿り着いていた執務室の扉を開けた。
「戻ったよ」
扉を開けて中に入ると、殆ど予想通りの光景が広がっていた。
椅子に座り執務用の机に身体を横たえて眠っている空太とその横で真面目に作業をこなしている咲乃、たまにはこの構図が逆転すれば面白いのに。
そう心の中でだけ思い、立ち上がって自分を迎えようとする咲乃を手で制止して、そのまま作業の続きを促した。
「お疲れ様です。時間掛かりましたね」
座り直しいつものように眼鏡を持ち上げながら言う咲乃に日陰は一瞬、先程の光景を思い出したがそのを顔に映し出すことはなく、ああ。と頷くだけに留めておく。
こういえば咲乃はそれ以上追求してくることはないだろう。
「お留守の間に入った情報が幾つかありますので、報告いたします」
「頼む」
「先ず一つ目ですが、昨夜の正政組の天誅。それについての被害の詳細です。こちらに纏めておきました」
「ん」
差し出された報告書を受け取り、それに目を通しながら手で話の続きを促した。
「あと一つは例の元中将警視監のご老人ですが、明日時間を取っていただけるように伝令を出しておきました、明日の昼間ならば時間が取れるとのことです」
「ご苦労様、仕事が早くて助かるよ」
「いえ、まだまだです。もっと早く仕事をこなせるようにならないといけません」
労いの言葉にも眼鏡に手を添えながら、首を横に振って否定する咲乃に日陰は関心と呆れを等分に含ませた息を吐いた。
「一人がこの有り様ですから、私が二人分働いても平均を取れば一人分の仕事しかしていません。ですけど、私は貴方にとって誰より使える部下になりたいので、その為の努力は惜しみません」
「殊勝な心がけだ。良い部下を持ったな僕は、涙が出そうだよ」
「日影様の涙など、私には勿体なさ過ぎます」
最後だけ少し茶化すように、その氷のような表情を微かに溶かして微笑むと、咲乃は踵を返して自分の席へと戻っていった。
「さて」
報告書に目を通し、日陰はこれからすべきことについて考えた。
当てにしていた策が一つ手が使えなくなった今、それをどう穴埋めするべきか、彼の想像通りならば正政組はかなりの組織力、それと同時にその強大な組織を一つにまとめ上げるだけの統率力も持っている。
けれど首領らしき者の情報は現在まで入ってきていない。
相当な武力を持った者か、頭の切れる者、財力を持った者、人を引きつける魅力を持った者、組織を束ねる為には何らかの力を持っているはずだが、それ程の人物は隠れていることもまた難しいはずだ。
噂程度でも、話が入ってこないのはおかしい。
「意図的なものを感じるな」
口に出しながら、やはり首領に関する情報は一行たりとも載っていなかった報告書を机の上に投げた。
「手詰まりか」
息を吐いて、思わず自分の口から出た言葉に驚いた。
部下のいる前で弱音を吐くなど、組の頭としてあるまじき行為だと彼は認識していた。
二人はそれを気にはしない、寧ろ弱みを見せたことを信頼の証として喜ぶかも知れないが、日陰自身はそうはいかない。彼の中にある理想の組長像からそれは大いに外れているからだ。
瞳だけ動かして、咲乃に目をやるが彼女は書類から顔を上げた様子は無い。
勿論聞こえているだろう。その上で無かったことにしているようだ。それは嬉しいと言えば嬉しいが、どうにも、部下に気を遣われるという状況は今までとは別の意味で辛いものだ。
「咲乃」
「……なんでしょうか」
「お茶貰えるかな」
はい、と日陰の言葉に切れの良い返事を返し、席を立つ咲乃の後ろ姿を見ながら日陰は再び息を吐いた。
「思ったよりも動揺しているのか」
小乃美との出来事を思い出し、日陰は顔を隠すように手で顔を覆った。
手は周りから表情を覆い隠してくれていても、手の中で自分が感じ取れる表情までは隠してはくれない。
自身の想像以上に動揺していることが、触れている手のひらからでも分かるような気がして、日陰は目を伏せてゆっくりと深呼吸を繰り返した。自分が何者であるか、何をするべきなのかを自分に言い聞かせるように強く念じながら。
「お茶をお持ちしました」
咲乃の声が近くから聞こえる。
もう大丈夫だ。
そう言い聞かせ、彼は顔を被っていた手を外し、咲乃に向かって笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
「いえ」
日陰の返答、と言うよりも彼の顔に浮かんでいた動揺が消えたことを察知したのだろう、日陰の知る武林咲乃という少女はそう言う女だ。
目元を緩ませ美しく微笑む己の従者を見ながら、日陰は彼女の持ってきた湯飲みに手を伸ばし、それを一口飲み込んだ。
やや薄めの日陰好みのお茶の味に、日陰も彼女と同じような微笑みを返し、机の上に投げ出された報告書を再び手にする。
「策が使えなければ次の策を考えればいいだけの話だ」
「そしてその策を伝えて頂ければ私達は命を賭けてそれを遂行して見せます」
「期待しているよ。あれはともかく」
あれ、と未だ机を己の寝具としている男を指さした。
「あれのことは私にお任せ下さい。足を引くようならば切り捨てますから」
微笑みを浮かべたままに言葉を重ねる咲乃に日陰は手を叩いて笑って見せた。
「それも期待してるよ」




